"自分を変える"
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
”自分を変える”ということについて考えてみました。エペソ人への手紙4章22-24節に以下のような言葉があります。
「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22-24)神は、私たちを即座に変える事もお出来になりますが、ゆっくり私たちを開発する方法を選んでおられます。主イエスは、ちょうど神がイスラエルの民に『約束の地』を“少しずつ”占領させていかれた(申命記7:22)ように、弟子たちの訓練においても慎重でした。神は私たちの人生にも段階を追って働かれることを好まれるのです。では、なぜ私たちが変わり、成長するのに、そんなに時間が掛かるのでしょうか?
私たちはゆっくりとしか学べない者だからです。私たちは、問題の原因をすぐに他人のせい、また状況のせいにしてしまうので、同じ問題を繰り返すことになります。私たちは、何かをちゃんと身につけるには、何十回も一つのレッスンを学び直さなければなりません。その中で、本当の問題が何であるかを学ぶのです。イスラエルの歴史は、私たちが如何に神からのレッスンを忘れてしまい、すぐにまた古い行動パターンに逆戻りしてしまうかを例証するものです。私たちは何度も同じ経験をしなければ学べない者なのです。
私たちには、捨て去るべきものがたくさんあるからです。多くの人がカウンセラーのもとに行き、長年に渡って生じた内面の問題をすぐに直してもらおうと期待しますが、実際には、それが直るには時間がかかります。私たちの問題のほとんどは、また悪い習慣のすべては、一夜にして身に付いたわけではないので、即座に改善されるものではないのです。悪い習慣を取り除き、良い習慣と入れ替えるためには骨の折れる取り組みが必要になります。聖書はこれを、「古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分を着ること」と呼びます。たとえ私たちが信仰によって新しくされても、取り除かれ、入れ替えられるべき古い習慣や行動パターンが私たちの中にまだ残っているのです。
成長は、しばしば痛みと恐れが伴うものだからです。変化のない成長などありませんし、恐れと損失のない変化もありません。また、痛みのない損失もありません。すべての変化は、ある種の損失を伴うものです。私たちは、新しいものを経験するために古いものを手放さなければなりません。しかし、私たちはこれらの損失を恐れるのです。たとえ私たちの古い習慣が自分に害をもたらすものであっても、それらはすり減った靴のように、少なくとも馴染み深い快適さがあるので替え難いのです。
良い習慣は、身に付けるのに時間がかかるからです。私たちの性格は、すべての習慣の総和であることを知る必要があります。私たちは習慣的に親切でなければ、自分を親切だとは言えません。私たちはいつも正直でなければ、自分を誠実とは呼べません。私たちの習慣は、私たちの性格を定義するのです。 キリストのような性質の習慣を身に付けるには一つの方法しかありません。それは、その習慣を実践し続けることです。それには時間がかかります。即座に身に付く習慣はありません。その事で、パウロは弟子のテモテにこう言っています。
「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい」(1テモテ4:15)今日の一言: 良い習慣を自分のものにしよう。平安鶴田健次
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