宗教と科学―相容れないものとして語られる両分野について、どのように考えればいいのだろうか。クリスチャン科学者たちがどのように「科学」と向き合ってきたのか、また、なぜ「宗教vs.科学」のように捉えられてしまうのか、その歴史を見つつ、これから考えるうえで参考になる書籍をご紹介します!
キリスト者学生会主事・志学会主事 鎌田泰行
私は今から二十年近く前、北米の大学院で学んでいたときにイエス・キリストを信じました。その後、北米と日本で学生宣教に関わってきました。
また、「志学会」というクリスチャン研究者ネットワークの事務局となり、日本と海外のクリスチャン研究者たちと交わりを持つ幸いに与りました。
さて、「キリスト教信仰と科学」と聞いて、皆さんは何を連想されるでしょう。対立や葛藤を思い浮かべるかもしれません。科学とは理系の学問で、一部の専門家だけが関わる、自分の信仰と関係のないことだと思うかもしれません。しかし本稿では、この対立や葛藤という図式が特定の時代の産物であるということ、科学は理系の分野にとどまらないこと、また科学はすべての人が関わるもので、特にキリスト者が神のみこころを求めて生きることが実は科学の発展につながりうることを分かち合います。
キリスト教と科学 対立と葛藤?
まず、キリスト教と科学の間には、対立や葛藤のイメージがあります。一方、自然界や人間社会を探究する営みは、創造主なる神とその思いを知ることにつながるとして、キリスト教信仰によって動機付けられてきた歴史もあります。
たとえば、天文学者ヨハネス・ケプラーは、「科学の最終目的は、人間を神に近づかせることである」ということばを残しています。
科学と宗教が対立するかのようなイメージが広く抱かれるようになった大きなきっかけは、ここ百五十年だと、十九世紀末の北米で出版された、J・W・ドレイパーの『宗教と科学の闘争史』(一八七四年、邦訳・一九四九年、創元社)と、A・D・ホワイトの『科学と宗教の闘争』(一八九六年、邦訳・一九五〇年、岩波書店)は言います。これらの書物は、歴史とは進歩を担う人々とそれに反対する人々の闘いで、進歩主義者たちの勝利によって現在があるという歴史観を掲げ、特にキリスト教を人類の進歩を阻む抑圧者に描きました。両書とも、欧米社会において科学の社会的影響が強まることと相まって、科学と信仰の対立イメージを広めるのに一役買いました。
ところで、科学とは何でしょう。国際学術会議(ISC:International Science Council)という世界最大の学術機関があります。同会議が二〇二一年に発表した『グローバルな公共善としての科学』という小論では、科学が、「合理的に説明され、その利用が信頼できるような知識の体系的な組織」だと定義されています。少しわかりづらいですが、科学的知識とは、論理性や、信頼性、また他の知識との整合性などが、一定の手続きに従って検証されることで成り立つということです。実際、私たちはさまざまな知識を持っていますが、そのすべてが科学的手法によるのではありません。個人的な経験や伝聞、さらに信仰などによっても知識を得て生活しています。科学は知識を得る方法の一つであり、それは他の方法と補い合って存在しています。
また「科学的」と聞くと、「間違いがない」と思われがちです。しかし、科学的知識にはいつも不確実性があるというのが、科学者の基本姿勢です。十九世紀末には科学によって世界のすべてが解明され、科学の発展が宗教を駆逐すると考えられていました。しかし二十一世紀初頭の今、理性と科学の力については抑制的な見方が主流です。むしろ、「信仰」という知識様式の重要性が再評価されています。
現代において、大多数の科学者は、科学と信仰が対立するとはあまり考えていないのではないでしょうか。以前ある集会で、科学と信仰についての分科会を行ったところ、参加した未信者の学生から、「科学と信仰が対立するなんて思ったことがない」と言われて驚きました。かつては科学と信仰が対立するかのように捉えられていましたが、現代は、両者の有用性と限界が意識され、共存が模索されている時かもしれません。
科学とは、理系で、専門家だけのもの?
ところで、科学とは理系の学問分野のみを指し、専門家だけが関わり、私たちの生活や信仰とは関係がないと捉えられがちです。一方、科学の範疇はもっと広いものです。先ほどの国際学術会議による定義では、科学は「自然科学及び社会科学領域、並びに人文学、医学、保健科学、コンピューター科学及び工学を包含し」ます。たとえば私が修めたのは歴史学ですが、これは社会科学あるいは人文学の一分野として上の定義に含まれます。科学は理系の分野にとどまらないのです。
そして、科学を担うのも専門家だけではありません。科学を職業としない私たちも、日々の生活や仕事の中で、科学的知識を生かし、科学的なものの考え方をしています。たとえば、現在のコロナ禍における教会活動について、私たちは複数分野の専門家に耳を傾けながら、礼拝の方式や感染対策に関して、祈りつつ最良の方法を検討します。専門の科学者ではなくとも、科学によって得られた知見と考え方を生かしているのです。
また、私たちが信仰の出発点に正しく立つためにも、科学的な考え方は大切です。その最たるものはキリストの復活です。パウロはコリント人への手紙第一、一五章一四節で、「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります」と書いていますが、イエスの復活を歴史的事実と認めることが信仰の土台にあります。
歴史学を修めた者として、私たちの信仰の土台に歴史的事実があるということは、栄誉にさえ感じることです!しかし、復活を歴史的事実と受けいれるためには、検討しうることもいくつかあります。イエスは実在したのか、復活があったと考えられる根拠はどれほどあるのか、新約聖書、特に福音書は、史料としてあてになるのか、等々。こうした問いに対して、私たちは専門家の意見を参照し、知性を働かせ、歴史学の手法に従って、科学的な検討をすることができます。私たちの信仰には、歴史的事実の検証などの知的な面と、主イエスに信頼して一歩踏み出すという人格的な面があり、どちらも信仰の健全さに必要です。
そしてキリスト者は、探求に招かれています。イエスを信じることは、「答え」を得たことであるとともに、神とその御思いを探り求める始まりでもあります。神のみこころが自分とこの地になることを求めて生きるとき、私たちは聖書とこの世界を謙遜に探求する必要と直面します。地球環境、エネルギー、経済格差をはじめ、課題は無数にあります。それらに取り組む中、科学の知見と考え方を用いることもあるでしょう。そして、現実の諸課題の中で最善を探り求める人々の存在が、実は科学の深まりと拡がりをもたらすのではないでしょうか。
おわりに
「キリスト教信仰と科学」における対立と葛藤のイメージは今や過去のものであり、また科学とは理系分野にとどまらず、一部の専門家だけのものでもなくてあらゆる人が関わることだということ、さらにキリスト者が現実の諸課題の中で神のみこころを求めて生きることが、科学の発展につながるのではないかと申し上げてきました。
信仰と科学という異なる知識の様式がどう共存するかにはいくつかの大切な課題もあります。本稿が、私たちにとってさらなる探求や対話のきっかけとなり、このテーマに関する主のみこころをさらに深く知れることを期待しています。
注
1 三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか』講談社、二〇一八年、一一〇頁。
2 A・E・マクグラス『科学と宗教』教文館、二〇〇九年、五二~五三頁。
3 https://council.science/
4 日本学術会議のウェブサイト(https://www.scj.go.jp/ja/int/isc/pdf/202111pp_jp.pdf)からダウンロード可能。
5 国際学術会議(ISC)ポジションペーパー『グローバルな公共善としての科学』二〇二一年、四頁。
6 同論文、四~五頁。
7 同論文、四頁脚注参照。
8 この重要なテーマについては、F・F・ブルース『新約聖書は信頼できるか』(聖書図書刊行会、一九五九年)や、G・ハーバマス Risen Indeed(Lexham, 2021, 未邦訳)などご参照ください。
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