信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」第16回 信仰と葛藤3 〜うめきをもって、主のもとへ〜

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

中村穣 (なかむら・じょう)

2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。

 

葛藤していると、人は強くなろうとします。強い信仰があれば、人のために何かできると思うかもしれません。しかし周りを見ると、人のために何かしている人は、弱さをもつ人が多いです。“他者のための自分”となるカギは強い信仰ではなく、自分の心にあるうめきを見つめることができるかだと思います。弱さを隠したり、その弱さと闘ったりするのではなく、弱さを主の前で認めるかどうかです。

弱いままでいい、ということではありません。自分の中にある弱さを主に委ねるとき、その葛藤から「他者のためという犠牲の愛」を神様が始めてくださる、ということです。弱さという不確かな要素から、神様の超越性への扉が開かれるのです。葛藤すること、そこには神様の希望があることを今日はお話しします。

 

“他者のための自分”は、どこから始まるのでしょうか。それは、私たちの心にあるうめきからです。他者のためになど到底なれない、という心の自己中心さを認めるところから始まります。自分の力ではどうしても外向きになれないという、うめきがあることに気づくことです。

自分のうめきを解決するのではなく、ありのまま、じっと見つめるのです。自分にさえ聞こえない心の叫び声を聴くように、静けさの中でじっと神様を待つのです。

すると、うめきがなくなることが神様と出会うことではないと気づきます。勇気をもって、“うめきをもつ私”としてありのままの姿で神様の前に静まると、自分と共に、御霊がうめいてくださっていることに気づきます。自分で自分を理解しようとせずに、そのままの状態(うめく自分)でいることで、聖霊もうめいてくださっていると気づかされるのです。

「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」(ローマ八・二六、傍点著者)。

うめきとは、暗闇の中で自分を見いだすようなものです。闇の中に置き去りにされてきた私がいることに気づきます。人によく思われようとして失敗した自分、自分に嘘をついて取りつくろっていた自分、人には見せられない醜い自分がいます。到底光など届かない暗闇に、傷ついた私がいるのです。

そこでもう一度、自分の意思の目を閉じ、魂を真空状態に任せてみる。するとそこに、一点の光があることに気づきます。私のうめきに届く天からの光。神様がそれを聞き、受け取り、満たそうとしておられることに気づかされます。神様がこのうめきを通して、私を呼んでくださっている。神様の愛、そしてもう一度、私を受け取る瞬間です。

このうめきを通して、私を導くのは、私の中にある信仰や指針ではなく、私の外におられる全知全能の神様であることを知るのです。神様が真実であられることを知る。私の中にある真実を手放し、私の外側にある、神様の真実を受け取る瞬間です。主なる神様が私をとらえ、私を迎え、私を愛し、共にいてくださるという真実を受け取るのです。それこそが、インマヌエルの神様と共に生きることです。ここから信仰者としての真の人生が始まります。「私」を超えて、神様が私を受け取り、神様から私が始まるのです。

ユダヤ人哲学者レヴィナスは、「私が他者の責任を負うということがなければ 、神という言葉は意味をなさない」と言います。強い信仰があれば他者のために何かできるのではなく、私のうめきを通して神様の犠牲の愛が始まるのです。そこで神様は、私のうめきと苦しみが「人のためにある」ことを教えてくださいます。うめきと苦しみが解決するのではなく、うめきと苦しみを通して神様が見せてくださる境地、私の痛みが人のためにあることを知るのです。そこでイエス様の十字架を見いだします。私たちのために苦しみを背負い、十字架に向かわれた意思と愛。そこに私たちの希望を見いだすのです。

いろいろあって、私が教会で居場所をなくしたとき、私たち夫婦を迎え入れてくれた先輩牧師が「人は誰かが傷つかないと癒やされない」と言って、私たちと共に痛み、泣いてくれました。そのときにはじめて、痛みを通して神様を見いだしました。私の痛みと共にイエス様が痛んでくださる。そこに私たちの真の癒やしがあります。そこで私たちは“他者のための自分”として新しく変えられるのです。すべてはイエス様の愛ゆえに。私たちは自分ではなく、他者へと意識を向け、愛を放つ者とされていくのです。

 

「わたしの苦悩において、神が訪れるのです。わたしの苦悩において苦しむその者、それが神です。」
(レヴィナス『超越と知解可能性』)

 

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