信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」第14回 信仰と葛藤①〜キリストを知ることを邪魔するものは?〜

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

中村穣 (なかむら・じょう)
2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。

   

あれだけ祈ったのに、なぜ祈りがきかれないのか―このような葛藤を、信仰者なら誰しも持ったことがあるのではないでしょうか。
現代、私たちは何事も論理的に説明すれば理解できる、と考えています。そして、自分に理解できる範囲で良いこと・悪いことの判断、つまり理性を保っています。この考え方は、歴史的にはわりと新しい考え方です。そして、絶対的なものではありません。特に問題と感じているのは、「自分の理解できる範囲で」という部分です。私たちの葛藤は、ここから始まるのです。その理由を、今回は見ていきたいと思います。

電車の中で座っている一人の青年がいます。次の駅で一人のご高齢の方が乗り込んできたとき、青年は席を譲ろうとしました。勇気を出して「どうぞ、お座りください」と声をかけます。すると、ご高齢の方は青年を見るなり、声を荒立てて「私はまだ席を譲られなくても大丈夫だ。迷惑だ!」と言いました。青年はその場を立ち去ってしまいました。もし、ご高齢の方が自分の思いにとらわれず、青年の思いを受け取って、「ありがとう」と伝えられたら平和が生まれたかもしれません。青年がどう思ったかはわかりませんが、自分の思いだけに支配されていたならば、「せっかく譲ってやったのに……」と相手の気持ちを汲み取れなかったかもしれません。

このことを通して思わされるのは、自分の持つ思いは、たとえ良いものであっても相手を傷つけることがあるということです。「自分は相手のためを思ってそうしているのだ」という、自分の理解できる範囲の思いを持っていると、相手の思いを受け取れません。それは、心の中が自分の思いでいっぱいで、相手の思いを排除してしまうからです。

神様との関係において、私たちも神様からの恵みを自分の理解できる範囲で求めていないでしょうか。

自分の欲しい答えだけを求めるのが信仰ではありません。神様の思いを受け取れない原因は、私たちの心にある、神様の見えない計画を自分の範囲で理解しようとする思いなのです。

 

現代の私たちの理性に対する考え方は、昔からあったのではなく、また絶対的なものでもありません。約十一世紀までは、私たちのこの「理解しよう」とする理性は、神様と関係を築くためにあるものだ、とみんなが常識のように理解をしていました。

十七世紀にデカルトは、自分の存在をどう証明するか考えました。そして、自分の存在について考える理性こそ、自分が存在している証拠だと考えました。それが、有名な「我思う故に我あり」という言葉です。ここから、人間が自らの内側に向かうベクトルの理性の重要さに重きをおくようになり、神様との関係を築くことよりも、「人間は何を理解できるか」のほうが重要になっていきました。

その後、十八世紀にカントは「どうすれば理解できるか」という理性の重要さを強調します。神様を理解する理性は否定され、宗教は人間が人間について理解するためのものとなり、私たちの目線は神様からそれてしまいました。

こうして私たちは、神様ご自身が知らしめてくださることよりも、自分が理性を使って、神様について理解しようとしてしまうのです。

神様の見えない計画を理解するということを、私たちは祈りや願いがきかれるかどうかを通して見いだします。願いどおりの時はいいのですが、そうではない時のほうが多いものです。そうすると、「どうして私の願いをきいてくれないのか」と葛藤が始まるのです。それは、真理を自分の理解できる範囲の中に探していることになります。超越した神様ではなく、自分の理解できる範囲で神様を理解しようとしてしまうのです。

結果的にそれは、神様ではなく、自分を見ていることになります。だから苦しいのです。私たちの葛藤を解決してくれる真理は、神様のうちにあります。私たちは、理解しようとする自分中心な思いから解き放たれることが大切です。そうすると、心に隙間ができて、神様が与えてくださっている恵みを受け取れるようになります。

そこから、本当の意味で神様を知るとは、私が理解することではなく“神様が私を知ってくださっているという関係”であることがわかります。真理は私たちの外側から来ることを教えてもらいたいと思います。葛藤を覚えるとき、自分自身のうちに解決を求めるのではなく、私たちが行くべきところはただ一つ、神様のもとなのです。

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