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ナラティヴと抽象的な命題の体系との違いは、前者は時間の流れに沿って展開するダイナミックな運動である、ということです。聖書全体を一つのナラティヴとして読む際には、それがどのようなプロット(筋)にしたがって展開していくかに注意する必要があります。
聖書のグランドナラティヴのプロットがどのようなものかについては、いろいろな捉え方がありますが(こちらを参照)、ここではライトの5幕劇のアナロジーを引き続き採用したいと思います。それは1.創造、2.堕落、3.イスラエル、4.イエス、5.教会~終末でした。すでにシリーズ第①回で述べたように、聖書はこの劇の台本にたとえることができますが、それは第5幕の最初の部分(初期キリスト教会)の部分までしか完成していません。その後の大部分は空欄であり、結末がどうなるかのラフスケッチしか残されていません。そして現代の教会はその未完の部分をアドリブで演技するように求められているということです。
では、そこでなされる「良いアドリブ」とはどのようなものでしょうか? それは、すでに完成しているプロットの流れの延長線上にあり、しかも期待されているフィナーレに向かってドラマを進めていくような演技です。したがって、現代の教会に求められているパフォーマンスは、(新約も含めて)聖書に記録されている神の民のパフォーマンスをただ繰り返すだけでなく、ドラマの結末、すなわち終末のヴィジョンに向かう軌跡 trajectoryに沿ったものでなければならない、ということになります。
もう一つ考えなければならない、良いアドリブの条件は、その直前になされた演技からかけ離れたものではないということです。それは同じ場所にとどまるのではなく、もちろん後戻りするのでもなく、終末のヴィジョンに向かって一歩前進することです。神は理想社会を一気に実現することはなさいません。そのようなヴィジョンは大方の人々の理解を超えており、無理に実現しようとすれば社会は大混乱に陥ることが予想されます。ですから、一度に一歩ずつ進む、ということが神のやり方であるようです。
それは階段を登る動作にたとえることができるかもしれません。私たちは階段を登るときには普通一段ずつ上がっていきます。運動神経の優れた人ならば一度に2段、あるいは3段上がることもできるかもしれません。けれども、一度に10段上がれる人はいませんし、100段ある階段を一歩で上り詰めることは誰にもできません。しかし、着実に一段一段上っていけば、やがては一番上までたどり着くことができるのです。
聖書は、このようにして神がご自身の民に対してその計画と目的を啓示しつつ、具体的な歴史的・文化的コンテクストに生きる人々を時間をかけて一歩ずつ導いてこられた歴史の記録と言っても良いでしょう。すでに述べたように、その内容は各時代の文化に完全に埋め込まれています。受肉のメタファーを用いれば、神は各時代ごとにその啓示を受肉させたと言えるかもしれません。神の民は基本的に同時代の文化的価値観に従って生きていますが、神はそのような価値観に寄り添いつつも、神の望まれる終末の理想的な社会に向けて一歩踏み出すように導かれます。
たとえば新約聖書が書かれたのは、家父長制と奴隷制が当たり前のように存在した時代であり、それは「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい」(エペソ5:22)や「僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい」(エペソ6:5)というエペソ書の言葉に反映されています。しかし同時に、これらのいわゆる「家庭訓」の冒頭に「キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである」(エペソ5:21)という言葉が置かれることで、そのような権力構造を超えた平等な関係性の可能性が示唆されています。同様にパウロはピレモンに対して、彼の元から逃亡した奴隷オネシモを奴隷以上のキリストにある兄弟として受け入れるように勧めています(ピレモン16-17)。
新約聖書は家父長制や奴隷制を否定していません。その意味で、そこに書かれている具体的な教えは現代の私たちから見ると時代遅れで受け入れがい部分もあるかもしれません。しかし同時に、そこにはそのような同時代の文化的制約を超えて、より平等な人間社会を目指す方向性も見出すことができます。新約聖書はそのような神の理想社会に向けて「一歩」(あくまでも一歩)踏み出そうとしているのです。
したがって、私たちは聖書テクストの表面上の文言を現代の状況に直接適用するのではなく、グランドナラティヴを通して浮かび上がってくる「贖いの運動」の方向性を読み取り、今私たちが置かれている地点から、その方向にどのようにして次の「一歩」を踏み出せるかを考えなければならないのです。
この「贖いの運動」という概念はカナダの新約聖書学者William Webbから借用したものです。彼は上で述べたような「贖いの運動モデルの解釈学」(Redemptive-Movement Model of Hermeneutics)というものを提唱しています。私が参照したのは彼のSlaves, Women, and Homosexuals(2001年)という著書ですが、少なくとも同書ではWebbは同性愛については否定的です(その後彼の見解が変わったのかどうかは未確認です)。同性愛については私は彼と意見を異にしますが、彼の解釈アプローチそのものはたいへん参考になるものだと思います。
このような聖書の軌跡を考えるならば、私はキリスト教会は聖書の読み方を真剣に考え直さなければならないと感じています。神は人間社会の文化を一歩ずつ変革し、ご自分の理想の社会に向けて導いて来られました。神の民(イスラエル、そしてその発展形としての教会)はそのために用いられてきた歴史があります。ですから、本来は教会こそがそのような変革のプロセスにおいて世界をリードしていくべき役割を与えられているのではないかと思います。
ところが実際の歴史においては、キリスト教会はしばしば反動と抑圧の象徴とされてきた悲しむべき現実があります。私はその一因は、教会が聖書に現されているダイナミックな贖いの運動を読み取ることをせず、表面上の文言をあたかも永遠不変の原則であるかのように固定して墨守してきたことにあるのではないかと考えています。それはちょうど舞台上の役者が突然自分に割り当てられた場面を演ずることを止めて、前の場面で行われた演技を延々と繰り返し始めたようなものです。教会が過去の文化に埋め込まれた聖書の表現に固執し続ける限り、神のドラマの進行はそこでストップしてしまい、フィナーレにたどり着くことはありません。
むしろ逆に世俗社会のほうが、例えば人権の尊重や地球環境の保全ということに関して教会よりも先んじている場合が多々あります。これは私の単なる憶測ですが、もしかしたら、特にキリスト教をルーツに持つポストキリスト教の西洋近代文明(日本もその影響を大きく受けています)が、聖書から人類社会発展のヒントを得ながらも、聖書の具体的な文言には縛られず、そうとは意識せずに神の理想に向かって進んでいる部分もあるのではないかと思います(もちろん、世俗文化の価値観すべてを肯定しているわけでは決してありませんが)。そうだとすると、それは大いなる皮肉と言わざるを得ません。
だとすると、教会がその根本的な聖書観を見直して、再び終末のフィナーレに向けて歩み始めない限り、社会とのギャップがますます大きくなっていくばかりでなく、歴史に対する神の計画の展開さえも妨げてしまうことになるのではないかと私は危惧しています。
もちろん、神はご自身の民を含む人間のどのような反抗をも乗り越えて、その計画を実現されることが、聖書の様々な箇所から推測できます。けれども、現代においては神はどのような形で、教会の誤りを正されるのでしょうか? もしかしたら、神が異教徒のバビロニアやペルシアを用いてかたくななイスラエルを強制的に軌道修正させたように、旧態依然とした教会が現代社会から学び、誤りを認めざるを得ない状況に追い込まれるのではないか――そんな可能性もないとは言い切れないと思います。過去には、たとえばガリレオ裁判に代表されるように、科学に関してそのようなことが起こりました。ガリレオの場合はカトリック教会が公に謝罪するまで、彼の死後350年かかりました。このシリーズで論じてきたLGBTQ差別の問題については、教会が過去の歴史から学び、同じ過ちを繰り返さないことを願っています。
次回はグランドナラティヴが目指す終末のヴィジョンについて、もう少し具体的に考えたいと思います。
(続く)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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