アブラハムの信仰

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「アブラハムの信仰」

秋葉正二
創世記15,2-6;

 パウロと言えば信仰義認ですが、きょうのテキストで彼はその主張を旧約のアブラハム物語を引用して論証します。 彼がアブラハムを引き合いに出すのは、ここだけではありません。 ガラテヤ書にもありますし、この後の9章にもあります。 義認とは神様と正しい関係に置かれるという意味ですが、パウロにとってすべての人が信仰によって義とされる根拠は、もちろんイエス・キリストが十字架につけられたことです。 しかし彼は生れながらのユダヤ人ですから、子どもの時からずっと律法世界で育った人です。 しかも律法を専門的に学んだ過去も持っているのですから、律法抜きに信仰を考えることは難しかったでしょう。 必然的に自分の書いた手紙で再三律法を論じることになりました。 ユダヤ教にとって宗教法である律法は中核ですが、このことが日本人にはとても分かりにくいのです。

 日本人にとって法律と宗教は別のものです。 ところがユダヤ教では法律である律法は神様との契約であり、ユダヤ人にとってそれは日常生活の一切合切を含むルールでした。 しかもそれ守ることは神様の命令に従うことでもあります。 イエス様もそうした環境の中で過ごされましたから、たびたび律法が記されている旧約聖書を引用されました。 多くのディアスポラのユダヤ人が暮らす異邦の地で、新しい形の伝道に踏み出したパウロにとって、イエス様の福音を異邦人に、また同胞のユダヤ人に伝えるためには、律法と福音の関係に触れざるを得なかったでしょう。 律法とは無関係に生きて来た異邦人に対しても、ユダヤ人が「信仰の父」と仰いでいたアブラハムを取り上げて、ユダヤ人であるイエス様の福音を説くことはむしろ自然なことだったかもしれません。

 創世記12章以下にアブラハム物語がありますので、そこを一通り読めば、パウロの主張は一層分かりやすくなります。 さて、パウロはまずアブラハムの信仰とはどんなものなのかを最初に提示します。 3節では創世記15章の記事を引用します。 アブラハムは「信仰の父」と呼ばれているけれども、決して道徳的に品行方正で人格優れた人ということではない、と言うのです。 これはユダヤ人にしてみれば、カチンとくる物言いでしょう。

 創世記15章のアブラハムは、神様に向かって族長である自分には一人の子も与えられないので家を継ぐのは一族の者だ、と不満と諦めの混じった言葉を吐いています。 それに対して神様は『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい』また『あなたの子孫はあのようになる』と言われました。 この神様の約束をアブラハムは何の疑いも挟まずに信じたことを創世記は記しています。 その記事を引用して、何の疑いも挟まず全面的に神様を信頼することこそが重要なのだ、とパウロは力説するのです。

 こうした信仰の在り方が神の前に正しいとされる、つまり義認の前提だというわけです。 その上で、彼は4,5節で人間の働きと信仰とを比較します。 働くという考え方に基づくならば、当然賃金が支払われるけれども、それは恵みではない、と言っています。 さらに、信仰という法則の下では、アブラハムのように全面的に神様を信じ切ることが信仰であって、これこそが義と認められるのだと主張します。

 馬鹿正直という言葉があります。 あまりに正直過ぎて愚鈍だ、気が利かないという意味ですが、こと神様に向き合う際にはこれこそが最も大切だという主張です。 私たちが、「あの人は信仰深い」と言う時には、大抵その人が行っている立派な振る舞いとか、信仰心とかから判断するのですが、そうした人間の側の判定が入る余地はない、という主張がここにあります。 神様のまえに自分をさらけ出すというのは、馬鹿正直に徹することが一番重要だという信仰の捉え方なのです。

 当時多くのユダヤ人がヘレニズム世界に離散していましたが、そういう人たちにとってもアブラハムは理想的な「信仰の父」でした。 その根拠にあったのが律法遵守です。 そもそも律法がイスラエルに与えられた出発点はモーセのシナイ山での神様との出会いですが、その後の契約信義の歩み方がイスラエルの信仰の中心になりました。 ところが、契約信義は時代と共に律法そのものに縛られていくようになってしまいました。 言わばパウロはそれを解き放っているのです。

 パウロの結論は、自覚的にも事実としても、本来神様の前には立ち得ない無価値な者が神様の前に立たせて頂くという逆説です。 さらに、彼はダビデ王まで引き合いに出しました。 6節以下です。 7,8節は詩編32編(1,2節)からの引用ですが、神様から義と認められるのは、行いによらず恵みによるのだということが強調されています。 『不法が赦され、罪を覆い隠された人々』と『罪があると見なされない人』は同じ意味です。 裏返した言い方をすれば、自らの行いによって正しい者として神様の前立ち得るという態度こそが罪だということです。

 9節以下の論法は、ファリサイ派の律法学者の道を歩んでいたパウロらしい言い方です。 割礼の中に信仰義認の考え方を閉じ込めようとするユダヤ人に対して、アブラハムの割礼は信仰義認の後に起こったことだよ、と指摘するのです。 どういう言い方をすればユダヤ人たちの主張を封じ込めることができるかを、パウロは熟知していたとも言えるでしょう。 ユダヤ人にとって血縁上の神の民の先祖であるアブラハムの存在は決定的に重要なわけですが、パウロはアブラハムをイスラエルだけの占有ではなく、ひたすら素直に神様を信じる人たちすべての「信仰の父」に変えてしまっています。

 考えてみれば、アブラハムの姿というのは、愚直です。 カルデアのウルを旅だった時も行先を知らぬまま旅だったわけですし、愚痴をこぼしていたかと思えば、「星を数えてみるがよい」という一言で、子孫の繁栄をそっくり信じて神様を受け入れてしまっている……どう見ても深い思慮に基づいているとは思えません。

 振り返って見れば、私たちの信仰もそのように与えられたのではなかったか、と私は思います。 決して理路整然と論理的に納得してイエス様を受け入れたわけではないでしょう。 ですからパウロが主張する信仰義認には聖霊の働きがセットになっていると私は理解しています。 私たちの信仰には神様の先行性があると私は考えます。

 神様の憐れみとか愛とかいろいろな表現ができると思いますが、聖霊の導きがなかったらきっと私たちは信仰など持つようにはならなかったと思います。 パウロの主張はその後の歴史から明らかなように、ユダヤ教を乗り越えて、キリスト教をより広い世界に広げる働きをしましたが、私たちはユダヤ教からも学ぶ点がたくさんあります。 少なくとも初期の律法は神様との関係において生き生きしたものでした。 単なる規則ではなく、神と人との生きたやりとりでした。 イスラエルの歴史は苦難の歴史そのものですが、何が起こっても、たとえ国が滅びても、彼らが神様から顔を背けなかった点は、驚嘆に値します。

 そういうイスラエルの歴史を通して人間を救う道を示された神様の計らいを、イスラエル人であるパウロが無視できるはずはありません。 彼はイエス・キリストに出会って新しい人生を得ましたが、それまでのイスラエルの歴史を通して人間の救いを示された神様の働きを、たとえ律法理解が硬直化してしまっているとしても、きちんと振り返っているのです。 律法に無縁な私たちや当時の異邦人に、その主張が「繰り返し繰り返し律法律法としつこいな」と映ったとしても、パウロは決してイエス・キリストの救いに先立つイスラエルの救いの歴史をカットすることはしなかったはずです。

 現代のイスラエル共和国は古代のイスラエルとは、基本的に別物ですが、少なくとも今もユダヤ教を標榜するならば、そこに平和に暮らしていた人たちを追い出すというような神様が悲しまれることをするのはすぐにやめてもらいたいな、と思います。 パウロの十字架のイエス・キリスト理解から発して、次々と繰り出される信仰上の主張は、長い時の流れを超えて、現代の私たちにそんなことまでも考えさせてくれます。 イエス様の十字架を仰ぐキリスト教の暦がもうすぐですが、エルサレムの平和を願いつつ、祈りたいと思います。


 
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