折々の言 17 隠れた所での祈り

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

一、祈りの冒険

 祈りについてよく知られた聖書の御言葉「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6章6節)に関して、『祈りの冒険』(キャサリン・マーシャル著 松代恵美訳 いのちのことば社 1980年)という本におもしろい一つの記述がある。

 それは「秘密と創造性」との関連を述べたもので、その例として、二人の歴史上の著名な人物のエピソードが載せられている。その一人はミケランジェロであり、もう一人は『老人と海』などの著作で知られるアーネスト・ヘミングウェイである。

 ミケランジェロについて言えば、システィナ礼拝堂の丸天井を描いたこの偉大なフィレンツェ人は、その絵を描くのに費やした四年間の大部分を、部屋に鍵をかけてただ一人で過ごしたという。

 一方ヘミングウェイは『日はまた昇る』という本の原稿を書き始めるのだが、その小説の一部分を、読み聞かせて、人々の賞賛を得たために、急速にその創造力を失ったという。

 これらの事柄からマーシャルは、1、著作に必要な創造力は、実際(非常に)デリケートな植物のようなもので、非建設的な批評の下ではたやすくしおれ、枯れてしまう。2、他人の考えが(本来の)自分の考えを曇らせ、内的確信を鈍らせ混乱させる、と推測し、この芸術の領域での発見は、創造的な祈りの領域にも共通するのではないかというのである。(同書92、93頁)

二、私たちの現実

 ところで、同様のことは、案外私たちの日常生活、例えば、大人と子供、教師と生徒、あるいは夫婦の対話にもよく認められるのではないだろうか。

 たとえば私は以前、P・トゥルニエの『人生の四季』から、子供は詩人の心でこの世界を理解しているのだから、大人も詩人の心を持つべきこと、またこうした子供の発想を、自由に豊かに受け止めるには、まず親自身が自由でなければならないという話を引用したが「子供を現実主義者に仕立て上げよう」と必死になりがちな親の常として、私たちは、つい子供が、幼い胸をときめかし、目を輝かせて、「ねえねえ、お父さん、お母さん聞いて聞いて」と、何かを発見したかのような喜びをもって走り寄ると、その余りにも現実離れした発想や意見に驚いて、「何をばかなこと言ってるのー」などと頭ごなしに否定してしまうのではないだろうか。

 このことを十分承知であったためか、トゥルニエはわざわざ「本当に自由な心を持った親の態度は、まれにしか見られないことです」と明言し、「子供を尊重するとは、子供の世界またその秘密を尊重することです」と、あえて断言しているのであろう。

 また、夫婦の間でも夫が何かを言うとき、鋭い現実感覚を持った妻にピシャリとやられて口を閉ざしてしまう場合などである。

 この点に関し、同じP・トゥルニエの『結婚の障害』(ヨルダン社)の中に、おもしろいエピソードがある。

 「夫はまず自分を隠すことから始めますが、その前に、彼女(妻)の鋭い能力をもった態度にぶつかって、デリケートな問題のすべての様相を妻に見せることが出来ないうちに、圧しつぶされてしまうのです……これは(妻が)長い時間耳を傾け、また理解しようと努める代わりに、あまりにも急いで応答したためにすべてをぶちこわしてしまったのです。」(同書31頁)

三、静かに祈り続けるということ

 このような事情から、私は今、自分の中に宿った思いは、そう簡単に口にすべきではなく、まして批判的な人々に軽々しく語るべきではないと思っている。

 想像力のつぼみは想像以上に傷つきやすく、性急な現実的な判断を受けてしぼんでしまったり、霧散してしまった体験が少なくないからである。(この点、正しさよりも、まちがいや失敗から多くのものが生み出されてきた事実は傾聴に値する事柄だと思う)

 このように見てみると、聖書には随所に同じような表現があることに気づく。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい……」(マルコ1章44節)。「イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになられた。」(同5章43節)

四、牧会の現場で

 ドレッシャーの『若い牧師・教会リーダーのための14章』(いのちのことば社)の本の中に、「冬ごもり」と称して印象深い一つの話が載っている。

 天候によって旅行が非常に制限された時代には、牧師たちは、一つの信仰的なテーマを抱えたり、ある著者の書物を携えたり、聖書の一書だけをもったりして「冬ごもり」をしたものであった。つまりこれは、聖書の中の一書や聖書教理や霊的な主題の特別な学びのために、一年の半分以上、毎日数時間を費やした現実があったということである。

 それゆえ、もしも私がもう一度、牧師をやり直すことができたなら、毎年、聖書の中の一書とともに「冬ごもり」をしたいと思う。(33頁)

 要するにドレッシャーは「冬ごもり」という一種の沈黙、黙想、静まりの中に冒頭の御言葉のように隠れた祈りに通じるものがあり、それはとても大切なものであると主張しているかのようである。

 この点、今日の時代は、驚くべき程の交通網あるいは情報網の発達によって、「こもる」ということが非常にむずかしくなった時代であり、それに伴って「黙する」「静まる」ことも少なくなる傾向が大きいのではないかと思う。「スピード」と「アピール」の突出した時代だからである。

 しかし、「隠れる」あるいは「隠す」ことなくして、真に価値あるものが生まれないのも依然として事実だと思う。とすれば私たちは、聖書が言う「隠れた所で見ておられる」神に、もっと深い祈りを捧げてよいのではないかと思う。

 日本語には「思いをあたためる」という素敵なことばがある。

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