地の塩、世の光となるために

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「地の塩、世の光となるために」

(山上の垂訓講解説教第2回)

陶山義雄
列王紀下2,19-22;

 私が前回担当させて頂いた6月2日の礼拝より、マタイ福音書に収められている「山上の説教」を礼拝のテキストに取り上げることを申し上げました。前回はその第一弾である「説教」の序文・「全ての人を招き入れる祝福の言葉」に注目致しました。そして本日はその続きである、マタイ記者が主の御言葉に聞き従う者の特質を、イエスの言葉集から選び出して、「あなた方は地の塩、世の光である」という言葉で纏め上げた所に注目致したく思います。他福音書では「地の塩」と「世の光」への言及はそれぞれ分かれており、しかもそれぞれ異なった場所に置かれています。「塩」への言及はマルコ福音書で云えば9章49、50節で語られています。これをマタイ福音書に当てはめれば、マタイ18章6節以下、ルカでは17章1~2節で、いずれも「罪への誘惑」を戒める箇所に当たります。また、「世の光」について、他福音書で、例えばマルコでは4章21節以下で、ルカでは8章16節と11章33節に記されています。元々それぞれ別の場で、別の機会に語られていた説教をここに纏め上げ、そしてイエスに従う者の特質へと高めたのはマタイ記者であったのです。

 そこで、本日のテキストに注目する前に、マタイ記者による「山上の説教」全体がどのように構成されているのかを概観して見たいと思います。

 5章1~2節でマタイはガリラヤ湖畔で弟子たちを集めてイエスが話し始めると言う情景設定を置いています。実際、そのような出来事はあった筈ですが、3章に渡るほどの内容が一度に語られたと云う訳ではありません。また、弟子たちに語っているのですが、内容全体をみると、一般の民衆に向かって話されているような情景描写に変わっています。

 また、3章に渡る話の内容をマタイが設定した5つの項目に収めている事も分かります。これはモーセ五書に準えて、また、シナイ山に準えてイエスが山に登り、これから旧律法に変わるイエスの新律法として山上の説教をマタイは提供しようとしている事が分かります。

(なお、この「山上の説教」は私が学位論文で取り組んだテーマでした。指導教授のW.D.Davies先生はマタイ福音書を5つの説教集に分けておられましたが、それに倣って私が山上の説教を5つに分類してマタイ記者の編集作業とその意図を解明した所です。(週報コラム参照)

(ニューヨーク・ユニオン神学校の同期生には松永希久夫、橋本滋男、川島貞雄さん等が新約聖書学を専攻しておられた仲間です。)

  1. 招き(祝福)の呼び掛け(5,3-12)
    弟子たち以外にも呼びかけている事が分かります。
  2. キリスト者の特質(=地の塩、世の光)5:13~16
    ・・・本日のテキストです。
  3. キリスト者の義について 5,17-6,18
    1. ユダヤ教に勝るキリスト者の義であること 5:17-20
    2. 旧律法に対する新律法 5,21-48
      (5つの対比・反対命題で解説:裁判、姦淫・離婚、誓約、復讐、愛敵)
    3. 旧儀礼に対する新儀礼 6,1-18
      (施し、祈り、断食、等を巡って)
  4. キリスト者の至高の倫理 6,19-7,12(天に積む宝、澄んだ目と明るい体、思い煩いからの自由、偽善に陥らない者、至高の倫理=黄金律: Do as you would be done by others)
  5. 結び 7,13-27
    (狭き門からの入道、終末への備え、砂上ではなく岩の上に建てた家のような人)

 このように、「山上の説教」は、元々、個別に語られたイエスの言葉を1つに纏め上げ壮大な説教集へとマタイ記者は仕上げていることが分かります。本日のテキストも2つの面から見詰めなければなりません。先ずは、マタイの編集作業によって「山上の説教」に収められたこのテキストをもって、マタイ記者は何を伝えようとしているのか、と云うことです。モーセの教えに勝るイエスの教えに聞き従う者、ユダヤ教に勝るキリスト教を信奉する者は、「地の塩」であり、「世の光である」とマタイは語り、この世に向かってそれに相応しく生きる道を、この後、説教集のなかで具体的にその生き方を指し示そうと意図しています。その教会の末裔である私達も、この世にあって「地の塩」、「世の光」として誇りをもって生きて行く。実に光栄ある勤めが二つの標語によって表されています。世々の教会は、またイエスをキリストとして仰ぎ、信じて従って来たキリスト者たちは、この二つの標語を受け継ぎ、それに相応しくあろうと勤めて来たことを思うと、マタイ記者の功績は実に大きなものであることが分かります。更に信徒の生き方について、どうすれば、「地の塩」となり、「世の光」となるのか、と云うことについて、これからマタイ記者は、集めたイエスの教えを学び、そのように生きることによって達成できる、としているのですから、実に分かり易い説教集ではありませんか。

 先ほど「山上の説教」を分析したように、これから沢山、教えを伺う訳ですが、その中でも「教えの中の教え」、「至高の教え」、「これが最高の教えである」、と迄マタイ記者は指摘してくれているのですから、これほど分かり易い話はありません。山登りをする時に、頂上が見えていれば目指す目標もはっきりしているので、登り易く感じます。そのように、イエスの門を叩く者は、目指すべき頂上、目標が示されれば求道の生活も、し易くなるでしょう。では「山上の説教」でマタイ記者が掲げた頂上にあたる「教えの中の教え」、「至上の道」とは一体どれでしょうか。これは、今後のテキストを勉強しながら、辿って行くのが良いと思うのですが、申し上げた以上は、お話ししなければならないと思います。ただ、「聞いておしまい」ではありません。実に含蓄のある言葉であり、世々の教会は、これをイエス・キリストの黄金律(The Golden Rule)と呼んでいる言葉ですから、掘り下げて行くほど中身がありますから、今後を楽しみにして頂きたいと思います。さて、その黄金律と呼ばれる、山上の説教の頂点をなす教えとはマタイ7章12節です:

「あなた方は人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」

 お断わりしておきますが、イエスがこれを黄金律にしたのではなく、マタイ記者がイエスの言葉から、これを最上位に据えて、山上の説教の頂点に据えたのです。マタイは、この黄金律のあとに「これこそ律法と預言者である」と云う解説を付け加えているのです。19世紀・イギリスの思想家・ジョン・ステウアート・ミル(1806~73)は「功利主義」を説いておりますが、功利とは「最大多数の最大幸福」であり、それはイエスの説いた黄金律にあると云っています。それはキリスト教の中心的原理である、とも唱えています。マタイの功績は実に大きなものであることが良く分かります。でも、イエスの視点から見れば、黄金律は教えの1つにすぎません。そして、「地の塩」、「世の光」もキリスト者の目標にするだけでなく、それぞれに意味のあるメッセージがイエスによって語られているのです。そこで、次に、マタイを離れて、イエスの言葉そのものに注目致しましょう。

 ここでは二つの表題が一つになって掲げられています。「あなた方は地の塩である。」また「あなた方は世の光である。」この二つの標語をもってイエスに従う者たち、キリスト者集団を言い表したのはマタイ記者でした。しかも、「招きの言葉」のように7つの祝福を掲げた、いわば、序文に続く「山上の説教」の主文として、この二つの標語をマタイ記者は掲げているのです。その内容は解説申し上げるまでもなく、どなたでも、直ぐに分かるような内容です。しかし「暗闇を照らす世の光」となるべきことは、そのまま良く分かりますが、「地の塩」については、多少、解説が必要なように思います。「地の塩」をもってどんな生き方が求められているのでしょうか。そもそもイエス・キリストはこの言葉をもって何を教えておられたのでしょうか。実は「地の塩」と云う言葉はマタイ福音書にしかありません。しかし「塩」についての言及はあります。最初の福音書であるマルコ9章50節に、こう書き残されています。原文に近く訳せば:

「塩は良いものである。だが、もし、塩が塩気を失くしたら(無塩になったら)、それを何によって味を付けるであろうか。あなた方自身の中に塩を持ちなさい。そして互いに平和でありなさい。」

となります。私達が用いている新共同訳聖書でもほぼ同じですが、最後の文章は「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とあります。「塩を持つことによって、互いに平和に過ごす」とはどう云うことでしょうか。これを口語訳聖書では「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい。」とあります。「平和に過ごす」とか「和らぐ」と訳している元のことばは「平和」を意味する「エイレーネ―」を動詞にした言葉「エエイレーネウエテ」(ειρηνευ・・τε)で、動詞とうぃて使われるのは大変珍しいことです。「平和」から来ていますので、「平和に暮らす」とか、「平和を保つ」とか、少しくだけて「仲良くする」と云う意味になると思われます。問題は、塩を持つことが、これは喩えですから「自分が塩になる」と云うのが、どうして平和に繋がるのでしょうか。塩が持つ特性については、旧約聖書を含めて幾つか例があります。

  1. 塩には強い殺菌力があります。列王紀下2章19節以下に、預言者エリシャが汚れた水源に行き、「塩を投げ込み、『主はこう云われる、わたしはこの水を浄めた。もはや死も不死もこおらない。』と記されています。
  2. 塩に殺菌作用があるところから、宗教儀礼で浄めの儀式に使われています。(レビ記2:13他4ヶ所)
  3. 塩は調味料として使うばかりでなく、腐敗防止のため、食料保存の漬物としても用いられています。(ヨブ記6:6、コロサイ4:5他)
  4. 更に旧約時代には「塩の契約」として、部族や集団の契りの不可欠さと固さをあらわす言葉にもちいられています。(民数記18:14、エズラ4:14)

 「あなた方は地の塩である」とイエス(マタイ記者)が語る時、それは塩の持つ特性を全て含めて述べているように思います。しかしマルコ記者が付け加えている言葉:「そして互いに平和に過ごしなさい」については、マルコを除いて聖書で他の何処にも記述が見当たりません。塩が何故、平和に結びつくのかも良く分からないかも知れません。私見ですが、他に見当たらない言葉こそ、イエスが語って下さった独自の言葉である、それを一番古いマルコ福音書が留めてくれた、でも、内容が良く分からないので、ルカ福音書(14:34)では省略しているように、後の教会は「塩をもって平和に過ごしなさい」というイエスの教えを割愛したように思います。

 では、もう一度、検証を試みてみたいと思います。「塩を持つことが、なぜ平和に過ごすことになるのでしょうか。」ヒントはこれを語って下さったイエスが私達に「塩をもって生きられた」のであれば、答えはそのご生涯にある筈ではないでしょうか。塩には調理の際、3つの役割があると云われています。それは「出し味」、「効き味」、そして「隠し味」です。私は、その最後の「隠し味」に注目したいと思います。例えば、お汁粉を造る時、甘みを更に引き出すために塩を加えます。すると甘みは一層引き立つわけですが、塩はその強烈な味を失くします。イエス・キリストは私達人間が神の御意のままに生きることが出来るようになるために、ご自身の命を捧げて下さった。おなじように、「地の塩」となるべき私達も人々のためにその身を捧げて行きなさい。」これが「そしてあなた方は塩となって平和に過ごしなさい」と語っておられる意味なのではないでしょうか。

 「平和に過ごす」という動詞として使われている箇所は、他にもう一か所あります。それはローマの信徒への手紙12章18節です:「できれば、せめてあなた方は、全ての人と平和に暮らしなさい。(私訳:できることなら、あなた方の側から全ての人と平和でありなさい)

 ロマ書12章9節から21節までは「キリスト教的生活の規範」(新292頁)と新共同訳聖書ではタイトルが付けられている通り、本日のテキスト、マタイ5章13節以下に良く似ています。(ご一緒に一読しておきたく思います。新292頁上段終わりより4行目から朗読)

 加えてエフェソの信徒への手紙2章14節以下では「平和」が名詞形として使われていますが、「地の塩」としてお働きになったキリストを「平和」と結び付けてパウロが語っておりますので、一読しておきたく思います(新354頁)。:

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。そうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 マタイ福音書では「あなた方は世の光である」と云う御言葉についても付帯事項が記されています。それは「山の上にある町は隠れることが出来ない」、と云う言葉と、「ともし火を灯して升の下に置く者はいない。燭台の上におく。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。」と云う二つの言葉です。これはマルコ4章21節から来ていて、「ともし火や光は全てを照らしてこそ、その役目を果たす」のに敢えて隠したり、独り占めしようとする人々を批判する言葉として掲げられています。暗にユダヤ教指導者への批判であったかも知れません。私達についても、学ぶことは全ての人のためである筈なのに、学歴として出世の道具、競争の武器になってしまえば、もはや暗闇を照らす光ではなくなってしまいます。これからマタイ記者がまとめたイエスの教えは「すべての人を照らすため」でなければならないこと、更には神の御栄えを顕すためであることを銘記するために締めくくりとして、こう語られています。:

「そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」

 マタイ記者は「塩」の前に「地」を加えて「地の塩」とし、また「光」の前に「世」を加えて「世の光」としました。そこには宣教の姿勢が強く掲げられています。私達も学ぶことの意味、塩と光が世のため、人のためであることを弁えて神の御栄えを顕す働きにこれより励んで行きましょう。

祈祷:

 父なる神様
数に足らぬ私達を召し集め、あなたの御国建設の働き人としてここに立てて下さる恵みを感謝いたします。どうか、「地の塩、世の光」となって、あなたの御子イエス・キリストに倣い、平和の勤めを果たすことが出来ますよう、私達を導いて下さい。


 
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