腐ったリンゴと神の国

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「腐ったリンゴと神の国」

廣石 望
出エジプト記12,1-20 ;

I

 〈一つの腐ったリンゴが、樽をまるまるダメにするOne rotten apple spoils the whole barrel〉という諺があります。小さな悪も、放置しておくと全体を腐敗させるというほどの意味です。

 私が中学生のころ、日本で中学・高校の大量退学が問題になり始めました。この時期に「腐ったリンゴ」という表現が、いわゆる「不良生徒」に対して用いられました。ある人々は、「ごく一部の不良に影響されて、よい生徒たちまで堕落したのでは元も子もない。腐ったリンゴは捨てるしかない」と論じ、別の人々は「それは余りに短絡的だ。もとはよい香りがしていたリンゴを腐らせたのは、そもそも誰か」と反論したようです。

 こうした対話におけるイメージの力は強烈です。不良生徒は〈腐ったリンゴ〉という視点からのみ把握され、学校はまるで不良品を選定する農業共同組合のようです。何れにせよ、このイメージは、伝染病のような「恐るべき悪の感染力」の比喩だと思います。悪の破壊的な感染力は、たとえば麻薬問題を考えてみれば私たちにもよく分かります。

 「神の国」が悪のない世界であるなら、〈腐ったリンゴ〉は決してそこに入れないでしょう。問題解決の方法は二つあります。ひとつは腐ったリンゴを新鮮なものにすること。もうひとつは〈腐ったリンゴ〉という言葉を「悪の感染力」とは別の連想で使う、つまりこの言葉を「悪」から解放することです。〈腐ったリンゴ〉の否定的なイメージが消えれば、それと同時に「不良生徒」に対する一面的な見方も消えるでしょう。

 そもそも「神の国」とは、殺菌された無菌室のような場所なのでしょうか。それとも「ばい菌」をも包み込み、それを神への感謝に発酵させてゆく力なのでしょうか。

 同じことを、〈ハレ〉と〈ケ〉の区別に結び付けることができるかもしれません。この区別は、時間と空間における清浄と不浄の区別に関わります。通常、〈ハレ〉の空間の清浄さは、そこから〈ケ/日常〉(およびケガレ)の要素を取り除くことで保たれます。「神の国」の清浄さも、同様の仕方でのみ保たれるものなのでしょうか。それとも「神の国」は、ケ/ケガレの中にハレを作りだす力のことなのでしょうか。

 

II

 パン種は自然発酵を促す練り粉のこと、発酵バクテリア(酵母)の住み着いた練り粉状の小麦粉です。通常、次につくるパンのためにその一部を練り鉢に残しておきます。現代のスーパーマーケットで売られているイースト菌は発酵バクテリアを品種改良し、より穏やかに作用するようにしたものだそうです。

 さてイスラエルの宗教伝統では、七日間つづく除酵祭――その初日が過越祭です――との関連で、パン種は〈不浄〉を、そしてパン種を入れないパンは〈清浄〉さを、それぞれ意味しました。

あなたたちは除酵祭を守らねばならない。……正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない。(出エジプト12,17-20)

 やがてキリスト教では、ユダヤ教の過越祭に代わるものとして、聖餐式が祝われるようになりました。それを祝う共同体の倫理的清浄さを保つよう勧める文脈で、パウロは相変わらず祭儀的清浄さのイメージを用います。

あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(コリント一 5,6-8)

 ここにいう「パン種」とは増殖する悪のシンボルであり、発想法それ自体はユダヤ教の除酵祭とまったく同じです。

 パン焼きは、ごく日常的な台所仕事です。ところが除酵祭の祭儀的な清浄観念から影響されると、この作業が異教崇拝を指すものになります。

彼らは皆、姦淫を行う者/燃えるかまどのようだ。パンを焼く者は小麦粉をこねると/膨むまで、火をかき立てずにじっと待つ。(ホセア7,4)

 ここでは小麦粉をこねてパンを焼く行為が、異教の神々を崇拝する行為の比喩になることができた理由は、やはり除酵祭のシンボリズムにおいて「パン種」が穢れを象徴するものであるからでしかありえません。

 

III

 他方で、「3サトン」の小麦粉は約40リットルに相当するそうです。かなり多いですね。これだけの小麦でパンを作るには、約2キロのパン種が必要です。そして焼けば、約50キロのパンができる。これは150人以上の食事が賄える量です。

 いったいどんなときに、こんなに大量のパンを焼くでしょうか? それは祝祭に際してです。つまり、この大量のパン焼きは、神顕現(エピファニー)と結びついています。

主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏し……アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」(創世記18,1-2.6)

 これは三人の主の使いがアブラハムに顕現したときの場面です。彼は妻のサラに「上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい」と命じますが、この「三セア」が3サトンに当たります。3サトンのパンとは神の顕現、神との出会いにさいして焼かれるパンなのです。

 そういうわけで、この譬えにはネガティブな要素とポジティブな要素、穢れを連想させる要素と、清さと聖性を連想させる要素が混在しています。――「パン種」が否定的要素の代表ですが、それ以外にそのパン種を小麦粉の中に「隠す」という表現も(新共同訳「混ぜる」は意訳です)、そして「女」という要素にもネガティブな含意があります。逆にポジティブな要素であるのが冒頭の「神の国」という言葉、そして「3サトンの小麦粉」という要素です。

 すると「膨れる」は、発酵現象はどうなのでしょうか? それは増殖する腐敗を意味するのでしょうか? それとも神顕現の力を暗示しているのでしょうか?

 私にはイエスの譬えは、意図的に文化的に「不浄」と結びつくイメージを用いて、「神顕現」すなわち「清浄」さの増殖的な聖化の力について語っていると感じられます。つまり「発酵」という現象を〈増殖する悪と穢れ〉というイメージから切り離し、むしろ〈聖なるものの力〉のイメージとして、イエスは用いるのです。イエスにおける「神の国」は、穢れと不浄の只中に、清さを作りだす「聖なる力」です。

 イエスにとって〈ハレ〉とは、〈ケ〉(俗)から〈ケガレ〉をとり除くことによって達成されるものではありません。むしろ〈ケガレ〉の中に〈ケ〉を超える〈ハレ〉を出現させるのが神の国です。典型的にはレプラ患者の治癒奇跡をご覧ください。イエスは当時の文化コードに従えば最高度の穢れを意味した空間に入り、そこで病人を癒しています。

 

IV

 同じような意味関連は、いわゆる安息日論争にもうかがわれます。イエスは、安息日の清浄さを、そこから不浄をとり除くことで守ろうとせず、むしろ安息日を、不浄を清浄へと変える聖化の力が働く空間と理解しました。

 伝統的な立場は、例えばこう言います。

働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。(ルカ13,14)
今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない。(ヨハ5,10)

 これに対してイエスは、こう問い返しながら治癒奇跡を行います。

安息日に許されているのは、善をなすことか悪をなすことか、命を救うことか殺すことか。(マルコ3,4)
この人はアブラハムの娘であるのに、サタンがなんと十八年にわたり縛っていたのだ。安息日に、彼女がこの束縛から解かれるのは当然ではないか。(ルカ13,16)

 皆さん、教会とはいったい何なのでしょうか?――俗世から分離された聖なる者たちの集まりでしょうか。日曜日とは、俗なるウィークデイから区別された、特別に聖なる日なのでしょうか。そのような理解は、教会史の歴史の中にありますし、今もあります。

 しかしイエスに即して考えるならば、それとは違った仕方で理解することも可能になるように感じます。すなわち教会や日曜日とは、痛みや苦しみや偽りなどの世の穢れ、つまり〈腐ったリンゴ〉を排除することで成立するのでなく、むしろそれらを各人がもちより、神の前に差し出し、浄化してもらうための場所であると。

  

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