中村穣 (なかむら・じょう)
2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。
〜礼拝で神様を感じなかったと思いながらの帰り道〜
「教会に行く理由」シリーズ三回目は超越された神様についてお話します。超越しているということは、私たちには理解できないということです。
平日とても忙しい中で、毎週日曜日礼拝に行くことは大変なことです。せっかく礼拝に行っても、よくわからないメッセージだったり(自戒を込めて)、何も感じることがなかったり、歌いたい賛美も歌えなかったりして、かえって飢え乾き、疲れが増すこともあるかもしれません。「せっかく来たのに……」と思ってしまいます。そこに神様がいなかったかのように感じるかもしれません。
しかし、あなたが何も感じなかったからといって、そこに神様がいないということになるのでしょうか? 実は、教会にはこの「感じない」や「わからない」ということが大切なのです。
地元の学校で聖書を教えているのですが、最初の授業でいつも言うことがあります。それは、“心のエンジンを止める”こと。学生たちは、学校生活でそれぞれ頑張っています。だから、この聖書の時間はその「頑張るエンジン」を止めてほしいのです。変な話ですが、わかろうとしないでほしいと話します。わかろうとするのではなく、ゆっくり耳を澄まし、受け止めてほしいのです。世の中には、わかろうとしてもわからないことがある。わかることも大事だけど、わからないことも実は大事です。なぜならそこにこそ、あなたの理解を超えるものへの可能性があり、あなたの視野が広がる奇跡があるからだ、と伝えます。
そして、一つのたとえ話をします。クラスのみんなで百点を取ろうと計画しました。しかし結果、一人だけ0点を取ってしまいました。そのとき、その人のことをどう思いますか。どうして同じことができないのか。どうして努力しなかったのか。KY(空気が読めない)なやつだとレッテルをはり、見下し、仲間外れにするでしょうか。
しかし、表面的に同じことができなかったからといって、その人を仲間から外すのはどうでしょう? もしかしたら家庭の事情で、勉強したかったけれど“どうしても”できなかったかもしれません。本当は、誰よりも勉強したかったかもしれません。その人の心の内側を知らないで、見えるところだけで判断してしまうのは寂しいことです。それよりも、どうしたのかな?と感じたら、相手の横に座って話を聞いてみる。休み時間にちょっと話しかけてみる。わからなくても相手を受け止めてみようと行動する。それは、とても大事なことです。目に見えない、理解できない部分にも大切なことがたくさんあります。聖書のクラスではそこに目を留めたいのです、と伝えます。だからゆっくりとこの時間を過ごし、正解を追い求めず、エンジンを止めて耳を澄ましてみよう、と励まします。
なぜなら、神様の愛はわかろうとしても、わからないものだからです。神様からの愛の声を受け取ることでしか、本当の神様の愛を知ることはできないからです。教会にも、このエンジンを止める時が必要です。そして、耳を澄まし、神様を待ちのぞむのです。そこから、神様の声を聞くことのできる入り口が見えくるからです。そこで私たちの思いをはるかに超越した神様を“理解する”のではなく、“出会う”のです。
私の教会では、ある実験をしています。それは、目に見える形をなるべくなくすことです。私たちは、週報などの見える形のものを持っていると、すぐに頼りたくなってしまいます。神様を礼拝することよりも、週報どおりに礼拝をしようとしてしまいます。そこでもし、週報に載っている賛美歌と違う賛美歌が始まったら、違うぞと思うかもしれません。しかし、たとえ違う賛美歌でも、同じように神様を賛美できるはずです。
私たちは自分の思いどおりに進む礼拝ではなく、神様主導の礼拝を体験するべきです。そのためには、この「思いどおりではない」「わからない」が大切です。なぜなら、そこに自分の境界線を越えて神様と出会う入り口があるからです。神様は、私の思いどおりという形で願いを叶えてくれるのではなく、私の思いよりもはるかに大きな計画と奇跡を現してくださいます。礼拝で、歌いたい賛美が歌えたと喜ぶのではなく、どんな賛美を通しても、神様のささやく御声を聞く姿勢が大切です。自分が欲しいものを感じなくても、神様はあなたの感覚、理解を超えて、必ずあなたに愛を注いでくださいます。
「神の方からその実在をあらわにしてくださらなければ、たましいには神の実在を信じる力はない。」
(『神を待ちのぞむ』シモーヌ・ヴェイユ)
※好評連載につき単行本化『信じても苦しい人へ 神から始まる「新しい自分」』
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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