「右手をわたしの上に置いて」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

今日の箇所の最初で、ヨハネはアジア州の各地で迫害に耐えている信徒たちに向かって、自分は「あなたがたの兄弟である」と言い、「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている」(9)者だ、と自己紹介する。小河訳によると、「イエス・キリストのうちにあって、艱難と王国と忍耐とをあなたたちと共に分かち合っている」となっていて、この方が心に響く。

「艱難と王国と忍耐とをあなたたちと共に分かち合う」。これは、主イエスを信じる者たちの深い連帯を表明する言葉である。私とあなたたちとは、主イエスのために同じ苦しみを経験している。「王国」、つまり主イエスが約束された「神の支配が近い」という希望も、そのための忍耐も共有している。

この苦しみと希望と忍耐の共有!主イエスを信じる者たちの間には、本来、このような連帯がなければならない。かつて世界の諸教会が、人種差別(アパルトヘイト)と戦った南アの教会に対して、あるいは民主化のための苦しみを担った韓国の教会に対して連帯を表明したように、我々は主イエスのゆえに苦しんでいる世界各地の信徒たちとの連帯を表明し、彼らのために祈らねばならない。

ヨハネは、「神の言葉とイエスの証しのゆえに」(9節後半) パトモス島にいる。小河訳では少し言葉を補って、「神の言葉[を伝え]、またイエス・キリスト[について証言した]ために」パトモス島に「島流し」にされた。そこで各地の信徒たちとの連帯を表明し、祈ったのである。この島は、ミレトス沖にある西キクラデス群島の一つで、周囲95kmほどの火山島だ。ローマ帝国はここを政治犯の流刑地としていたのであった。

このヨハネが、「主の日」、つまり、日曜日の礼拝の時に「霊に満たされた」(10)。預言者などによく起こることだが、一種の恍惚状態である。その中で、彼は「ラッパのように響く大声」が、「お前が見るものを小さな巻き物に書き取って」(11)七つの教会に送れ、と言うのを聞いた。続いて彼は幻を見るのだが、それは「ダニエル書」など後期ユダヤ教黙示文学の伝統に従って叙述される。色彩と音響に富んだ、不思議な幻想風景である。

一つ一つの叙述には意味がある。例えば、「七つの金の燭台」(12)とは今挙げられた七つの教会のことだ。それら七つの教会の中央に、「人の子のような方が」(13)立っている。その方の姿について、独特な描写が16節まで続く。これが「ダニエル書」の記述から影響を受けていることは、疑いの余地がない。

「人の子のような者」という言い方は、「ダニエル書」7章12節から来たものだろう。その他の叙述も、「その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった」(7,9)とか、「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった」(10,5-6)という描写とそっくりだ。このような思想・方法を、ヨハネは取り入れたのである。

さて、この「人の子のような方」とは誰か。

「足まで届く衣」(13)は、神と人間の仲だちをする祭司の服装であり、「金の帯」(13)は支配者の徴である。毛髪の「雪のように白い」(14)色は、天上界に属することの象徴であり、「鋭い両刃の剣」(16)はその口から出る言葉の大きな力を示す。その他の特徴もすべて、天におられる主イエスの栄光と力を示すものだ。

要するに、これは復活して天で生き給うイエス・キリストに他ならない。だから、「天上におられるキリストの姿」という見出しは正しい。

迫害の下で苦しんでいる時、人はしばしば見捨てられたように感じる。だがヨハネはここで、「あなたがたは決して見捨てられてはいない」と言っているのである。主イエスは十字架上で、「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」と叫んで、絶対の孤独の中で死んで行かれたが、あの絶望が人生最後の結論なのではない。彼は死者の中から甦らせられ、死に打ち勝って天に上り、そこから我々を見守っておられる。これが、迫害下にあった初代の教会の信仰であった。

ところが、ヨハネはこの時、「その足もとに倒れて、死んだようになった」(17)という。ダニエルも同様であった。「力が抜けて行き、…気力を失い、…意識を失い、地に倒れた」(10,8-9)とある。聖なる存在に出会う時、汚れた存在である我々は一旦打ちひしがれる。このような畏敬を知らない信仰は、本物ではないだろう。

だが、その無力感から我々を立ち直らせるのも、聖なる神だ。ダニエルの場合は、一つの手が彼に触れて「愛されている者ダニエルよ」(10,11)と語りかけ、彼を再び立ち上がらせた。ちょうどそのように、聖なる方は「右手をわたしの上に置いた」(17)、とヨハネは言う。「右手」は力の象徴である。力強い手が彼に親しく触れてきた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(17-18)。

「最初の者にして最後の者」とは、「アルファであり、オメガである」(1,8)方、我々の歴史の、また人生の、いかなる時点においても我々と共にいて下さる方である。歴史の支配者、死をも支配される方のことである。

その方が、いかなる時も右手をわたしの上に置いておられる!このことを信じよう。


 
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