アジア州にある七つの教会に宛てて書かれた手紙の二番目は、スミルナ宛てだ。
スミルナは、エフェソから北へ約70kmの海沿いにあり、エフェソと同じように良い港があって繁栄した町である。ローマとの往来も盛んで、ローマの女神を祀る神殿や皇帝礼拝のための神殿もここに造られていた。70年にエルサレムが陥落した後、沢山のユダヤ人が逃れて来てこの町に住みついたという。度々「ユダヤ人」に言及されているのは、そのことと関係があるだろう。
さて、ヨハネは先ず、手紙を書くように命じた方を紹介する。「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」(8節後半)。これは、1章17節とほとんど同じ言い方で、もちろん、「天上のキリスト」を意味する。
歴史の初めから終わりまで支配される方・あなたがたと同じように苦しみも死も経験された方・しかし死に呑み込まれず、復活して今も天で生きておられる方・どんな時にもあなたがたと共におられる方・生きる時も死ぬ時も我々の慰めであられる方。その方が、「わたしは、あなたがたの苦難や貧しさを知っている」(9)と言われる。これがヨハネの信仰であり、迫害下で苦しむ信徒たちの信仰であった。
アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちの信仰が単純であったように、また、中南米の「解放の神学」の母体となった貧しい人々の共同体における信仰が単純であるように、初代のキリスト教徒たちの信仰も単純である。苦しみの中にある人を支える信仰は、歴史上、常に単純であったし、今もそうである。
私は最近、毎日のように病床のK兄弟を訪れて枕元で祈る。病状が日に日に重くなり、かすかな反応さえも次第に弱まって行く彼の手を握って祈る時、余計な言葉はすべて削ぎ落とされる。そして、全く単純になって、どんな時にも私たちと共にいると約束された方・生きる時も死ぬ時も我々の慰めである方に向かって、ただ呼びかける。「今日も明日もこの人と共にいて下さい」。彼は、僅かに唇を動かして「アーメン」と唱和するように見える。
私は確信する。彼は今、人生の初めから終わりまで見ておられる方・自分と同じように苦しみも死も経験した方・しかし死に呑み込まれず、復活して今も天で生きておられる方・どんな時にも共にいて下さる方の胸に抱かれているのである。そして、その方が、「あなたの苦しみは私が誰よりも良く知っている」と言われるのを聞いているのだ。今日の箇所では、この単純な信仰が明らかになる。
さて、9節には「苦難や貧しさ」と二つ並べた言い方が出てくる。黙示録について優れた注解を書いた佐竹明氏は、このペアが詩編44,25に出てくることを指摘している。もっとも詩編では順序が逆で、「主よ、…なぜ眠っておられるのですか。…なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを忘れてしまわれたのですか」となっている。だが、順序が逆だということには別に意味はない。
重要なのは、ヨハネは詩編44,25を念頭において書いているということ、しかも「旧約においては苦しい問いかけで終わっていたものが、今やキリストにおいて肯定的に答えられている」という佐竹氏の指摘である。
苦しい時、我々は、「主よ、…なぜ眠っておられるのですか。…我らが貧しく、虐げられていることを忘れてしまわれたのですか」と呟きたくなるものだ。だが、あの天上のキリストを見上げる時、「わたしは、あなたがたの苦難や貧しさを知っている」という彼の声を、我々は確かに聞くであろう。――付言すると、佐竹夫人は、この数年重い病気で苦しんでおられたが、先週天に召され、今日の午後葬儀が営まれる。このご夫妻に対しても、天上のキリストは「わたしは、あなたがたの苦難を知っている」と語りかけられるであろう。
最後に付け加えたい。この苦難には「非難」(9)、つまり、いわれなき誹謗・中傷がついて回る。心ない言葉がどれほど人を苦しめるかは、我々も良く知る所だ。今日の箇所には、自称「ユダヤ人」によってこうした誹謗・中傷がなされたとあるが、ヨハネは、本当のユダヤ人はそんなことはしないので、これは悪魔の仕業に違いない、という意味のことを言っている。そのために、あなたがたの何人かは「十日の間」(10)、つまり、短期間ではあっても投獄の憂き目を見るかもしれない。もしかしたら、そのために命を失うようなことも起こるかもしれない。だが、「死に至るまで忠実であれ」(10)。
この言葉を、「最後まで信仰の節操を守れ」という厳しい要求と理解してたじろぐ人も多いと思う。遠藤周作『沈黙』には「転んだ」人々も登場するし、戦時中は軍国主義政策に追随したクリスチャンも多くいた。それが我々の現実である。
しかし、「死に至るまで忠実である」ということは、我々の人間的強さや勇気の問題ではない。むしろ、「主イエスが、十字架の死に至るまで忠実であった」という事実に固着する、ということである。この事実から、我々の真実さや強さからではなく、主イエスの忠実さから、すべては始まるのである。
その時こそ、我々は「本当は豊かなのだ」(9)と言えるようになり、そして、我々には「命の冠が」授けられる。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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