-
- 聖霊に対する冒涜とは何ですか?
「聖霊に対する冒涜」のことは、新約聖書で、マルコ3章22-30節とマタイ12章22-32節に出てきます。冒涜ということばは、一般的に「傲慢な不敬、不敬な言行」と定義していいでしょう。 神をのろうとか、神に関することについて卑下するという罪についてこのことばを当てはめます。悪を神の為すこととしたり、神に帰するべき良いことを否定したりすることも、冒涜に当たるとします。 しかし、マタイ12章31節での場合は、特に、「み霊に逆らう冒涜」と呼ばれています。マタイ12章31-32節では、イエスが聖霊の力で奇跡を行われているという証拠を否定できなくなったのを見たパリサイ人たちが、イエスは聖霊ではなく、悪霊のかしら「ビルゼブル」に取り憑かれているのだと言いました。(マタイ12章24節)マルコ3章30節に注目
-
- 言葉は人となった。(ヨハネ1:14)とはどういう意味ですか?
“ことば”という語は聖書では違った意味で使われています。新約聖書では、“ことば”と訳されているギリシャ語は二つの単語があります。 : rhema と logosです。この二つの語には少し違った意味があります。 Rhema はふつう“語られたことば”という意味です。例えば、ルカ1:38で、み使いがマリヤに、神の御子の母になると告げたとき、マリヤは答えました。「本当に私は主のはしためです。どうぞあなたのお言葉(rhema)通りこの身になりますように。」 しかしながら、Logosは、もっと広い哲学的な意味があります。 これがヨハネ1章で使われていることばです。 それはふつう、メッセージ全部のことを暗示していて、特に神の人間に宛てたメッセージのことです。 例えば、ルカ4:32で、イエスが群衆に教え
-
- イエス.キリストは何年にお生まれになったのですか?
聖書はイエスが正確に何日にベツレヘムでお生まれになったか、又は正確に何年にお生まれになったかさえ、記していません。しかし、少し詳しく歴史の順を調べると、適切な可能性の時間の窓を絞り出すことができます。 イエスの誕生の聖書的詳細は福音書にあります。マタイ2:1はイエスはヘロデ王の時代にお生まれになったと言っています。ヘロデは紀元前4年に死んでいるので、そこから考えることができます。さらに、ヨセフとマリヤがイエスを連れてベツレヘムから逃げた後、ヘロデはベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を殺すように命令しました。これはヘロデの死ぬ前に イエスは2歳ぐらいだったことを示しています。それで、イエスの誕生は紀元前6-4年だったということになります。ルカ2:1-2は考慮すべきいくつかの他の要因を記録していま
-
- イエスが平和の君(イザヤ9:6)というのはどういう意味ですか?
メシヤが来られるというイザヤの預言で、イザヤは言っています。「一人のみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な預言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。 」(イザヤ9:6)戦争と暴力であふれた世界で、イエスを、人間の歴史に働かれる全能なる神、平和の表現として見るのは難しいのですが。しかし、肉体的安全と政治的一致は必ずしも、イエスの言われるような平和を反映してはいないのです。(ヨハネ14:27)へブル語で平和を意味する語、シャロームは、しばしば個人、グループ、又は国家の平穏と落ち着きの見かけのことに使われます。 ギリシャ語の. eirene は、「統一、調和」という意味で、パウロはこの言葉を新約聖書の教会の目標を述べる
-
- イエスは紀元何年に亡くなられたのですか?
イエスの死と復活は、世界の創造以来、最も重要な出来事です。神が罪のゆえに神から離れて敵となっていた者を、「ご自分と和解させてくださった」「それは私たちを聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」それは、キリストの死を通してでした。(コロサイ1:21-22)そして、キリストの復活を通して神は憐れみをもって、「私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにして下さいました。」(1ペテロ1:3)聖書が記録するほとんどの出来事がそうであるように、イエスがいつ亡くなられたかは聖書は記録していません。しかし、かなりの正確性をもって想像することはできます。世界の時間は歴史的に紀元前(BC.キリストの前)とAD (anno domini ; 私たちの主の年)に分かれ
-
- イエスは罪がなかったのですか?
その通り。イエスに罪はありませんでした。私たちが天国で永遠に生きる希望があるのは、イエスに罪がなかったからです。もしイエスに罪があったら、罪のための犠牲はなかったでしょう。 アダムとエバが、エデンの園で神に不従順だったことで、この世界に罪が入って来ました。(創世記3:6)彼らの罪と共に、神が警告された通り、死が入って来ました。(創世記2:17) その結果、人間は罪の性質を持って生まれてくるようになりました。(ローマ5:12-19)そして罪の性質は、私たちが胎に宿った時からずっとついてくるのです。(詩編51:5) しかし、聖書はイエス.キリストは、すべての点で私たちと同じように試みを受けられましたが(へブル4:15)一度も罪は犯されなかったと明らかに言っています。。(2コリント5:21;1ヨハ
-
- 十字架の意味は何?
基本的に十字架の意味は死です。紀元前6世紀から、紀元4世紀ごろまで、十字架は、最もひどい拷問と苦痛を伴う方法による死刑の道具でした。 十字架刑は、囚人が木の十字架に括り付けられるか、釘で打ち付けられるかして死ぬまで付けられるという刑でした。 死は恐ろしく時間がかかり、非常に苦痛な死でした。しかしながら、キリストとその十字架上での死のせいで、今日十字架の意味は全く違っています。キリスト教では、十字架は神の愛と正義の交差点です。イエス.キリストは世の罪をとりのぞlく神の子羊です。(ヨハネ1:29)イエスを神の子羊というのは、出エジプト記12章のユダヤ人の過ぎ越しの制度を振り返って指しています。イスラエル人は傷のない子羊を捧げて、それぞれの家のかもいにその血を塗り付けるようにと命令されました。血は
-
- イエスの肖像画を持つことはいけないのですか?
神が人間に、最初に律法を与えられた時、神はご自分が誰であるかについて始められました。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神主である。」(出エジプト記20:2) イスラエルは他の神々があってはならない、神ご自身だけであると言う警告と共に。それに次いで、どんな像も〝天にあるものでも、地の下にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも”どんな形でも礼拝したり拝むための目的で造ってはならないという禁止令でした。(出エジプト記20:4)ユダヤ人の歴史上、おもしろいことに、彼らは他のどの戒めよりもこの戒めに反しました。 何度も何度も彼らは神々を代表する偶像を作って拝みました。それは、神がモーセに十戒を与えておられるちょうどその時(出エジプト記32章)黄金の子牛を作ることから
-
- イエスが礼拝をお受けになっている所を聖書は描いていますか?
礼拝するとは、〝神という存在に尊敬(敬意)を示す″ことです。もしイエスが崇拝を受け、それを受け取られたのなら、そうすることでイエスはご自分の神性を確信されたことになります。 これは重要です。なぜなら、キリストの神性を否定して、神よりも下の地位に置く人たちがいるからです。そうです、イエスは礼拝を受けとられました。三位一体の二番目の位格として、イエスは神だったので、今でも礼拝を受けられているのです。 イエスの人生の初めから、イエスが礼拝されている例を見ることができます。東の博士たちが幼児イエスを見るとすぐ、「 彼らはひれ伏して拝んだ」のです。(マタイ2:11)聖書は、イエスがエルサレムに入場されたとき, 最初に受けられた反応 を記録しています。それで、群衆はしゅろの枝を切ってイエスを迎えて叫びま
-
- イエスが成人されたとき、ヨセフはどこにいたのですか?
聖書でヨセフが最後に出てくるのは、イエスが12歳の時です。エルサレムへの旅の帰りに、イエスは 両親と離れてしまいました。両親は結局エルサレムの神殿で教師たちと話しておられるイエスを見つけます。皮肉にも、イエスが自分は天の父のわざをしなければならないと宣言されたときが地上の父のことが何も記録されなくなった時でした。(ルカ2:41-50)それ以後ヨセフのことが二度と出てこないので、学者たちのほとんどがイエスが公の宣教を始められる前にヨセフは亡くなったと推定します。カナの結婚式になるころは(ヨハネ2章)ヨセフは目立つほど欠席しています。私たちはマリヤがそこに居るのを見ますが、ヨセフのことはどこにも書いてありません。 イエスが30歳まで家におられた理由のひとつは、多分家族の面倒を見る責任があったから
-
- イエスが私たちの仲介者とはどういう意味ですか?
仲介者は仲立ちをする人-対立する両側の間に入って和解をさせる人のことです。仲介者は、論争を解決する目的で、二つのグループの不一致に影響を及ぼそうと試みます。人間と神の間の仲介者は一人しかおられません。それはイエスキリストです。この記事では、神がなぜ私たちと論争しておられるのか、なぜイエスが私たちの仲介者なのか、なぜ私たちが自分だけで神の御前に出ようとしたら、罪に定められるのかを見ていきます。罪のせいで、神は私たちと争っておられます。罪とは、聖書によると、律法に逆らうことです。(1ヨハネ3:4)そして、主に逆らうことです。(申命記9:7;ヨシュア1:18)神は罪を憎んでおられて、私たち皆と神との間に立ちはだかっています。「義人はいない。ひとりもいない。」のです。(ローマ3:10)すべての人は、
-
- イエスは無抵抗主義者だったのですか?
無抵抗主義者とは、どんな目的にせよ、すべての暴力、特に戦争に反対する人です。無抵抗主義者はしばしば良心、又は宗教的確信のせいで、武器を取ることを拒否します。 イエスは、いつか地上に本当の永続する平和をもたらすという意味で、”平和の君”なのです。(イザヤ9:6)イエスのこの世におけるメッセージは非常に無暴力です。(マタイ5:38-44) しかし、聖書は、はっきりと時には戦争は必要だと言っています。(詩篇144:1) しそして聖書のイエスの預言のいくつかを考えると、イエスを無抵抗主義者とは呼びがたいことです。黙示録19:15はイエスのことを述べて「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶね
-
- 他の宗教的リーダーとイエスはどのように違っていますか?
ある意味で、この質問は、他の太陽系の星と太陽はどう違っているかと言う質問のようなものです。つまり、私たちの太陽系には太陽以外、他の星はないのです。要点は、他の〝宗教指導者たち“とイエスキリストは比較できないのです。他のどの宗教のリーダーも今生きているか死んでいるかのどちらかです。イエス.キリストは一度死んで(1コリント15:1-8によると私たちの罪のために身代わりに死んで)今は生きておられる唯一のお方です。実に、黙示録1: 17-18 でキリストは、いつまでも生きていると宣言しておられます。他のどの宗教指導者も、このような主張さえもしていません。それは真理かまたは、途方もなくばかげた主張です。もう一つの重要な違いは、まさにキリスト教の性質にあります。キリスト教の本質はキリストです。キリストは
-
- イエスはいつご自分が神であることを知られたのですか?
イエスはいつも神でした。永遠の昔から、また未来にもいつで、いつでもイエスは三位一体の二番目の位格でした。人となられた後、人間のイエスがいつ自分が神であると知られたかという質問は興味深い質問ですが、聖書には書いてありません。私たちは、大人としてイエスが、完全に自分が誰であるか悟られたことは知っています。このことをイエスはこのように表現されました。「まことにまことにあなた方に告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)そしてイエスは祈って言われました。「今は、父よ。御そばでわたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ご一緒にいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)それにイエスは子供の時、すでにご自分の性質とそのわざについて知って
-
- イエスの人間性はなぜ重要なのですか?
イエスの人間性はイエスの神性と同様に重要です。イエスは完全に神でありながら、人としてお生まれになりました。 イエスの人間性が神性と共存するという考えは、限界のある人間の頭では、理解するには困難なことです。しかしながら、イエスの性質―完全に人間で、完全に神であること-は聖書的な事実です。中にはこれらの聖書的事実の真理を否定して、イエスは人間ではあるが神ではないと宣言する人たちがいます。仮現説というのは、イエスは神であって、人間ではないという説です。両方とも非聖書的でウソです。イエスが人間として生まれなければならなかった理由がいくつかあります。一つはガラテヤ4:4-5にあります。「しかし、定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者と為さいました
-
- イエスはなぜバプテズマをお受けになったのですか?イエスのバプテズマはなぜ重要なのですか?
一見すると、イエスのバプテズマには何の目的もないように見えます。ヨハネのバプテズマは悔い改めのバプテズマでした。(マタイ3:11)しかしイエスには罪はなかったので、悔い改めの必要はありませんでした。ヨハネさえ、イエスが自分のところへ来られたので、躊躇しました。ヨハネは自分の罪を認識して、罪人である自分こそ悔い改めが必要だと自覚していたので、汚れのない神の子羊 にバプテズマを授ける資格はないと知っていました。「私こそあなたからバプテズマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか。」(マタイ3:14)イエスは、答えて、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ3:15)イエスの公の宣教の初めにヨハネが
-
- イエスが罪人の友だというのはどういう意味ですか?
イエスが罪人の友と言う事実はイエスは私たちの友で、私たちがその臨在を認めて、イエスがいつもいて下さることを認識するのを願っておられるという意味です。私たちへの神の愛は想像に達しないほどです。私たちがイエスが肉体を取って、―天国を離れて、私たちの間で成長し、人生を経験するために、無力な赤子として生まれてくださったことを思うとき、私たちはその愛の深さをほんのかすかに見始めるのです。それに十字架での犠牲的死を加えると、その愛は本当に驚異的です。 〝罪人の友”になるためにイエスは自分からこの堕落、腐敗した世界に来て下さいました。この世は腐敗しているのですから。「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(ローマ3:23)私たちの罪深い状態にもかかわらず、イエスは私たちと関係を持
-
- イエスは肉体を取った神ですか?イエスが肉体を持った神であることはどうして重要なのですか?
イエスは処女マリヤの胎に聖霊によって宿ったので、(ルカ1:26-38)イエスキリストが本当に誰であるかはいつも懐疑論者たちに疑われてきました。まずマリヤの婚約者ヨセフから始まりました。ヨセフは、マリヤが身重であることを明らかにしたとき、彼女と結婚するのを恐れました。(マタイ1:18-24). ヨセフは、み使いがマリヤの胎に宿っているのは神の御子だと確信させた後、マリヤを妻に迎えました。キリストの誕生の数百年前に、預言者イザヤは神の御子の降誕を預言しました。「一人のみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)み使いがヨセフに話して、今にも起こるイエスの誕生を知らせ
-
- 空の墓の重要性は何?
最も初めの使徒たちの時期から、空の墓の現実性-ナザレのイエスの墓が空っぽだったことは弟子たちに発見されたという聖書的真理-はずっとクリスチャンの宣言の中心でした。4つの福音書のすべてが 度合いは異なっても、空らの墓を見つけた状況を述べています。(マタイ28:1-6;マルコ16:1-7;ルカ24:1-12;ヨハネ20:1-12) しかし、これらの主張が歴史的に正確だと思う良い理由があるでしょうか?公平な考えの調査者が、あの最初の復活祭の朝、イエスの墓が空だったことを多分発見しただろうという結論に達することができるでしょうか? 多くの歴史家たちに、十字架刑のあとの日曜日の朝、イエスが葬られた墓は実に空だったと確信させたいくつかの議論があります。第一に、イエスの墓の場所はクリスチャンにもノンクリス
-
- キリストの神性の最も強い聖書的議論は何ですか?
新約聖書がキリストの神性について非常に多く言及していることは、否定できません。 正典の4つの福音書から使徒伝、パウロの書簡まで、イエスは単にメシヤ(またはキリスト)として見られているだけでなく、神ご自身と同等にも見られているのです。使徒パウロがイエスを〝大いなる神であり、私たちの救い主であるキリスト.イエス」(テトス2:13)と呼ぶとき、キリストの神性のことを言っています。さらに、イエスは人として生まれる前から「神の御姿」(ピリピ2:5-8)として存在しておられたとさえ言っています。 父なる神は、イエスについて「神よ。あなたの御座は世々限りなく」続く(へブル1:8)と言われました。イエスは直接創造主ご自身と言及されています。(ヨハネ1:3;コロサイ1:16-17) 園他の聖書箇所もキリストの
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......