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- 「聖霊のの呼び名にはどんな物があるの?
聖霊には多くの呼び名があり、その多くはその御性質や働きを示した物です。下記の物は聖書に記されている聖霊の呼び名です。聖書の作者: (IIペテロ1:21; IIテモテ 3:16) 聖書は三位一体の神の第三人格である聖霊によって動かされた人々が記した、神の霊感を受けている書物なのです、聖霊は聖書の全66巻の著者達を動かし、彼らを通してご自分が望まれた内容を書かれました。船がその帆に風を受けて動かされるように、聖書の著者達は聖霊に動かされて聖書を記したのです。慰め主、助言者: (イザヤ11:2; ヨハネ14:16; 15:26; 16:7) これらの言葉はギリシャ語のパラクレートスを訳した物で、聖霊の別の呼び名、パラクレートスもこの言葉から来ています。イエスが弟子達を去った際、弟子達は非常に悲し
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- 「グロソラリアとは何?
興奮状態で意味不明の言葉を話す事をグロソラリアと言います。グロソラリアは時折聖書的異言の賜物であるゼノグロッシアと間違われる事があります。グロソラリアは意味不明の言葉を繰り返す物であり、ゼノグロッシアは習った事のない外国の言葉を流暢に話す事をさしています。さらに、ゼノグロッシアは生まれつきや自然的な能力ではありませんが、研究によりグロソラリアは習得する物であるとわかっています。ルーテル医学センターの研究によると、グロソラリアは簡単な説明を通して習得できるようです。また「異言で話す事ができる」人々は興奮状態にならずにグロソラリアで話す事ができる事も判明しました。他の研究によれば、60人の協力者に一分間のグロソラリアの録音を聞かせたところ、2割がすぐにグロソラリアを真似する事ができるようになり、
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- カリスマ運動とは何?
カリスマ運動は教派を超えたキリスト教の運動であり、現代の社会で各教会に多大な影響を与えている物です。この運動の発端は1906年で、カリフォルニア州、ロサンゼルスのアズーザのメソジスト系のリバイバル集会での事です。この集会で使徒の2章のように「聖霊の洗礼を受けた」と言う人々が出てきたのです。人々は異言で語り、癒しの奇跡なのが起こり、霊的熱狂が起こったというのです。これらの集会に出席した人々はアメリカ全土でその熱狂を伝え、結果ペンテコステ/カリスマ運動が始まりました。1970年代前半までにはこの運動はヨーロッパに広がり1980年代にはさらに拡大し、いくつかの教派が生まれました。この運動の影響がバプテスト教会、監督政教会、ルーテル派や単立の教会などに見られる事も稀ではありません。このカリスマ運動の
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- 終焉説は聖書的な説なの?
終焉説(しゅうえんせつ)とは異言や癒しなどの「奇跡的な賜物」が、その時代独特な物として使徒の時代の終わりとともに終焉したという説です。終焉説を唱える人々は神は現代も奇跡を行っているが、聖霊なる神が個人を通して奇跡を行う事はないと信じている人が多いです。聖書には、神からの新しい知らせを証明するために奇跡が用いられた事が書かれています。モーセはパロに語りに行く際、彼が神から遣わされた事を証明するために奇跡を行う力を神から与えられました(出エジプト4:1-8)。エリヤはアハブに語りに行く際にその預言を証明のために奇跡を行う力を神から与えられました(I 列王記17:1; 18:24)。使徒達はイスラエルに福音を伝える際にそのメッセージを証明するために奇跡を行う力を神から与えられました(使徒4:10,
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- 御霊あって歩むとはどういう意味ですか?
信者はキリストの御霊、栄光の望みを自分自身のうちに持っています(コロサイ1:27)。御霊にあって歩む人は、毎日、瞬間瞬間に聖さを現わすでしょう。これは、考えとことばと行いにおいて聖霊が導いてくださるように意識的に信仰によって聖霊に頼ることで実現します(ローマ6:11-14)。聖霊の導きに頼ることをしないと、信者は召しにふさわしい歩みをすることも、救いがもたらしたものにしっかりと立つこともない結果となってしまいます。私たちが御霊にあって歩んでいるかどうかは、私たちの生活が御霊の実を結んでいるかどうかで知ることができます。その御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和そして自制です(ガラテヤ5:22-23)。御霊に満たされること(御霊にあって歩むこと)は、キリストのことば(聖書)が
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- 異言で話すことは、聖霊を持っていることの証拠ですか?
T聖霊を受けたと同時に異言で話したという三つの出来事が使徒行伝に出てきます。 使徒行伝2:4、10:44-46、そして19:6です。しかしながら、異言で話すことが聖霊を受けた証拠となっているのは、聖書の中でこの3箇所だけです。使徒行伝全体を通して、何千という人々がイエスを信じていますが、異言で話すことについては何も書かれていません(使徒行伝2:4、8:5-25、16:31-34、21:20)。新約聖書のどこを探しても、異言で話すことだけが聖霊を受けたことの証拠であると教えてはいないのです。事実、新約聖書は反対のことを教えています。キリストを信じたすべての人が聖霊を持っている(ローマ8:9、Iコリント12:13、エペソ1:13-14)が、すべての信者が異言をはなすのではない(Iコリント12:2
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- 才能と霊的賜物との違いは何ですか?
能力と霊的賜物の間には、似ている部分と違う部分があります。とちらも神からの贈り物です。どちらも、使うに連れてより効果的に成長します。どちらもほかの人のために使うべきであって、自己中心的な目的のために与えられているのではありません。Iコリント12:7には、霊的賜物はほかの人たちの益のために与えられているのであって、私たち自身のためではないことが書かれています。偉大なふたつの戒めが神を愛し、隣人を愛することを命じていますから、人は自分の能力をそれらの目的のために使うべきなのです。しかし、誰に、どんなときに能力と霊的賜物が与えられるかは、それぞれ違っています。その人が神とキリストとを信じているかどうかに関わらず、人には生まれつきの能力が与えられています。それは、遺伝(ある人たちは生まれつき音楽、芸
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- 聖霊が信者から去ることはありますか?
簡単に言って、聖霊が本物の信者から去ることは決してありません。そのことは、新約聖書のいろいろな箇所に示されています。 例えば、ローマ8:9には「・・・キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と書かれています。この節にはとてもはっきりと、もし誰かのうちに聖霊が住んでおられないなら、その人は救われていないのだと述べています。だとすれば、聖霊が信者から去って行くなら、その人はキリストとの救いの関係を失うことになります。しかしこれは、聖書が教えているクリスチャンのキリストにある永遠の保証とは相反するものです。信者の生活の中に聖霊が内住されることが永遠であることに言及しているもうひとつの箇所はヨハネ14:16です。ここでイエスは、父なる神が「いつまでもあなたがたと、ともにおられるた
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- 御霊に死ぬというのは、聖書的ですか?
普通「御霊に死ぬ」ことが起こるのは、聖職者が誰かに手を置いてその人がいわゆる聖霊の力に圧倒されて床にくず折れるときです。御霊に死ぬことを実行している人たちは、人々が「死者のようになった」(黙示録1:17)とか、ひれ伏した(エゼキエル1:28、ダニエル8:17-18、10:7-9)と言っている聖書箇所を使います。しかしながら、この聖書的なひれ伏すことと、御霊に死ぬことを実行していることとの間には、たくさんの著しい相違があります。1.聖書的な平伏は、キリストの変貌を見たとき(マタイ17:6)のように、普通のことを越えたまぼろしや出来事などを見た人の反応です。 非聖書的な御霊に死ぬ行為では、人は他の人が触れること、あるいは話し手の腕の動きに反応します。2.聖書の事例は数少なく間があいていて、少数の
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- 今日の私たちの生活の中で、聖霊の役割は何ですか?
神が人類にくださったすべての賜物の中で、聖霊のご臨在に勝るものはありません。御霊はたくさんの機能と役割と、事業とを持っておられます。第一に、御霊はあらゆるところにいるすべての人の心に働きかけられます。イエスは弟子たちに「・・・罪について、 義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ」るために御霊を世に送ると言われました(ヨハネ16:7-11)。その人が認めようと、認めまいと、すべての人は「神意識」を持っています。御霊は、平等で十分な議論をもって、人に自分が罪人であることを確信させるために、神の真理を人の理性に適用します。その確信に応答することで人は救いに至ります。一旦私たちが救われて神に属するものとなったら、御霊が私たちの心に永遠に住まわれ、私たちが永遠に神の子どもであるという確かで
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- 異言の祈りとは何ですか?異言の祈りは、神と信者の間の祈りの言語なのですか?
予備知識として、私たちの異言の賜物の記事を読んでください。異言で祈ることの証拠として挙げられている主要な聖書箇所は4つあります。ローマ8:26、I コリント14:4-17、エペソ6:18、そしてユダ20節です。エペソ6:18とユダ20節は「御霊によって祈る」ことに言及しています。しかしながら、「御霊によって祈る」を、異言を祈りの言語とすると解釈するのには、少し無理があります。ローマ8:26は、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようも無い深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」と教えています。ローマ8:26が異言を祈りの言語といっているのではないことは、2つのポイントからして明らかです。第一
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- 御霊を悲しませるとか、消すとはどういうことですか?
聖書の中で「消す」ということばが使われているとき、火を抑圧することを言っています。信者が神の武具の一部としての信仰の盾を帯びるとき(エペソ6:16)、彼らはサタンの放つ火矢の力を消し去っています。キリストは、地獄を火の「消え」ない場所であると説明しておられます(マルコ9:44、46、48)。同じように、聖霊はひとりひとりの信者のうちに住まわれる火なのです。聖霊は私たちの行動や態度の中にご自身を現わしたいと願っておられます。信者が、御霊が私たちの行動を通して現れることを許さないとき、知っていて間違ったことをするとき、私たちは御霊を抑圧する、または、消すのです。私たちは、聖霊がご自身を示されたいと思っておられる方法で現れることを許さないのです。御霊を悲しませることの意味を理解するためには、まず、
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- フィロケー条項とは何ですか?
フィロケー条項というのは、むかしから今に続く聖霊に関する教会内での論争のことです。論点は「聖霊は誰に起因するのか?父なる神か、それとも父と子の両方か?」というものです。フィロケーということばは、ラテン語で「そして子」という意味です。これが「フィロケー条項」と言われるのは、ニケア信条で聖霊は父なる神と「そして子なる神」に起因するとして、「そして子」という句がたされたからです。この問題をめぐって、大変な論争が起こり、ひいては1054年のローマ・カトリック教会と東方正教会の分裂へとつながりました。ローマ・カトリックと東方正教会は今もってフィロケー条項に関する同意には達していません。ヨハネ14:26には、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、・・・」とあります。ヨハ
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- 神はどのように霊的な賜物を分配されるのですか?神は私が願った霊的な賜物をくださるでしょうか?
ローマ12:3-8とIコリント12章に、ひとりひとりのクリスチャンに主の定められた霊的な賜物が与えられるとはっきり書いてあります。霊的な賜物は、キリストのからだの益となるために与えられるのです(Iコリント12:7、14:2)。これらの賜物がどのようなタイミングで与えられるかは、特に示されていません。ほとんどの人たちは、霊的な賜物は霊的な誕生のとき、つまり救いを受けた瞬間に与えられるものだろうと考えています。しかしながら、神が霊的な賜物をもっとあとにも与えられることを示すいくつかの聖書の箇所があります。Iテモテ:14とIIテモテ1:6の両方に、テモテが按手を受けたときに「預言によって」与えられた賜物について書かれています。これはおそらくテモテの按手のときの長老のひとりが、テモテの将来のミニスト
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- 信者は聖霊を感じることができなければなりませんか?
聖霊の特定のミニストリーの中には罪の自覚、慰め、そして力の満たしのように感情を伴うものもありますが、聖書は、私たちがどのように感じるかという感情に私たちと聖霊の関係の基礎をおくようには教えていません。ひとりひとりの新生した信者のうちには聖霊が住んでおられます。イエスは、慰め主が来れば、その方は私たちとともに、そして私たちのうちにおられると言われました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、遅々はもうひとりの助け主とあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あな
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- 聖霊によるバプテスマとは何ですか?
聖霊によるバプテスマとは、人が救われた瞬間に、聖霊の働きにより、その人がキリストと一体になり、またキリストの体である他の信徒達と一体になることであると定義できます。コリント人への手紙第一 12:12−13、そしてローマ人への手紙6:1−4は、聖霊によるバプテスマの教義を説明する中心的な節です。コリント人への手紙第一 12:13は、「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの聖霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの聖霊を飲むものとされたからです。」と言っています。また、ローマ人への手紙6:1−4は、「それでは、どういうことになりますか。恵みがまし加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません
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- 自分の御霊の賜物が何であるか知るにはどうしたらいいでしょうか?
聖霊の賜物が何であるかを正確に知るための魔法の法則、または霊的テストというのはありません。聖霊はみこころのままに、賜物を分け与えてくださいます。(第1コリント12章7-11節) と同時に、神は、私たちがどのように神に奉仕すべきかについて知らないで欲しいとは願っておられません。 御霊の賜物にこだわるあまり、その賜物があると思う分野でしか奉仕したくないという考えに陥ってしまい易いのが問題です。霊の賜物はそういうふうに働くのではありません。 神が召された仕事を成し遂げるために必要な賜物を神は備えてくださるのです。 霊的賜物が何かを見極めるには、いくつかの方法があります。完全に信頼できないかもしれませんが、霊の賜物のテスト、または目録は、確かに、どういうところに自分の賜物があるか理解する助けにはなり
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- 奇跡の賜物は今日にも当てはまるものですか?
まず、これは、神が今も奇跡を行われるかどうかという質問ではないということを認識することが重要です。 神は今日では、人を癒したり、語りかけたり、奇跡や不思議なわざを行ったりはしないと言うのは、愚かで、聖書的ではないと言えるでしょう。 質問は、おもに第1コリント12-14章に述べられている御霊の奇跡の賜物が今日の教会でも働いているかどうかということです。 これは、また、聖霊が誰かに奇跡を行う賜物を与えることが ’できる’ かどうかという質問でもありません。 問われるのは、聖霊が今でも奇跡を行う賜物を授けておられるか否かということです。以上のことを除き、私たちは聖霊がみこころにより、自由に賜物を授けられると、すべて認識します。(第1コリント12章7-11節)使徒伝と書簡の中では、ほとんどの奇跡は使
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- どうしたら、聖霊に満たされますか?
今の時代における聖霊の満たしについて議論している鍵となる聖句は、ヨハネ14章16節です。そこでは、イエス様が聖霊は信者の中に宿り、永遠に住んでくださるという約束をしておられます。ここで、内在と満たしをはっきり区別することが重要です。 聖霊の永遠の内在は少数の選ばれた信者に限られているのではなく、すべての信者のためなのです。 この結論を支持する聖句がいくつもあります。 まず第一に、聖霊はイエスにあるすべての信者に例外なく、また無条件に与えられる賜物であり、キリストを信じるだけでこの賜物を受けるという箇所です。(ヨハネ7章37-39節)二番目には、聖霊は救いの瞬間に与えられるという聖句です。エペソ1章13節は救いの瞬間に聖霊を与えられることを示しています。 ガラテヤ3章2節も同じ真理を強調して、
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- いつ、またどのようにして聖霊を受けるのですか?
使徒パウロは、わたし達がイエスキリストを救い主として信じた瞬間に聖霊を受けると、明らかに教えています。第1コリント12章13節は、「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテズマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲むものとされたからです。」と宣言しています。ローマ8章9節では、聖霊を持たない人はキリストに属していないと教えています。「けれども、もし、神の御霊があなた方のうちに住んでおられるなら、あなた方は肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」 エペソ1章13-14節では、聖霊は信じる者にとっての証印であると言っています。福音を「信じたことにより、約束の聖
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......