-
- 神がいるという決定的な証拠はあるのでしょうか?
この問いに対する答えは「決定的な」証拠というものが何を意味しているかによって大きく左右されます。私たちは、私たちが人に触れたり人を目で見たりするのと同じように、手を伸ばして神に触れたり目で見たりすることができるでしょうか。それはできません。しかし、神が現実の存在であり、神がその御言葉通りの方であると私たちが確実に知ることのできる方法は無数にあります。ここでは科学と聖書の両方を用いて神の存在を証明する手段を三つ、簡単に考察することにします。1.因果の法則 この科学的法則は、すべての原因には結果が伴い、すべての結果には原因があると述べます。この法則はすべての科学の基盤となっています。従って、この法則は天と地の起源にも関係してきます。実際に、科学者たちは宇宙が永遠に存在してきたのではなく、ある時点
-
- ほとんどの戦争の原因は宗教なのでしょうか?
確かに、歴史を通じて、多くの紛争が宗教的な理由を名目にして、様々な宗教を交えて起こされてきました。キリスト教においては、二、三例を挙げるだけでも次のものがあります。• 十字軍の遠征‐イスラム教侵略者たちから聖地を奪還し、ビザンチン帝国に援助の手を差し伸べることを公の目的として11世紀から13世紀にかけてなされた一連の軍事行動• ユグノー戦争‐16世紀のフランスにおいてカトリック教徒とユグノーと呼ばれたプロテスタント教徒との間にあった一連の戦い• 三十年戦争‐現在のドイツに当たる国で17世紀に起こったカトリックとプロテスタント間の戦争上記リストは決して包括的なものではありません。これらの他にも、太平天国の乱や北アイルランド紛争を挙げることもできるでしょう。キリスト教は、確かに、その二千年の歴史
-
- 不信心者とは何ですか?
不信心(インフィデル)という言葉は単純に「信仰のない」あるいは「信仰に反対して」という意味があります。不信心者とは、宗教を拒否する人のことです。ですが、不信心(インフィデル)という語はキリスト教信仰を非難するウェブサイト(infidels.org)との関係でもっとよく知られています。通称セキュラー・ウェブ(非宗教ウェブ)とも呼ばれているインターネット・インフィデルズは、無神論者や自然主義者たちのためのインターネット上の主要なウェブサイトの一つとなっています。その目的はインターネット上で自然主義的世界観を弁護し、促進することであると表明されています。キリスト教護教論者J.P.ホールディングは、ある時、「セキュラー・ウェブには教養のある人たちが少しばかりいるが、全体としては、自分の専門知識外にあ
-
- ポストモダニズムの危険性はどこにありますか?
簡単に言えば、ポストモダニズムというのは、宗教や霊的な事がらに関しては特に、客観的、あるいは絶対的な真理を全く認めない哲理のことです。神の実在や宗教的慣習に関する真理の主張を突き付けられる時にポストモダニズムのとる見解は、「それはあなたにとっては本当かもしれないけれど、わたしにとってはそうではない」という発言に典型的に示されます。そのような反応は食べ物の好みや芸術の嗜好について話す場合には完全に適切なものであるかもしれませんが、そのような考え方は、現実に適応されると危険なものとなります。それが意見と真理とを混同するためです。 「ポストモダニズム」という語は、文字通り「モダニズム後」を意味し、モダニズム時代後の現代を哲学的に描写するために用いられます。ポストモダニズムは、人間の理性だけで人類を
-
- 神はなぜ切断者を癒さないのでしょうか?
神の存在を「反証」しようとしてこの問いを用いる人たちがいます。実際、「神はなぜ切断者を癒さないのか」という議論に専念している、反キリスト教系のよく知られたウェブサイトがあります(http://www.whywontgodhealamputees.com)。もしも神が全能であり、イエスが私たちの求めることを何でもすると約束したのなら(というような論法が用いられます)、なぜ神は私たちが切断者のために祈るときに彼らを癒すことがないのか。神は、例えば、癌や糖尿病の患者を癒すのに、切断された手足を絶対に再生させないのはなぜか。切断者が切断者のままでいるという事実は、神が存在しないこと、祈りが役に立たないこと、いわゆる癒しと呼ばれるものが偶然の一致であること、宗教が作りごとであることをある人たちに「証明
-
- 聖書に『愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている』とあるのは、どういう意味でしょうか?
詩編第14章1節と詩編第53章1節はともに、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」とうたっています。この聖句が、無神論者たちが頭の悪いこと、つまり、知性に欠けていることを示していると解釈する人たちがいます。しかし、それは「愚か者」と訳されているヘブル語の意味とは異なっています。原文で使われているヘブル語の単語はナバル(nabal)で、どちらかというと「道徳的な愚者」つまり、道徳のない人物のことを指しています。この文は「頭の悪い人は神を信じない」ことを意味しているのではなく、むしろ、「不道徳な人たちは神を信じない」ということを意味しているのです。無神論者には非常に聡明な人たちが多くいます。人に神への信仰を拒ませるのは、知性あるいはその欠如ではありません。人に神への信仰を拒ませるものは
-
- 神への信仰は松葉杖(精神的支え)なのでしょうか?
”元ミネソタ州知事のジェシー・ベンチュラはかつて「組織化された宗教は、数字上の強さを必要とする意志の弱い人たちのための見せかけ(枕カバー)であり精神的支え(松葉杖)である」と言ったことがあります。これに同調するのはポルノ製作者ラリー・フリントで、彼は「それ[宗教]に関しては僕には何一つ良いことを言うことができない。人はそれを松葉杖として使うんだ」とコメントしました。テッド・ターナーはある時、「キリスト教は負け犬のための宗教なのさ!」 とあっさりと言い切りました。ベンチュラ、フリント、ターナー、 そして他にも彼らと同じような考え方をする人たちは、キリスト教徒のことを精神的に弱く、人生を切り抜けていくために想像上のサポートを必要としている者たちだという風に見ています。彼らは、彼ら自身は強く、生き
-
- なぜ非常に多くの若者たちが信仰から離れて行っているのでしょうか?
屈指の調査機関であり、信仰と文化との関係に焦点を当てるバーナグループによって行われた最近の調査によると、アメリカ合衆国内の若年成人人口のうち、聖書的な世界観を持っている人たちは1%に満たないことが分かりました。さらに驚いたことには、その統計は18歳から23歳までのクリスチャンのうち、聖書的な世界観を持っているのは0.5%以下であることを示しています。 バーナグループは聖書的な世界観を持っていることの定義として、以下の事項を信じていることを基準としています。 • 絶対的な道徳真理が存在すること• 聖書には全く誤りのないこと• サタンは実在するもので、象徴的なものではないこと• 人は、良い業を行うことによっては神の御国へ入る権利を得ることができないこと• イエス・キリストが地上で罪のない一生を過
-
- 実存主義とは何ですか?
実存主義というのは、正式な哲学体系というよりも、むしろ、哲学的な議題に対する全般的な指向とも言えるもので、20世紀初めのヨーロッパで隆盛を極めました。それは啓蒙思想に見られた人間の理性に対する過信に反発したものでしたが、おそらく、実存主義に影響を与えてそれを魅力的なものとしたものの中には、次のキルケゴールの洞察が含まれるでしょう。彼は、キリスト信仰はある一連の合理的な命題に帰着されうるものではなく、より広範な感情的、関係的な意義を含んでいるとしました。また、第一次世界大戦による惨状、1920年代および1930年代の経済崩壊、第二次世界大戦の恐怖といった歴史上の出来事によって、人間の理性がすべての問題を克服することができるという近代主義の希望が偽りであることが示されたことも、さらに大きく影響し
-
- クリスチャンはなぜ同性愛を嫌悪するのですか?
ホモフォビア(同性愛嫌悪・恐怖)は定義上は同性愛者に対する恐怖となっていますが、その意味は広範囲に同性愛者に対する嫌悪をも含むようになりました。それに相応して、同性愛嫌悪は、そのような感情に基づいたデモ活動や振る舞いを通して現れる傾向がありますが、それが時に、暴力的行為や敵意の表明につながることがあります。実のところ、同性愛嫌悪は一つの社会階層に限定されるものではなく、あらゆる階層の人々のうちに見受けられるものです。そのような扇動集団は同性愛者を悪辣に攻撃し、同性愛者を迫害したり威圧したりしようとして、特に暴力的な言葉を使ってきました。 クリスチャンは、しばしば、ただ同性愛行為を罪と定めるということだけで同性愛嫌悪者であると言われてしまいます。しかし、実際には、同性愛嫌悪という用語はただ、同
-
- クリスチャンは無神論者に伝道しようとするべきでしょうか?
神の愛を知り、天国での永遠を確信しているクリスチャンにとって、無神論者になりたい人の気持ちを理解することは難しいものです。けれど、私たちが罪の性質とそれが精神や心に及ぼす影響の強さを理解すれば、無神論者がどう考えているかが分かってきます。聖書に即して語るならば、無神論者などというものは存在しません。詩編(19:1-2)は私たちに、天は神の栄光を語り告げると 教えています。私たちは、神の造られたすべてのもののうちに神の創造の力を見るのです。ローマ人への手紙(1:19-20)はこの思想を引継ぎ、神について知られることは被造物によって私たちに明らかにされており、これを否定する人は誰でも「不義をもって真理をはばんで」(18節)いるのだと、私たちに告げています。詩編(14:1および53:1)は、神の存
-
- 聖書はクリスチャンに信仰を弁明するように、あるいは信仰のために議論するようにと命じていますか?
弁証論(キリスト教信仰の弁護)を奨励する典型的な聖句はペテロの手紙 第一(3:15)で、それは、信者は 「あなたがたのうちにある希望について」弁明しなくてはならないと言っています。これを効果的に行うための唯一の方法は、私たちが何故、私たちの信じるところを信じるのかという理由を学ぶことです。それによって、私たちはパウロの言うとおりに「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」る用意ができるのです(コリント人への手紙 第二 10:5)。パウロは人に説くところは自分でも実行していました。実際、信仰を弁明することは彼の常でした(ピリピ人への手紙 1:7)。彼はその同じ書簡の中で、彼の使命の一面として弁証することを挙げていま
-
- 目的は手段を正当化するでしょうか?
この質問に対する答えは、その目的や目標がどんなものであるか、また、それらを達成するためにどのような方法が用いられるかによっても変わってきます。目的が善良で高潔なものであり、それを達成するために私たちが用いる手段もまた善良で高潔なものならば、然り、目的は手段を正当化します。けれども、この表現を使う人たちは、ほとんどの場合、それを異なる意味で用います。たいていの人たちは、それがいかに非道徳的で、不法で、あるいは不愉快なものであっても、必要な手段を用いて自分たちの目的を達成するための言い訳としてこの表現を使います。この表現はたいてい、「あなたが欲しいものを手にする限り、それをどんな方法で手に入れようと構わない」といった意味合いを持っています。 「目的が手段を正当化する」ことには、大体において、良い
-
- クリスチャンは政治をどのように見るべきでしょうか?
公然とした口論とまでは発展しないとしても、議論に自然と火をつけるものがあるとすれば、それは政治に関する話し合いであり、信者の間ですらもそうでしょう。キリストに従う者として、政治に対する私たちの態度や、政治への私たちの関与はどのようなものであるべきでしょうか。「宗教と政治は交じり合わない」とは言われてきましたが、それは本当に真実でしょうか。私たちには、キリスト教信仰を考慮に入れないで政治的な見解を持つことができるでしょうか。その答えは否です。それはできません。聖書は、私たちが政治や政府に対してとるべき姿勢に関し、二つの真理を与えてくれています。一つ目の真理は、神の意志は人生のすべての側面に行き渡り、優先するものだということです。あらゆること、また、あらゆる人に勝るものは神の意志です(マタイの福
-
- 聖書は共産主義を支持していますか?
社会主義の一部門である共産主義は、一見すると聖書的な原理に一致しているかのように見える一連の理想に基づいた、試験的な社会制度です。しかし、さらに詳しく調べてみると、聖書が本当に共産主義を支持、もしくは承認しているという証拠はほとんど見つけることができません。論理上の共産主義と実際の共産主義には違いがあります。そして、共産主義の理想に適合しているように思える聖句も、実際には、共産主義政府の慣習とは相容れないものなのです。教会の描写にあたって、使徒の働き第二章には驚くような文章が含まれており、聖書は共産主義を支持しているのではないかと多くの人々に疑問を抱かせ、また一部の人々には共産主義が実際に聖書的であるとする思想を熱心に弁護させてきました。そのくだりには、「信者となった者たちはみないっしょにい
-
- 聖書には資本主義についてどのように書かれているでしょうか?
辞書によると、資本主義は「資本財の個人的あるいは法人所有、個人的決断による投資の決定、また、主に自由市場での競争による価格、生産、物流の決定を特徴とする経済制度」と定義されています。聖書は資本主義に名指しで触れてはいませんが、経済的課題に関する記述が数多く見られます。例えば、箴言全体、及びイエスのたとえ話の多くが経済問題を取り扱っています。かくして、私たちは富に対する私たちの態度がどのようなものであるべきか、またクリスチャンがいかに財源を取り扱うべきかを学ぶことができます。聖書はまた、私たちの人間性についても説明しており、ある経済制度が社会において成功するかしないかという可能性を判断する助けとなります。経済は私たちの日常生活の大部分がとり行われる領域なのですから、私たちはそれを聖書的観点から
-
- 背教とは何でしょうか。また、それはどのようにして見極めることができるのでしょうか?
背教(アポスタシー)は、ギリシャ語のアポスタシアから派生し、「既成の制度や権威への反抗、反逆、信仰放棄あるいは背信」を意味しています。紀元1世紀の世界においては、アポスタシーとは政治的暴動あるいは離脱を表わす専門用語でした。そして紀元1世紀におけるのと同じように、背教は今日のキリストの体を脅かしています。 聖書は、エジプト・アレクサンドリア出身の キリスト教祭司で、四世紀初期にアンティオキアで訓練を受けたアリウス(紀元250-336年)のような人たちについて警告しています。紀元約318年ごろ、アリウスはアレクサンドリアのアレクサンダー司教のことを彼がサベリウス主義に賛同しているとして非難しました。サベリウス主義とは、父と子と聖霊というのが、ただその時々に神がとる役割あるいは様態に過ぎないと主
-
- 聖書には、苦しみについて何と書かれているでしょうか?
近代キリスト教に対して投げかけられるあらゆる課題のうちでも、おそらく最も難関なものが苦しみという問題を説明することでしょう。愛にあふれる神に、どうして自分の創造した世界における苦しみを継続させておくことができるのでしょうか。重度の苦しみを自ら体験した人たちにとっては、これは哲学上の問題の粋をはるかに超えたもので、個人的かつ感情的な根の深い問題となっています。聖書はこの問題をどのように扱っているでしょうか。聖書は、苦しみの実例や、それにどう対処するかについての指標を与えてくれているでしょうか。継続的な苦しみという問題となると、聖書は驚くほどに現実的です。一つに、聖書はある一つの書全体をその問題の取り扱いに充てています。その書はヨブという名の男性に関するもので、それは、読者にヨブの苦しみに関わる
-
- 健全な教理はなぜそれほど重要なのですか?
パウロはテトスに、「あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。」(テトス2:1)と言っています。そのような命令は健全な教理が重要なことを明確にしています。 しかし、なぜそれは重要なのでしょうか?それは私たちが何を信じるかにはどんな違いが生じるのでしょう?健全な教理は重要です。なぜなら私たちの信仰が特定のメッセージに基づいているからです。教会の総合的教えは多くの要素を含めていますが、主要なメッセージは明白に定義されています。「キリストは聖書の示すとおりに私たちの罪のために死なれた。、、(そして)聖書の示すとおりに三日目によみがえられた。」(1コリント15:3-4)これが不明瞭でない良いニュースです。それはまず第一に重要なことなのです。 このメッセージを変えると、信仰の土台がキリストから何
-
- 新しい契約とは何?
新しい契約(または新約)は神が罪を赦して、心が神に向いている人々と交わりを回復するという人間との約束です。イエス.キリストが新しい契約の仲介者です。そして十字架上でのキリストの死がこの約束の土台です。(ルカ22:20)新しい契約は、古い契約がまだ有効な時、予告されています。―モーセ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちが新しい契約のことをそれとなくほのめかしています。神がご自分の民と交わされた古い契約は、モーセの律法に厳しく従うことを要求しました。罪の報酬は死なので、(ローマ6:23)律法はイスラエルが罪の償いのために日々のいけにえをすることを要求しました。モーセも―神が彼を通して古い契約を達成されたのですが―新しい契約を予期していました。イスラエル国家に対するモーセの最後の演説の中の一つで
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......