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- 地上生涯で完全な聖化/罪のない完全さを達成する事は可能?
エペソ4:13には霊的賜物は「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」に与えられたものであると書いてあります。訳によっては「大人になる」の代わりに「完全になる」と訳されている事があり、地上生涯で罪のない完全さを達成する事ができると勘違いする人々が出てきたのです。聖書には私たちがこの肉体に生きる限り罪の性質と戦い続ける事が書いてあります(ローマ7:14-24)。ですから、天国に行くまで「罪のない完全さ」を達成する人はいないのです。エペソ4:13で使われているギリシャ語の単語はテレオスと言います。この単語は新約聖書でたびたび使われていて、「完全」「完了」「成熟した」「大人」という意味があります。エペソ4
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- 霊的要塞についての聖書的な観点はどんな物?
要塞と訳されている単語は新約聖書で一回使われていて、使徒パウロがキリスト者の直面する霊的戦いを表す際に使っています。「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(IIコリント10:3-4)この箇所は霊的戦いについて次の点を教えています:1) 私たちの戦いはこの世の戦い方や作戦とは違う事。2) 私たちの戦いは霊的な物であり、従って私たちの武器は物理的な物ではない事。銃や戦車とは違い、私たちは神の武具を取るべきなのです。「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによ
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- どうすれば誘惑に打ち勝つ事ができるの?
聖書には私たちが皆誘惑に直面する事が書いてあります。例えばIコリント10:13には「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。」と書いてあります。これは他の人々は自分が感じる誘惑は感じないのではないかと心配しがちな私たちに少しの安心を与えます。私たちはまたキリストも誘惑を受けた事を知っています「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)それでは誘惑はどこから来るのでしょうか?私たちがまず知っておくべきなのは、神は私たちが誘惑を受ける事を許されてはいても誘惑は神からくるものではない事です。ヤコブ1:13には「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、
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- 自らの命を守るために隠れてキリスト者となることは間違っている?
迫害や死を恐れて隠れてクリスチャンでいる事ははたして間違っているでしょうか?キリスト者は皆イエスの御名を告白するために死ぬ覚悟が必要でしょうか?私たちが自分の身を守るためにイエスへの信仰を隠しておく事はまちがっているでしょうか?世界中でこれらの質問が「たとえば」の話である事はしばしばであり、私たちがキリスト者として直面する苦しみは馬鹿にされるくらいです。しかしながら、世界にはキリストに対する信仰のゆえに命の危険に晒されているキリスト者が多くいます。自分と自分の家族の安全を考えて、そこまで大胆にキリストのために生きる事ができない場合もあるのです。 これは、自分の命をキリストに仕え、従い、キリストを敬い、礼拝する事よりも重要視する事とは少しちがいます。それでは自らのキリストに対する信仰を隠してお
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- 神のために生きるにはどうすればいいの?
神はみ言葉を通してどのように私たちがご自身のために生きる事べきかを明確に示して下さいました。それらの神の命令には互いに愛し合う事(ヨハネ13:34-35)、自らに死にイエスについていく事(マタイ16:24)、貧しい人々に分け与える事(ヤコブ1:27)、神を知らない人々の様に罪深い習慣に陥らない事(Iテサロニケ5:6-8)などあります。イエスは、律法学者に聞かれた時、神のために生きる事を一番大切な命令にまとめました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにはあ
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- 神は私たちが耐えれられない試練には?
Iコリント10:13には「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」と書いています。この箇所は素晴らしい事を教えています。私たちが神に属するならば、私たちが耐えられない試練に会わせる事はないのです。私たちが直面する全ての誘惑には脱出の道が伴い、神は永遠に真実な方であり続け、私たちは罪 にひれ伏さないで、いつでも神に従う事ができるのです。ですから、私たちは信仰生活において神からの励ましを与えられています。「悪からお救いください」(マタイ6:13)という祈りは聞かれます。しかしながら、この約束は私たちが苦しみを経験しないと
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- 神が自分に何かをするように語る事はどうすればわかるの?
神の導きについてよくわからない時は祈りましょう。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。」(詩篇37:7) どう祈っていいのかわからない時は次の箇所を自分のものとして祈ってみましょう「私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」(143:8)「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(25:5)神が私たちに語られる第一の方法はみ言葉を通してです
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- 〇〇のような罪を犯した私を神は赦す事ができる?
上の〇〇にあなたが犯した事のある全ての最悪の罪を入れてみてください。神はその罪をも赦す事ができ、赦して下さる方です。贖いの教えは救いと罪の赦しについて教えています。神はキリストの義を罪の赦しを求める者達に与えてくださいました(イザヤ53:5-6; IIコリント5:21)。キリストは私たちの罪の代価を全て払ってくださり、キリスト者は皆、過去、現在、未来の全ての罪の赦しを受けたのです。また、私たちが日々悔い改める事で私たちは罪を一つ一つ捨て去りさらにきよめられ続けるのです。神の御子であるイエスの殺害という歴史上最大の罪に比べると、他の罪は、どんなに大きな罪もそれには比べられません。しかしイエスは「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分で何をしているのかわからないのです」(ルカ23:34)救いと赦
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- キリストに本当の意味でついていくとはどういう事?
福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)でイエスの「私についてきなさい」という命令がしばしば記録されていて(マタイ8:22; マルコ2:14; ルカ5:27; ヨハネ1:43)、この命令を通してイエスは十二弟子(マタイ10:3-4)を招き、他にもイエスの与える賜物を受け取りたいと願う人々を招きました(ヨハネ3:16; マルコ8:34)。マタイ10:34-39でイエスは自らについていく事がどういう事であるかについてはっきりとこう言っています:「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその
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- 私たちは罪を犯した相手に罪を言い表すべき?
私たちが神に罪を言い表すべき事は明確ですが、罪を犯した相手にもその罪を言い表すべきかどうかと悩んでいるキリスト者が多くいます。私たちは罪を犯した相手に謝罪をするべきでしょうか?「光の中を歩む」(Iヨハネ1:7)とは、神の戒めに従って生きる事を指しています。上の箇所で、キリストによる赦しと「互いに交わりを保」つ事について書かれています。つまり、光の中を歩む事と人々との交わりには関係があるのです。全ての罪は最終的には神に対して犯されるものです(詩篇51:4)。聖書にはしばしば神に罪を言い表す必要について書かれています(詩篇41:4; 130:4 使徒8:22; Iヨハネ1:9)。人々に罪の言い表しをするべきか、それについて聖書には決定的に書かれていません。罪を誰かに言い表す事を命令しているただ一
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- 効果的なキリストの証人になるにはどうすればいいの?
証人とは事実を証言する人の事ですから、効果的なキリストの証人となるためにはキリストを知っている必要があります。使徒ヨハネはIヨハネ1:1-3で「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書き、同様な事を教えています。今日、キリストにあって新しい命を持っている私たちはキリストの愛と赦しについて言葉と生活を通して証言する事ができ、これがキリストの証人となる事です。効果的なキリストの証人となるためには次の幾つかの点を覚えておく必要があります。1) 私たちの証言の内容はイエスキリストについてである事-パウロは福音をイエスキリストの死と埋葬と復活であると定義しました(Iコリント15:1-4)。キリストの犠牲を説明しなければ福音を伝えた事にはな
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- どうすれば神との関係が親密になるの?
神との関係を親密にしようとする事はすばらしい、新生された心からくる目標です。というのも、キリストにある者でなければ神との親密な関係を望む事はないからです。もう一つ覚えておくべきなのは、この地上生涯では私たちは完全な形で神との関係が親密になる事はない事です。それは私たちには罪があるからです。これは神の欠けではなく、私たちの欠けからくる物であり、罪が私たちが栄光で経験する神との親密な関係と私たちの間に立ちはだかっているのです。私たちの誰よりも神との親密な使徒パウロでさえも、神とのさらに親密な関係を望んでいました:「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思ってい
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- キリストに似た者になるにはどうすればいいの?
キリストに似た者になる事は全てのキリスト者が望んでいる事であり、神もそれを望んでおられます。実際聖書には「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」(ローマ8:29)と書いてあります。私たちをキリストに似た者にする事は神の働きであり、神はそれを完成させて下さるのです(ピリピ1:6)しかしながら、神が私たちをキリストに似た者にして下さるという事実は私たちが何もしないで生活すればいいというわけではありません。この過程私たちがが聖霊に従う事を必要し、神の力と人間の責任が両立するのです。私たちがキリストに似た者になる過程に貢献する点は三つあり、それは私たちの神への降伏、罪からの解放、そして霊的成長です。1)キリストに似た者になる事は私たちの神への降伏を通して起
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- キリスト者は悪魔をとがめる権威を持っているの?
悪魔をとがめる権威を持っていると信じるだけでなく、悪魔を常にとがめ続ける使命を感じているクリスチャンがたまにいますが、そのような教えは聖書には書いてありません。サタンは神のように偏在ではありませんから、一度に一つの場所にしかいることができず、個々のクリスチャンを攻撃し続けることは可能ではあってもしないでしょう。もちろんサタンは多くの悪霊を従えていて、悪霊を通してクリスチャンを攻撃してきます。しかしながら、キリスト者が、聖書に記録されている人々のように悪霊に取り憑かれることはないことを覚えておきましょう。クリスチャンとして、悪の存在の現実を知っておく事は大事です。信仰に立とうとする私たちの戦いの敵は人間的概念だけではなく、暗闇の力から出てくるのです。聖書には「私たちの格闘は血肉に対するものでは
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- 油を注ぐとはどういう事?油注がれた者とは?
油を注ぐという行動は元々羊飼いがする物でした。羊の毛の中にシラミなどの虫が入ってしまう事がしばしばあり、これらの虫は羊の耳に入り込んで羊の死因となる事があるのです。ですから、古代の羊飼いたちは羊の頭に油を注ぎ、虫が油で滑るようにして虫が羊の耳に入る事を予防していました。これから油を注ぐという行動は祝福、守りと力を与える事の象徴となったのです。新約聖書のギリシャ語で油を注ぐという動詞はクリオであり、「油を擦り付ける」という意味があり、また「宗教的役割を与え、とり分ける」というニュアンスがあります。もう一つの単語はアレイフォという物で、これもまた「油を注ぐ」という意味でした。聖書の時代に人々が油を注がれるとそれは神の祝福や召しを示していました(出エジプト29:7; 40:9; II列王記9:6;
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- 非クリスチャンな世の中でキリスト者はどのように信仰のために立ち上がるべき?
私たちがキリスト者としてキリストのために立ち上がるためにできる二つの事はみ言葉にに従って生き、イエスをさらに知る事です。イエスは「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」るようにと(マタイ5:16)言われました。つまり私たちは福音にふさわしい形で行動し、生活するべきなのです。私たちはまた福音の知識(エペソ6:10-17)と世の中についての知識を備え持つ必要があります。Iペテロ3:15には「 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と書いてあります。私たちがすべき事はイエスがそうするように生活し、教える事であり、その他の全ての事は神が働かれるのです。キリスト教の批判者たちは近頃活発的
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- 「イエスは豊かないのちを約束された際、何を意味していたの?
ヨハネ10:10でイエスは「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。盗人とは違って、イエスは自己中心的な理由では来られず、人々が御自身によって、意義、目的、喜びがあり、永遠のいのちを得るために来られたのです。私たちはイエスを救い主として受け入れる際に、この豊かないのちを得る事ができるのです。「豊か」と訳されているギリシャ語はペリソンで、「非常に多く、もっと、過剰な、予想を超える量の」という意味があります。よって、イエスは私たちの思うところの全てを超えた豊かないのちを与えてくださるのです。これは他の新約聖書の箇所、1コリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そ
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- 神のみとの時間を過ごす事はなぜ重要なの?
どんな人間関係も時間がかかります。神との関係も他の人間関係と同様な点が多くあります。聖書には私たちが神との関係についてよく理解するための比喩が多く用いられています。例えば、キリストは花婿に、教会は花嫁に例えられる事が多くあります。結婚とは二人の人の人生を一つにするものです(創世記2:24)。結婚に必要な親密さは共に時間を過ごす事で進展するのです。もう一つの例えは父と子供の関係です。親密な親子の関係もまた、親と子が一緒に時間をすごす事で進展します。愛する人と一緒に時間を過ごす事はその人をさらに知る事につながります。神との関係も同様で、私たちが神のみと時間を過ごすならば、神との関係は近いものとなり、さらに神を知る事につながるのです。神は私たちと二人きりで過ごす時間を望んでおられ、私たちと個人的な
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- 肉的クリスチャンとは何のことですか?
真のクリスチャンが肉的な者であることができますか?この質問に答える前に、まず「肉的」ということばの定義をしましょう。「肉的」ということばは、ギリシャ語、sarkikos(サルキコス)からの翻訳で、文字通り「肉体の」という意味です。この叙述的な単語は、第1コリント3章1-3節の中にクリスチャンに関する前後関係の中で使われています。この箇所で使徒パウロは読者に「兄弟たち」と呼びかけています。この呼び方は、パウロが特にクリスチャンだけに対して用いたことばです。そして、パウロは彼らを「肉に属する者、つまり肉的」だと述べています。だから、クリスチャンが肉的になることもあるという結論を出すことができます。聖書は、全く罪のない人はいないと明確に教えています(第1ヨハネ1章8節)私たちが罪を犯すときには、い
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- クリスチャンの黙想とは何ですか?
詩篇19篇14節は「私の口のことばと、私の心の思い(黙想)とが御前に受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」と言っています。それでは、クリスチャンの黙想とは、何のことででしょう?クリスチャンはどのように黙想すべきなのでしょうか? 残念ながら、「黙想」ということばは、何か神秘的な意味を感じさせます。ある人たちは、黙想とは、異常な姿勢で座って、頭の中をを空っぽにすることだと思っています。中には、黙想とは私たちを取り囲む霊の世界と交わることだとする人もいます。このような黙想の概念は、クリスチャンの黙想の特徴では絶対にありません。クリスチャンの黙想は、東洋的神秘主義を基礎とするやり方とは何の関係もありません。そのようなやり方をするグループは数ありますが、 彼らは、みことばを通してではなく
- 1祈りが聞かれるためには何か条件があるのですか?
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- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......