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- なぜクリスチャンはみな偽善者なのでしょうか?
多分,「偽善者だ」という非難、これほど挑発的な非難はないでしょう。残念ながら、クリスチャンはみな偽善者だという考えは正当だと思う人もいます。「偽善者」ということばは、英語の単語の中で豊かな伝統を持っています。このことばは、「演技、振りをする」という意味のラテン語、ヒポクリシーズから来ています。もっと前には、古典ギリシャ語と新約聖書のギリシャ語の両方の中に出てきます。そして、ある役割の演技をする、振りをするという全く同じ意味があります。主イエスはこのことばを同様に用いられました。例えば、天のみ国の民に、祈り、断食、施しについて教えられたとき、偽善者たちのするようにするなといわれました。(マタイ6章2,5、16節)公の場で延々と祈ったり、異常なほどに気を使ってほかの人が自分の断食していることに気
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- クリスチャンの霊性とは何のことですか?
私たちは新生した時、聖霊を受けます。聖霊は贖いの日のために私たちに証印を押されます。(エペソ1章13節、4章30節)イエスは聖霊が私たちを“すべての真理に”導いてくださると約束されました。(ヨハネ16章13節)その真理の一部には、神についてのことを、自分の人生に適用することがあります。その適用ができたとき、信者は聖霊に自分をコントロールしてもらうかどうかの選択をします。本当のクリスチャンの霊性は、新生したクリスチャンが聖霊にどれほどまで人生を支配し、導いてもらうかどうかに基いています。使徒パウロは信者たちに、聖霊に満たされるようにと言っています。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5章18節)この箇所の動詞の時制は、継続ですから「御霊に
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- 私たちの罪がすでに赦されているのなら、なぜそれを告白する必要があるのですか?(第1ヨハネ1章9節)?
使徒パウロは、「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。このかたにあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、知恵と思慮深さをもって、、、、」(エペソ1章6-8節)と書いています。ここで、「赦し」とは、救いのことで、神が私たちの罪を「東が西から遠く離れているように、」(詩篇103篇12節)私たちから遠く離されることです。 これは、イエスキリストを救い主として信じ、受け入れたとき神が下さる司法上の赦しのことです。私たちの過去、現在、未来の罪さえも、すべてが赦されるということです。つまり、罪のために永遠の裁きに苦しむことはないという意味です。 しかしな
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- 私たちが罪を犯すとき、いつ、なぜ、どうやって神は懲罰(懲らしめ)を与えられるのですか?
主の懲らしめは、信者がしばしば無視する生活の現実です。私たちは、しばしば、自分の状況が自分の罪の結果であり、その罪に対する神の愛をもっての懲らしめの 一部であることに気付かずに、状況について苦情を言います。 このように自己中心的に無知でいると、信者は罪を犯す事が生活習慣になり、もっとひどい懲らしめを受ける結果になりかねません。懲らしめは、無情な刑罰と混同してはいけません。主の懲らしめは、神の私たちに対する愛の応答です。神は私たちがきよくなるようにと願っておられるのです。 「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」(箴言3章11-12節、またへブル12章5-11をご覧ください。)神は試練や試み、さまざまな苦境などを
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- 神のすべての武具とは何ですか?
「神のすべての武具」ということばは、エペソ6章13-17節に出てきます。「ですから、邪悪な日に際して、対抗できるように、またいっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」エペソ6章12節では、明らかに、サタンとの戦いは霊的なものだと暗示しています。だから、サタンとその子分たちと戦うには、有形的な武器では効果がないとわかります。特にサタンの用いる策略のリストは私たちには
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- 聖書は律法主義について何と言っていますか?
「律法主義」ということばは聖書には出てきません。律法主義とは、クリスチャンが、規則の組織と、救いと霊的成長を遂げるために用いる規定を強調する教理的立場を指して使うことばです。 律法主義者は規則や規定を文字通り厳守することを信じ、要求します。教理的には、本質的に恵みと反する立場です。律法主義的立場を支持する人たちは、しばしば律法の本当の目的、特に旧約聖書のモーセの律法の目的、つまり、私たちをキリストに導くための「養育係」(ガラテヤ3章24節)であったという目的を見逃しています。本当の信者でさえ律法主義になることもあります。私たちは、互いに慈悲深くあるようにと訓戒されています。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見を裁いてはいけません。」(ローマ14章1節)悲しいことに、他の人の見
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- クリスチャンは、救われる前にしろ後にしろ、過去に犯した罪に対する罪責の念をどのように処理すべきでしょうか?
誰もが罪を犯したことがあります。その結果のひとつが、罪の咎めを感じることです。罪意識を感じることはありがたいことです。なぜなら、そのおかげで、赦しを得ることを求めますから。人は、信仰によって罪に背を向け、イエス.キリストのところに行くとき、その瞬間に罪は赦されます。悔い改めは救われるための信仰の一部です。(マタイ3章2節;4章17節;使徒伝3章19節) キリストにあっては、最も極悪な罪でさえ消し去られます。(第1コリント6章9-11節にある悪い行いのリストを見て下さい。そのような罪でも赦されるのです。) 救いは恵みによるのです。恵みは赦すのです。人は救われた後でもまだ罪を犯します。しかし、その時も、神は赦すと約束されています。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちは、御父の前で弁護する方
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- もし、罪がすべて赦されているのなら、どうして罪を犯し続けてはいけないのですか?
使徒パウロは、ローマ6章1-2節で非常によく似た質問に答えています。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるでしょう。」救いのために「イエス.キリストを信頼した」人が, その前と変わらない生活を続けることができるという考え方は、聖書には絶対にない考えです。キリストにある信者は新しく造られた者(第2コリント5章17節)です。聖霊は、私たちが肉の行い(ガラテヤ5章19-21節)を産み出す者から御霊の実(ガラテヤ5章22-123節)を産み出すように変えてくださいます。クリスチャンの生活は変えられた人生なのです。なぜなら、クリスチャンは変えられたからで
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- キリストにあって、私は何者なのですか?
第2コリント5章17節によると、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」聖書の中で「新しい」と訳されるギリシャ語には二つあります。まず、neos(ネオス) は何か作られたばかりのものですが、他にもそれと同じようなものが多く存在していたという意味に使われます。ここの節で「新しく」と訳されていることばはkainos (カイノス)で、「作られたばかりのものだけれど、それまでに存在していたものとは違う今までになかったもの」という意味です。キリストにあって、私たちは全く新しいものに造られるのです。初めに神が天と地を何もないものから創造されたように、私たちをもそうされるのです。神は単に、古い自分をきれいにして下さるのではな
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- 霊の戦いについて聖書は何と言っていますか?
霊の戦いに関して、主な間違いが二つあります。ひとつは強調しすぎること、もうひとつは強調し過ぎないこと。.ある人たちはすべての罪と問題を悪霊のせいにして追い出さなければならないと考えます。反対にほかの人たちは、霊の領域と、聖書が私たちの戦いは霊的な力との戦いであると言っている事実をまったく無視します。 霊の戦いに勝利するかぎは聖書的なバランスを見つけることです。イエスは、時には、人から悪霊を追い出し、時には悪霊のことには触れず、人の病気を癒されました。 使徒パウロは、クリスチャンは自分のうちにある罪と戦うようにと教えています。(ローマ6章)それから、悪魔に対しても戦うようにと述べています。(エペソ6章10-18節)。エペソ6章10-12節は、「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって
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- 友達や家族の気を害したり、遠ざけたりすることなく、福音伝道するにはどうしたらいいでしょうか?
クリスチャンには、誰にでも、クリスチャンでない家族、友人、同僚、知り合いがあります。人に福音を伝えるのはいつも難しい事です。特に、自分と感情的にも親しい人となると、もっと難しく なります。聖書は、ある人たちは福音に気を悪くし、反抗すると言っています。(ルカ12章51-52節)私たちの愛する人やちょくちょく接触のある人達の気を悪くさせるかもしれない危険を冒すのは、特に困ったことです。しかしながら、私たちは福音を伝えるようにと命令されているので、それをしない言い訳はありません。(マタイ28章19-20節;使徒1章8節;第1ペテロ3章15節)。 では、家族、友人、同僚や知り合いに福音を伝えるにはどうしたらいいのでしょう?私たちがするべき最も重要なことは彼らのために祈ることです。神が彼らの心を変え、
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- 自分に対して罪を犯した人をどうやったら赦せるでしょうか?
人は誰でも、人生のあるとき、誰かからひどい扱いを受けたり、不正にあったりして、罪を犯されています。そのような悪いことに会ったとき、クリスチャンはどう反応すべきでしょうか? 聖書によると、赦すべきだということです。 エペソ4章32節はこう言っています。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。」 同じように、コロサイ3章13節でも、「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなたがたもそうしなさい。」と宣言しています。この二つの聖句の鍵となるのは、神が私たちを赦してくださったので、人をも赦さなければならないということです。なぜ、赦すか?なぜなら
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- 霊的成長とは何ですか?
霊的成長とは、もっともっとキリストに似た者となる過程です。私たちがイエスキリストに信仰を置くとき、聖霊が、私たちをキリストのかたちにより似た者となるようにその過程を始められます。霊的成長については、多分第2ペテロ1章3-8節に最もよく叙述されていると言っていいでしょう。 そこでは。私たちには敬虔な生活をするため、つまり、それが霊的成長の目標ですが、そのために必要なものは神の力によって与えられていると教えています。私たちに必要なものすべては「キリストを私たちが知ったことによって」与えられると言っているのに、注目してください。私たちが必要なものすべてを得るためのかぎは、キリストを知ることなのです。 キリストを知るのは、みことばを通して、つまり私たちの徳を高め、成長させるために私たちに与えられた神
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- どうしたら神の声だとわかるのでしょうか?
この質問は、いつの時代にも数知れない人がした質問です。サムエルは神の御声を聞きましたが、エリに言われるまではそれだとわかりませんでした。(第1サムエル3章1-10節)ギデオンは、神が肉を持って現れたにも関わらず、自分の耳を疑って、一度ならずも三度も 神にそのしるしを見せてくださいと願いました。(士師記6章17-22節、36-40節)神の御声に耳を傾けるとき、本当に神が話しておられるとどうしたらわかるのでしょうか?まず第一に、私たちには、サムエルやギデオンにはなかったものがあります。私たちには、読んで、学び、黙想するために、完成したみことば全巻があります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべて良い働きのためにふさわしい十分に
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- クリスチャンの断食について聖書は何と言っていますか?
聖書はクリスチャンに断食を命じてはいません。断食は神がクリスチャンに要求したり命令したりされていることではありません。同時に、聖書は、断食を良いことであり、有益で、して当たり前のこととして表現しています。 使徒伝は、信者が重要な決断をするときに断食したことを記録しています。(使徒13章4節;14章23節) 断食と祈りはしばしば繋がっています。(ルカ2章37節;5章33節) 断食において、食物を欠くことに焦点をあてることが多くあります。そうではなく、断食の目的はこの世の事柄から目を離して、神に目を向けるることにあるべきです。 断食は、神との関係を真剣に思うということを、神にも自分にも示す方法でもあるのです。断食によって、新しい見方を得て、さらに、一新して神に頼るようになる助けにもなります。 聖
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- なぜ神を信じるべきなのですか?
神を信じることは最も基礎的な人間の考えです。創造主を認識することは、その神をもっと知るための基礎です。.神を信じることなしには神を喜ばせることは不可能ですし、また神の元へ行くことも不可能です。(へブル11:6)私たちは神の存在の証拠に囲まれています。そして罪のかたくなさのせいで、人はその証拠を拒否するのです。(ローマ1:18-23)神を信じないのは愚かなことなのです。(詩篇14:1)人生には二つの選択肢があります。第一に、限界のある人間の理性を信じる選択肢があります。.人間の理性は様々な思想、世界の多くの宗教、〝主義"、異なったカルト、その他の概念と世界観を産み出しました。人間の理性のカギとなる特徴は、それは続かないこと、なぜなら人間自身が続かない者 だからです。それにまた人間の限界のある知
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- なぜそれほど多くの無神論者がいるのでしょうか?
無神論を議論する前に、無神論を定義する必要があります。正式の無神論者のウエブサイトによると、自分たちを以下のように定義しています。:「無神論は神々を信じないというのでも、神々を否定するのでもない。無神論は神々を信じることを欠いていることである。」、 無神論者だという人たちは、神を信じることの拒否よりも、信心を欠乏していることを強調しています。彼らは無神論は神への信仰よりも知的に優越していると考えます。しかしながら、この定義は、聖書的世界観と真っ向から対立しています。「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」(詩篇14:1;53:1)無神論者は、誰でも考えたり、信じたりする選択の自由があるということにほかの信仰の人と同意できるので、ここで、無神論を、人間が釈明する責任があるどんな種類の至
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- どうしたら善悪の区別ができるようになるのですか?
すべての人は神のかたちに似せて造られています。(創世記1:27;ヤコブ3:9)神のかたちに似せてということの一つは、本能的に善悪を認識し、何が正しく何が悪いか教える良心があることです。 世界中のどの文明にも、善悪の本能的な理解に基づいて、民のための似たような水準がありました。 殺人、盗み、詐欺などは普遍的に悪いと理解されています。 時々堕落がその知識をくつがえして、人民グループは悪を禁じるよりも悪を選択します.イスラエルの周りの異教徒たちが慣習とした幼児殺害などの場合にあるように。(レビ記18:21;2列王記23:10)罪の性質のせいで、私たちは自分のうちにある悪を許す傾向があります。(ローマ5:12;エレミヤ2:35)悪の言い訳をし続けていると良心を頑なにしてしまいます。ローマ1:28は悪
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- なぜ宗教に対する懐疑主義が今日普及しているのでしょう?
宗教に対する懐疑主義はあからさまな無神論、又は非宗教と混乱するべきではありません。無神論者もあるタイプの宗教の懐疑主義者と考えることもできますが。 宗教的懐疑主義者は、単に宗教に対して真剣に疑いを持っている人、又は宗教にあいまいな感じしか持っていない人かもしれません。実際、宗教的懐疑主義は 何も新しいことではありません。有名な懐疑主義者、ナタナエル(ヨハネ1:45-47)とトマス(ヨハネ20:25)はイエスの弟子になりました。疑いを持ってはいましたが。 しかし今日,宗教的懐疑主義はもっと流行ってきています。多くのことが宗教的懐疑主義の流行に貢献しています。一つは一般の文化です。千年以上もの間、西洋文化の精神は"クリスチャン″でした。つまりユダヤ教とキリスト教に共通の世界観は尊敬されて教えられ
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- 宗教は大衆のためにアヘンなのですか?
キリスト教(またはほかの宗教)を〝人々のためのアヘン"、又は〝 大衆のための麻薬"というレッテルをつけるのは宗教を否定する人々が使う共通の策略です。このような表現を使うのは、反論も議論もしようとせずに宗教を重要でないものとして受け流す方法です。. カール.マルクスはこの表現を最初に使った人ではないのですが、この表現を使って攻撃するとき、ほとんどの人がマルクスを考えています。マルクスの議論は、宗教は人々に錯覚のような人工の幸福を与える―アヘンが薬物中毒者に与えるような―非現実的な錯覚がよりよい社会を作る一部だとして人々を解放するとしました。主にマルクスから始まって、〝大衆のアヘン″という非難は、よく無神論者によって使われます。なぜなら彼らは神の存在を否定しているので、彼らは、引き続き存在する宗
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......