イエスはみ使いのかしらミカエルですか?

イエスはみ使いのかしらミカエルではありません。聖書のどこにもイエスがミカエルだ(または他のどのみ使いだとも)と言っていません。へブル書1 : 5- 8 では、イエスとみ使いの違いをはっきりさせています。「神はかつてどのみ使いに向かってこう言われたのでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』またさらに、『私は彼の父となり、彼はわたしの子となる。』さらに、長子をこの世界にお送りになる時、言われました。『神のみ使いはみな、彼を拝め。』またみ使いについては、『神はみ使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。』と言われましたが、御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。』」この箇所で天空の存在者の階級制度が

イエスとサタンは兄弟なの?

いいえ、イエスとサタンは兄弟ではありません。イエスは神であり、サタンはイエスの被造物のひとりです。イエスとサタンは兄弟でないだけではなく、夜と昼が違うほど違っています。イエスは人となられた神-永遠で全知全能な神である一方、サタンは神の目的のために創造された堕落したみ使いです。イエスとサタンが“霊的な兄弟 ”であるという教えは、モルモン教(末日聖徒キリスト教会 )の多くの間違った教えの中の一つです。またある程度エホバの証人の教えでもあります。この二つのグループは当然カルトと呼ばれるものです。なぜなら、彼らは本質的なキリスト教の教理を否定するからです。 彼らはキリスト教用語、イエス、神、救いなどを使う一方、基本的重要なキリスト教の教理に関して背教的な見解と教理を持っています。(今日ほとんどのモル

包含的福音とは何?

包含的福音とは、単に、昔からある背教、普遍救済説の新しい名前です。普遍救済説はすべての人が結局は救われて天国に行くという考えです。 包含の福音は、カールトン.ピアースとその他の人たちが教えるように、いくつかのにせの(間違った)教理を含んでいます。 (1) 包含的福音は、イエスの死と復活が、すべての人間が悔い改めの必要もなしに、永遠のいのちを天国で楽しむことができるための代価を支払ったと言います。(2) 包含的福音は、救いは無条件で、人間の罪の負債を支払うための代価としてイエスキリストを信じる信仰さえ要求されないと教えます。 (3) 包含的福音は、すべての人は 天国で生きる運命がある、それに気付いていようがいまいが。と信じています。(4) 包含的福音は、どんな宗教に属しているかとは関係なしに、

聖なる笑いとは何ですか?

“聖なる笑い”とは、人が抑えきれないで笑うという現象―おそらく聖霊の喜びで満たされた結果とされる現象を表現するために造り出されたことばです。 それは抑制できない爆笑をするという特色があり、時には卒倒したり、床にバッタリ倒れたりすることをも伴います。この体験を実際したという人たちの話は、いくらか違ってはいますが、みんな聖霊の“祝福”又は、“油注ぎ”のしるしだと信じているようです。聖なる笑いの体験は、自然と主観的な体験です。それで、ことの真相を見つけようとする努力は、客観的でなくてはなりません。 真理の定義が私たちの世界にあっての体験に頼るのなら、私たちの考えは、まったく相対的になるのに非常に近くなっています。 簡単に言えば、感情は私たちに何が真理か教えてくれないのです。 感情が悪いのではありま

信仰によって癒す人とは本当なの?信仰によって癒しをする人はイエス様と同じ力を持っているのですか?

神がいつでもだれでもいやす力を持っておられることは疑う余地もありません。問うべきことは果たして、神がいわゆる“信仰によって癒す人”を通して癒されるかどうかです。 こういう人たちは、典型的に、神はよくなってほしいと願っておられる、彼らの信仰を通して、―ふつう経済的な犠牲を払うことで―イエスの力によって彼らを癒すことでその信仰に報いてくださると聴衆を納得させようとします。主イエスの癒しのミニストリーと現代の信仰による癒しをする人のミニストリーを比較すると、彼らの主張に聖書的根拠があるかどうかがわかります。もし彼らが、言うように、イエスの癒しの力と同じ力で同じように癒すのなら、二つのミニストリーに著しい類似点を見ることができるはずです。 しかしながら、その反対が現実です。マルコ1:29-34には

脱構築主義は、聖書を解釈すために正当な方法ですか?

脱構築主義は、基本的に原典批評の理論で、又は、聖書箇所、又は聖書の本文にただ一つの正しい意味、又は解釈があるということを否定します。解釈の脱構築主義の理論の中心には、二つの主要な考えがあります。 まず、どの聖書箇所も一つの信頼できる首尾一貫した筋の通ったメッセージを、読者/聴者の誰にでも伝達することは不可能だと言う考えです。二番目はその本文を書いた著者よりも、言語や著者が無意識に持っていたイデオロギーのような人格を持たない文化の力がその内容に関してより責任があると言う考えです。それで、脱構築主義の基本的教義は、絶対的真理は存在し、私たちはそれを知ることができると言う聖書の明確な教えとは反対です。(申命記32:4;イザヤ65:16;ヨハネ1:17-18;ヨハネ14:6;ヨハネ15:26-27;

文化的相対論とは何?

文化的相対論とは、すべての信条、習慣、道徳は各個人の社会において相対的であるという考えです。つまり、何が正しくて悪いかは文化において独特である、ある社会で道徳とみなされることは別の社会では不道徳と見られるかもしれない、普遍的な道徳の水準がないので、 別の社会の習慣を裁く権利は誰にもないというのです。文化的相対論は現代人類学で広く受け入れられています。文化的相対論者は、すべての文化はそれぞれに価値があり、同等の価値があると信じています。文化的相違点は、相反する道徳を持つ文化でさえ、 善悪と言うことばで考えるべきではない。今日の人類学者たちは、すべての文化は同等に人間の経験の正当な表現なので、純粋に中立した見方で研究すべきであると考えます。文化的相対論は倫理相対論と深く関係しています。倫理相対論

条件付き保障とは何?

”条件付き保障”とは、イエスキリストにある信者の救いについての神学的ことばです。それは、クリスチャンの救いの永続する質のことを述べています。つまり、クリスチャンの救いは”条件付きで保障されている“と言うのです。と言うと次の質問が出てきます。どんな条件でクリスチャンの救いは保障されているかです。条件付きの保障を支持する人たちは、救いは最後まで忠実であることと言う条件付きであると主張します。聖書が用いている比喩で言うと競技者は、褒美を受け取るために最後までレースを走り抜けなければならないのです。 条件付きの保障と言う教理を信じる人は、その根拠として以下の聖書箇所を使います。「またにせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後ま

集団的救いとは何?

〝集団的救い”とは基本的には、“私たちすべての人が救われなければ、誰も救われない”又は、“私たちは個人として全体の益のために協力し、犠牲を払わなければならない”という意味です。別の言い方は、集団的救いの意味は、〝自分だけでは救われない。集団と協力し、犠牲すら払って、自分の役目を果たし、他のすべての人の救いを 確実にしなければならない。みなが一緒に救われるのはその時である。”しかしながら、救いは十字架上のキリストの犠牲を通して、神が個人を救われる過程だと聖書は明らかに言っています。一人一人が、集団としてではなく、個人的にキリストの 元へ来なければなりません.集団的救いは、世界教会運動に似てもいます。世界教会運動は、多くの主流のプロテスタント教会がカトリック、イスラム教、仏教、東方神秘宗教、カル

バプテズマによる新生とは何ですか?

バプテズマによる新生とは救われるためには水のバプテズマが必要だという考えです。またはもっと正確に言えば、水のバプテズマを受けるまでは新生が起こらないという教理です。 バプテズマによる新生と言う教理は多くのキリスト教団の教えです。特に キリストの教会や国際キリストの教会が熱心に奨励しています。バプテズマによる新生を弁護する人たちは、マルコ16:16、ヨハネ3:5、使徒伝2: 38、使徒伝22:16、ガラテヤ3:27、それから1ペテロ3:21などの聖句を指摘して聖書的支持があるとします。これらの聖句が救いにバプテズマは必要だと言っているように見えることは認めます。しかしながら、これらの聖句を聖書的、文脈上、正しい解釈をすると、バプテズマによる新生を支持してはいません。.バプテズマによる新生を唱え

死者のためのバプテズマとは何?

死者のためのバプテズマは、非聖書的な慣例で、すでに死んだ人の信仰の公けの告白とする方法として、生きている人が代わりにバプテズマを受けることです。本質的に、死者にバプテズマを授ける慣習と考えることができます。この慣習は1コリント15:29の誤った解釈に基づいています。「もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテズマを受ける人たちは何のためにそうするのですか?もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは死者のゆえにバプテズマを受けるのですか。」これは非常に解釈しにくい難しい箇所です。 しかし、聖書の他の箇所と比較すると、死者以外の誰かがバプテズマを受けることで死者が救われるという意味ではないことがわかります。なぜなら、まず第一にバプテズマは救いのために必要な条件ではないからです。(エペ

編集(校訂)批評と高層批評とは何?

編集(校訂)批評と高層批評は多くの聖書批判の種類の中のいくつかのことです。彼らの意向は、聖書を調査して、聖書の著者、歴史的確実性、書かれた年代などに裁決を下すのが目的です。 聖書の批評は、二つの主な種類に分けることができます。高層批評と下層批評です。下層批評とは、私たちには、原典がもう残されてないので、聖書の書の原文の字句、語法を見つけようとするものです。高層批評は、本文が本物かどうかを取り扱います。いつ本当に書かれたのか、本当に誰が書いたのかなどという質問をします。このグループの多くの批評家は聖書が神の霊感によって書かれたことを信じていません。それで、このような質問を使って、聖書の著者たちの人生における聖霊の働きを追い払おうとします。彼らは、旧約聖書は単なる口述の伝統を寄せ集めたもので、紀

共観福音書の問題とは?

三つの福音書―マタイ、マルコ、ルカ―を比較すると、その内容と表現において、記事が間違いなく非常によく似ています。その結果、マタイ、マルコ、ルカは”共観福音書”と呼ばれます。”共観”ということばは、基本的に”共通の見解として共に見る”という意味です。共観福音書の間の多くの類似点のせいで、福音書の著者たちに共通の出所、つまりキリストの誕生、人生、宣教、死と復活に関する別の書物があったのではないか、そこから福音書の内容を得たのではないかとある人たちは疑いました。 マタイ、マルコ、ルカは非常に似ているので、互いの福音書、または別の共通の出所を使ったに違いないとある人たちが議論するほどです。この想像の”出所”は”Q”という名称さえ与えられてきました。Q はドイツ語のquelle から、”出所、源”とい

多神教とは?

多神教とは、多くの神々がいるという考えです。多神教は人類の歴史上、多分最も主要な 神についての概念だったと言えるでしょう。最もよく知られている多神教の例は、古代ギリシャ/ローマの神話です。(ゼウス、アポロ、アプロデイーテー、ポセイドンなど)多神教の最も明確な現代的例は、3億という神々を持つヒンズー教です。ヒンズー教は本質的には汎神論的ですが、多くの神々を信じてはいます。多神教の宗教でも、面白いことに、通常、一人の神が他の神々の上に立って支配しています。例えば、 ギリシャ/ローマ神話のゼウス、ヒンズー教ではブラーマン。ある人たちは、旧約聖書では多神教を教えていると議論します。数箇所で「神々」と複数 で使っていることは認めます。(出エジプト記20:3;申命記10:17;13:2;詩篇82:6;ダ

ペラギウス主義とセミ.ペラギウス主義とは?

ペラギウスは紀元300年末期と400年の初期に生きた修道士です。ペラギウスは、人間は、もともと原罪のしみも、また受け継いだ罪もない 潔白に生まれてきたと教えました。彼は、 神は人間ひとりひとりの魂を直接創造された、だから人間の魂は皆もともと罪がなかったと信じました。アダムの罪は、人類の未来の世代に影響を与えなかったと信じました。この考えが、ペラギウス主義として知られてきました。ペラギウス主義は多くの聖書箇所と聖書的原則に反しています。第一に、聖書は、私たちは受胎した瞬間から罪深いと言っています。(詩篇1:5) さらに、聖書は、すべての人間は罪の結果死ぬと教えています。(エゼキエル18:20;ローマ6:23)ペラギウス主義は人間は、自然と罪を犯す傾向を持って生まれてきてないといいますが、聖書は

道徳的相対論/主義とは?

道徳的相対論は、道徳的絶対主義と比較して考えるとより簡単にわかるでしょう。絶対論は、道徳は普遍的原則(自然の法則、良心)に基づくと主張します。クリスチャン絶対主義者は、神こそが私たちに共通の道徳の源泉 であると信じ、だから、神と同様、変わることはないと信じます。道徳的相対論者は、道徳は、どんな絶対的標準に基づくものではない と主張します。それよりも倫理的”真理“は、どちらかというと、状況、文化、感情などの変り易いもの次第であると言います。道徳的相対論についての議論のあいまいな性質を現わすのにいくつかのことが言えます。まず第一に、相対論を支持しようとして多くの議論があり、最初は良いように聞こえるかもしれません。それらすべての議論に固有の論理的矛盾があります。それらはすべて、私たちが従うべき”正

汎神論とは何?

汎神論/万有神教とは、神は何でも皆、誰でも皆である、そして何でも皆が誰でもが神であるという考えです。汎神論は多神教(多くの神々を信じる教え)と似ていますが、多神教をもっと超えて何でも皆が神であると教えます。木は神、石は神、動物も神、空は神、太陽も神あなたも神、、など。汎神論は多くのカルトや偽宗教(例えば、ヒンズー教と仏教 もある程度は、そうですが、そのほかさまざまな統一的カルト、”母なる自然”を礼拝者たち)の裏にある仮説です。聖書は汎神論を教えているでしょうか?いいえ、教えていません。多くの人たちが汎神論として混同しているのは、神の遍在という教理です。詩篇139:7-8は、「私はあなたの御霊から離れてどこへいけましょう。私はあなたの御前を離れてどこへのがれましょう。たとい私が天に上っても、そ

アリウス派主義とは何?

アリウス派主義は、アリウス、4世紀初めごろの教師の名から来ています。初代クリスチャンたちの間で、最も初めの、多分最も重要な議論の項目のひとつはキリストの神性の問題でした。イエスは本当に肉体を取った神だったのか、それとも創造された存在だったのか。イエスは神か、または単に神のようだったのか。アリウスは、イエスは 、神が他の創造のわざをする前に、神によって創造された、すべての創造のうちの無上の栄光だったと信じました。アリウスは、それで、イエスは神の特徴を持って創造された者であるが、イエス自身は神ではなかったという考えです。. アリウス主義は、イエスが疲れたこと(ヨハネ4:6)や、再臨のときを知らないこと(マタイ24:36)などについて書かれたところを誤解しています。その通り、神がどうして疲れること

二元説/二元論とは?

神学においては、二元論の概念は、二つの違った存在者―つまり善と悪―その二つが力において同等な存在者があると仮定します。”クリスチャン的”二元説では、神が善なる存在を代表し、サタンが悪なる存在を代表します。しかしながら、真理は、サタンでさえいくらか力はありますが、全能なる神と同等な力ではありません。なぜなら、サタンは反逆する前は、み使いとして神に造られた者だからです。(イザヤ14:12-15;エゼキエル28:13-7) 聖書が示すように、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方がこの世のうちにいるあの者よりも力があるからです。」(第1ヨハネ4:4)聖書によると、二元説は存在しません。善と悪という同等の力を備えた二つの互いに反対する存在

JEDP 論とは?

要するに、JEDP 論は、聖書の最初の五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、全部がモーセ、紀元1451年に死んだモーセだけによって書かれたのではなく、モーセの死後、違った著者/編集者によっても書かれたというものです。この論は、五書の中の違った部分で異なった神の名が使われている事実と言語的様式に探知できる違いがあることに基づいています。JEDP論の文字は、4人の推定できる著者;“Jehovah、ヤーウエ” を神の名として使う著者、” Elohim エロヒム“を神の名とする著者、Deuteronomy (申命記)の著者、そしてレビ記を書いた祭司の(Priestly)著者 を代表しています。 JEDP論は、さらに、モーセ五書のいろいろな部分が、紀元4世紀頃に、多分エズラによって集め

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