絶対的真理・世界的真理というようなものがありますか?

絶対的または世界的真理があるかどうかを理解するために、真理とは何かを定義することから始めなければなりません。辞書によれば、真理とは「事実または現実性との一致。真理として証明される、または受け入れられている声明。現実または現実性」のことです。本当の現実などというものはなく、認識と意見だけが存在するのだと言う人もいるでしょう。その一方、何か絶対的現実、または真理があるはずだと論じる人もいるでしょう。ある見解では、現実を定義する絶対というものはないと言います。この見解を持つ人たちは、すべてのものは何か他のものに相対的なのであって、実際の現実というものはないかもしれないと信じています。そのことのゆえに、究極的に道徳的絶対はなく、ある行為が積極的か否定的か、正しいか間違っているかを決める権威もないとい

聖書は嫉妬について何と言っているの?

「嫉妬」という言葉を使うとき、私達は、自分が持っていない物を持っている誰かをうらやむというニュアンスで使います。この類の嫉妬心は罪であって、クリスチャンの所有するべき人格ではありません。この嫉妬心を持っている人はまだ肉に属していると言えるでしょう(第一コリント3章3節)。ガラテヤ書5章26節には「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」と書いてあります。聖書は神様が私達に示しておられる様な完璧な愛を持つようにと教えています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず…」(第一コリント13章4-5節)。私達が自分自身や自分の欲望に注目すれ

クリスチャンは自尊心についてどう考えればいいの?

自尊心はしばしば「自分の特技、達成した事、肩書き、金銭的状況や見た目を通して自分に価値を見出す事」と定義されています。この類の自尊心を持った人達は独立心と高慢にかられ、自分を礼拝し、神様を求める思いを持ちません。ヤコブ4章6節には「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」と書いてあります。もし私達がこの世の富のみに信頼しているならば高ぶりからくる価値以外に得るものはありません。しかしイエス様は「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17章10節)と言われました。しかしクリスチャンが自尊心を持つべきではないとは言いません。自分のする事ではなく、キリストにある

聖書は感染爆発病気について何と言っていますか?

エボラや新型コロナウイルスなどの様々な感染症の発生のせいで、多くの人は神はなぜ感染爆発を許されるのか―または引き起こしさえされるのか、またそれらの病気は終末のしるしなのかと問うようになりました。聖書、特に旧約聖書は、神の民と、神の敵の上にペストや疫病を神が起こされた多くの場合を述べています。それは「 わたしの力をあなたに示すため」(出エジプト記9:14,16)でした。神はパロがイスラエルを解放するようになるために、エジプトの上に疫病をもたらし、一方神の民がそれに影響されないように守られました。(出エジプト記12:13;15:26) そうして病気やその他の災難の上に神の主権的支配 があることを示されました。神はまた神の民に不従順の結果を疫病も含めて警告されたのです。(レビ記26:21,25)二

聖書はうわさ話や陰口について何と言っているの?

「うわさ話」と旧約聖書で訳されているヘブル語の単語は「秘密をばらす、告げ口屋でスキャンダルが好きな人」と定義されています。うわさ好きな人や陰口をたたく人は人の秘密や情報を知っていて、知る必要がない人にそれを教える人です。うわさ話と普通の情報提供の違いは動機にあるでしょう。うわさ好きな人達や陰口をたたく人達は、他の人達を見下すことや、自分を情報屋と見立てる事で良い気分になる事が目的なのです。ローマ書で、パウロは人間の罪深さについて書いています。神様の律法に従わない人々に神様が御怒りを注がれ、そして御自身に従おうとしない人々を彼らの自らの罪に引き渡されたのです。その罪のリストには陰口とそしりが含まれています(ローマ1章29節bー32節)。この箇所から、陰口という罪がどれだけ重大で、神様の怒りを招

聖書は忍耐について何と言っているの?

何もかもがうまく行っている時に忍耐を示すことは簡単ですが、忍耐が本当に試されるのは渋滞で他の車に割り込まれたり、理不尽な扱いを受けたり、同僚に何度も何度も信仰を馬鹿にされたりする等、私達の権利が侵される時でしょう。焦燥や試練に直面する時に、怒る権利があると思う人達もいるかもしれません。このような時にすばやく反応することが「聖なる怒り」の様に思えるかもしれませんが、聖書は忍耐をキリスト者皆が結ぶべき(第一テサロニケ5章14節)御霊の実(ガラテヤ5章22節)として挙げています。忍耐は神様のタイミング、全能さと愛への信頼を示すものなのです。多くの人達は忍耐を受動的な待機や寛大さや寛容とみなしていますが、新約聖書で「忍耐」と訳されているギリシャ語の単語のほとんどは能動的で強健な単語なのです。例えば、

聖書は心配する事について何と言っている?

クリスチャンは心配するべきでないと聖書にはっきり書いてあります。ピリピ4章6節には「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」という命令が書いてあります。この箇所を通して, 私達のすべての必要や思い煩いは心配する代わりに、神様に祈りをもってゆだねる必要があると学べます。イエス様も衣食住などの必要を心配してはならないと励ましてくださっています。それは天の神様が私達の必要を満たしてくださるからです(マタイ6章25-34節)。ですから、私達は何事も心配する必要はないのです。心配事がキリスト者の生活の一部であってはならないならば、どうすれば心配する事に打ち勝つことができるのでしょうか?第一ペテロ5章7節で私達は「あなた

聖書は高慢について何と言っている?

神様が嫌っておられる高慢さ(箴言8章13節)と、達成した事に対して感じる誇りは違ったものです。独善的考え方から出てくる高ぶりは罪であり、神様を求める事の妨げになるため、神様はそれを嫌っています。詩篇10篇4節では高ぶった人達は自分に陶酔していて神様の事を考えていない事が書いてあります。「悪者は高慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言につきる」とあります。この類の高ぶりは神様が望んでおられる謙遜さとは反対の物です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5章3節)。「心の貧しい者」とは神様の恵みなしでは神様に来ることができない自らの霊的破産の状態を認めている人達のことです。反対に、高慢な人達は高ぶりに高ぶっていて神など必要ない、または神は自

怠惰さについて聖書はなんと言っている?

ニュートンの運動の第一法則には、すべての物体は、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続けるとあります。この法則は人々にも当てはまるものと言えるでしょう。ある人は仕事をばりばりこなすタイプである一方、ある人はそんな事には無関心で、なかなかやる気が出ず、ものぐさなタイプだったりします。ある人達には生活習慣そのものである怠惰さは全ての人が直面する誘惑です。しかし、神様は人類が仕事をするように命じておられると、聖書にはっきり書いてあります。「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ」(箴言6章6節)。怠惰さに関する事が聖書には沢山書いてあります。特に箴言は怠惰さに関することわざや怠け者に対する警告でいっぱいです。怠け者は働くことを嫌い「なまけ者の欲望は

聖書にはどの食品を食べるべきか等の決まりはあるの?クリスチャンが避けるべき食品はある?

レビ記11章には神様がイスラエルの民に与えた食事的規制が書いてあります。この食事的規制には豚肉、甲殻類、ほとんどの昆虫、腐肉を食う鳥類等、多くの動物が含まれていました。この食事制限はイスラエル人以外には適用されないもので、イスラエル人達を周りの国々と区別するためのものでした。この目的が果たされた後に、イエス様が全ての食べ物はきよいと宣言されました(マルコ7章19節)。神様はまぼろしを通して、以前は汚れているとされていた動物達を食べても良いと使徒ペテロに示し、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(使徒10章15節)と言われました。イエス様は十字架の死を通して、食事制限に関する律法も含め、旧約の律法の全てを達成されました(ローマ10章15節;ガラテヤ3章24-26節;エペソ2章15

聖書は幽霊やとり憑きについてなんと言っている?

幽霊は実在するのでしょうか?この質問の答えは「幽霊」という言葉が何を指しているかによって変わってきます。もしも霊的な存在を指して「幽霊」といっているのならば、「幽霊」が実在するといえますが、死んだ人の霊を指して「幽霊」というのなら、幽霊はいないと言えるでしょう。良い霊も、悪い霊も含め、霊的な存在がいる事は聖書にはっきりと書かれています。しかし、死んでしまった人間が現世に残っている人や物に「とり憑く」という事は聖書には書かれていません。ヘブル書9章27節に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と書かれています。そうです、裁きを受ける事が人間の死後の霊の運命なのです。この裁きの結果はキリスト者が天国に行き(第二コリント5章6-8節、ピリピ1章23節)、不信者が地獄に行

アカウンタビリティー(説明責任)の大切さについて聖書には何と書いてあるの?

誘惑があふれているこの世で、悪魔はさらに誘惑を増やそうと働き続けています。私達の霊的生活を脅かす誘惑に遭っている時に頼る事ができる兄弟や姉妹がには必要です。姦淫の罪の誘惑に遭った夜、ダビデ王は一人でした。ダビデ王を誘惑したのはバテ.シェバであるかに見えたかもしれません。(第二サムエル11章)。しかし、 私達の格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者達、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものだと聖書に書いてあります(エペソ6章12節)。暗闇の力との戦いの渦中にいる私達はできる限りの助けが必要です。神様が下さる全ての力を身につけてこの戦いに備える必要があるとパウロはエペソ書で言っています。「ですから、邪悪な日に際して対抗できる様に、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つ

聖書は恐れについて何と言っているの?

聖書に書かれている恐れは二種類あります。一方は健康的で望ましいものですが、もう一方は有害な、打ち勝つべき恐れです。一つ目は主への恐れです。この種の恐れは何かを怖がるというものではなく、むしろ主に対する、主の力と栄光に対する畏敬の念を表すものです。それと同時に神の怒りを尊重するものでもあります。主への恐れとは、つまり神様がどんな方であるのかの全てを認める恐れなのです。それは、神を知り、神のご性質を知ることで得られます。主への恐れは多くの恵みと益をもたらします。主を恐れる事は知恵の始まりであり、よき理解をもたらします(詩篇111編10節)。知恵と訓戒をさげすむのは愚か者だけです(箴言1章7節)。主への恐れはさらにいのち、安らぎ、平安と満足をもたらします(箴言19章23節)。主を恐れる事はいのちの

聖書は戦争について何と言っていますか?

たくさんの人たちが、聖書が「殺してはならない」と言っていることを信じてこの命令を戦争に適用するという間違いを犯します。 しかしながら、聖書は実際「人殺しをしてはならない」(出エジプト20:13)と言っています。このへブル語の文字通りの意味は「敵意をもってほかの人を意図的に、計画的に殺すこと」です。神さまはしばしばイスラエル人に他の国と戦争をするように命じられました(Iサムエル15:3、ヨシュア4:13)。神さまはいくつもの犯罪に対して死刑を命じられました(出エジプト21:12、21:15、22:19、レビ記0:11)。 ですから、神さまはどんな状況においても殺すことに反対しておられるのではなく、むしろただ、殺人に反対しておられるのです。 戦争は絶対に良いことではありませんが、ときとして必要で

「聖書には怒りについて何と書いてあるの?」

怒りを制する事は大切な事です。クリスチャンカウンセリングに訪れる人の五割以上が怒りを制する事に課題を感じています。怒りは意思伝達を壊し、人間関係を引き裂き、人々の喜びと健康を脅かします。悲しい事に、多くの人々は責任を受け入れる代わりに怒りを正当化してしまっています。程度は違っても怒りとの戦いを経験しない人はいないのです。幸い、聖書には神様に喜ばれる形で怒りを制する方法や、罪になる怒りに打ち勝つ方法が書いてあります。全ての怒りが罪というわけではありません。聖書が良しとしている、いわゆる「聖なる怒り」と呼ばれるものがあります。神様自身が怒っている記述もあり(詩篇7編11節;マタイ3章5節)、キリスト者が怒る事が認められている箇所があります(エペソ4章26節)。「怒り」と訳されているギリシャ語の言

聖書は自分の財政を管理することについて何と言っていますか?

聖書は財政管理についてたくさんのことを言っています。借金に関しては、聖書は一般的に反対です。箴言6:1-5、20:16、22:7、26-27を見てください。(「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。・・・あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか。」)わいろを取ることに関して、箴言17:23はこう言います。「悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。」(箴言17:8、18:16、21:14、28:21も参照のこと)何度も何度も、聖書は富をためこむことに反対して警告し、そのかわりに私たちが霊的な富を求めるようにと奨励しています。箴言28:20「忠実な人は

聖書はいやしについて何と言っていますか?キリストの贖いにはいやしがありますか?

あとからもう一度Iペテロ2:24に引用されている、イザヤ53:5はいやしに関する重要な手がかりとなる節ですが、また、しばしば誤解され、間違って適用される節でもあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)「いやされた」と訳されていることばは、霊的ないやしと肉体的ないやしのどしらをも意味することばです。しかしながら、イザヤ53章とIペテロ2章の文脈から、霊的ないやしのことを語っているのはあきらかです。Iペテロ2:24は「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷の

聖書は死刑について何と言っていますか?

旧約聖書の律法は、様々な行為に対して死刑を命じました。殺人(出エジプト21:12)、誘拐(出エジプト21:16)、獣姦(出エジプト22:19)、姦淫(レビ記20:10)、同性愛(レビ記20:13)、にせ預言者となること(申命記13:5)、売春とレイプ(申命記22:4)、そしてそのほかいくつかの犯罪です。しかしながら、神さまは死刑が当然とされるとき、しばしばあわれみを示されました。ダビデは姦淫と殺人を犯しましたが、神さまは彼のいのちを要求されはしませんでした(IIサムエル11:1-5、14-17、12:13)。究極的に私たちが犯したひとつひとつの罪は死刑に相当します。なぜなら、罪から来る報酬は死だからです(ローマ6:23)。感謝すべきことには、神さまは私たちに有罪判決をくださないことでご自身の

聖書はうつ病について何と言っていますか?クリスチャンはどのようにしてうつ病を乗り超えられるのでしょうか?

うつ病は、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、何百万人という人々に影響を与えている広く行き渡った疾患です。うつ病に苦しむ人たちは、激しい悲しみ、怒り、希望のなさ、疲労といった感情や、そのほか様々な症状を経験する可能性があります。彼らは自分が役に立たない者と感じ始めたり、自殺したくなったり、以前は楽しんでいたことや人々への興味を失うこともあります。うつ病はしばしば、失業や、愛する人の死、離婚のような人生の状況や、虐待や自尊心の低さといった精神的な問題によって引き起こされます。聖書は喜びと賛美に満たされるようにと言っていますから(ピリピ4:4、ローマ15:11)、神さまはあきらかに私たちが喜びに満ちた人生を生きるように意図されています。それは、状況的なうつ病に苦しんでいる人にとって簡単なこと

クリスチャンは富についてどう考えるべきですか?

クリスチャンが富についてどう考えるかは聖書の教えに従うべきです。旧約聖書には何度か神が人に富を与える様子が描かれています。ソロモンにも富が約束され、やがてソロモンは世界で一番裕福な王になりました (1列王記3:11-13; 2歴代誌9:22)。ダビデは1歴代誌29:12で「 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。」と言いました。アブラハム(創世記17-20)、ヤコブ(創世記30-31)、ヨセフ(創世記41)、ヨシャパテ王(2歴代誌17:5)をはじめ多くの人が神から富を与えられました。しかしながら、ユダヤ人はこの世の約束と報酬を与えられるという神の選民でした。それで彼らには土地とその

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