絶対的真理・世界的真理というようなものがありますか?

は、神、聖書、救い、そのほかの霊的な課題を理解することの助けとなる のを願って、それに専念し、訓練を受けたボランテイヤの奉仕者から成るミニストリーです。私たちはクリスチャンです。プロテスタント、保守主義、福音派、根本主義、そして無宗派です。私たちは、教会と相並んで、霊的なことに関しての質問の答を人々が見つける手伝いをするパラ.チャーチ.ミニストリーだと自分たちを見ています。
絶対的または世界的真理があるかどうかを理解するために、真理とは何かを定義することから始めなければなりません。辞書によれば、真理とは「事実または現実性との一致。真理として証明される、または受け入れられている声明。現実または現実性」のことです。本当の現実などというものはなく、認識と意見だけが存在するのだと言う人もいるでしょう。その一方、何か絶対的現実、または真理があるはずだと論じる人もいるでしょう。

ある見解では、現実を定義する絶対というものはないと言います。この見解を持つ人たちは、すべてのものは何か他のものに相対的なのであって、実際の現実というものはないかもしれないと信じています。そのことのゆえに、究極的に道徳的絶対はなく、ある行為が積極的か否定的か、正しいか間違っているかを決める権威もないというのです。この見地は、何かが正しいか間違っているかは状況によって変わるという「状況に応じた倫理」につながります。正しいとか間違っているとかいうことはなく、結果的にその時、その状況の中で正しいと感じられるまたは正しく見えることが正しいというのです。もちろん、状況に応じた倫理は主観的な「良いと感じることは何でも良い」という考え方とライフ・スタイルにつながり、それは、社会と個人に手ひどい影響を与えるのです。これが、すべての価値観と信条とライフ・スタイルと真理が平等に有効であると見なす、ポスト・モダンの社会です。

ほかの見解は、何が真理で、何が真理でないかを決める絶対的な現実と標準が確かにあると言います。ですから、何かの行為はこれらの絶対的標準に照らし合わせて正しいか間違っているかを決定することができます。もし、絶対も、現実もないのなら、その結果は混沌です。たとえば、引力の法則を見てみましょう。もしも絶対がないのなら、私たちが動こうと決めるまで、ひとつの場所に立つとか座るとかできるかどうか、はっきり分かりません。 あるいは、2+2がいつでも4にならないなら、文明社会に与える影響は悲惨でしょう。科学と物理の法則は意味がなくなり、通商は不可能 となります。そうなったらとんでもないことですが、感謝なことに2+2は4なのです。絶対的真理は存在し、それを見つけて理解することができるのです。

絶対的真理はないという陳述をするのは、非論理的です。それなのに、今日、多くの人々がどんなタイプの絶対的真理をも否定する、文化的相対主義を擁護しています。「絶対的な真理は存在しない」と言う人への良い質問は次のようなものです。「そのことに絶対的に確信がありますか?」もし、はいと言うなら、彼らはその中に絶対を含む絶対的陳述をしたのです。絶対的真理はないという事実だけが唯一の絶対的真理だと言っているのです。

この自己矛盾のほかに、絶対的あるいは世界的真理は存在しないということを受け入れる、または信じるためには克服しなければならない理論的な問題がいくつかあります。第二の問題は、すべての人間は限りある知識と限界ある理性しか持っていないので、論理的に、絶対的に否定的な陳述をすることはできないということです。人は、論理的に「神はいない」と言うことはできません(多くの人たちが言っているとしてもです)。なぜなら、そのような陳述をするためには、彼らは宇宙全体の初めから終わりまでの絶対的な知識を持っている必要があるからです。それは不可能なことですから、理性的かつ論理的に彼らが言える最大限のことは「私が持っている限りある知識において、私は神が存在することを信じていない」ということです。

絶対的真理・世界的真理を否定することの第三の問題点は、その否定が自分自身の良心、経験と現実世界で私たちが見るものの中で真理として知っているものに反するということです。もし絶対的真理というようなものが存在しないなら、何に関しても究極的に正しいとか間違っているということはなくなってしまいます。あなたにとって「正しい」ことが、私にとって「正しい」とは限りません。このようなタイプの相対主義は表面的には魅力的ではありますが、もしそれが本当なら、ひとりひとりが自分の規則を決め、自分が正しいと思うことを行うことになります。間もなくある人の正しいという感覚がほかの人の感覚と衝突することは避けられません。もしも、信号が赤でもそれを無視することが私にとって「正しい」としたら、どうなりますか?私自身の命は言うに及ばず、ほかの人たちの命を危険にさらすことになります。また、私があなたから盗むことを正しいと考え、あなたは正しくないと考えるとしたらどうでしょう。あきらかに、あなたと私の正しいことと間違っていることの基準は衝突します。もし、絶対的真理がなく、私たちみんなが責任を問われる正しいことと間違っていることの基準がないとしたら、私たちには何も確信できることがなくなってしまいます。人々は何でも自由にやりたいことをするでしょう。殺人、レイプ、盗み、うそ、いんちきなど、誰もこれらのことが間違っていると言えなくなってしまいます。政府も、法律も、正義も存在できません。なぜなら、少数派の人々に対して多数派が基準を作ったり押し付けたりする権威を持っているとさえ言えなくなってしまうからです。絶対のない世界は、想像できる限りの最悪の世界です。

霊的な視点から言うと、このようなタイプの相対論は、宗教的混乱をもたらします。なぜなら、本当の宗教があり得ないし、神さまと正しい関係をもつための決まった方法もあり得ないからです。.すべての宗教は、偽ものということになります。なぜなら、彼らすべてが死後の世界に関して絶対的な主張をするからです。今日、人々が正反対のふたつの宗教をどちらも平等に「真理である」と信じることは珍しくありません。そのどちらの宗教も、自分たちだけが天国への道を持っていると主張したり、どちらも全く正反対の「真理」を教えているのにも関わらず、です。絶対的真理を信じない人たちは、これらの主張は無視して、すべての宗教は平等ですべては天国に通ずると教える、もっと寛容な普遍主義を擁護します。.この世界観を擁護する人々は、イエスが「道であり、真理であり、いのち」であると言い、また、イエスが真理の究極的な顕現であり、天国に入る唯一の道であると述べている(ヨハネ14:6)聖書を信じている、福音主義クリスチャンに激しく反対します。

ポスト・モダンの社会では、寛容が中心的な徳、ひとつだけの絶対となり、そのために、不寛容が唯一の悪となりました。どんな独断的な信条も、特に絶対的真理を信じる信条は、不寛容と同義語であり、究極的な罪であるとします。絶対的真理を否定する人々は、あなたが人に自分の信条を押し付けない限り、何を信じても良いとしばしば言います。でも、この見地そのものが何が正しくて何が間違っているかに関する信条であり、この見地を持っている人々はあきらかにこれを他の人たちに押し付けようとしているのですから、彼らは偽善的です。彼らは、行動の基準を設け、他の人々にそれに従うように強く要求するのですから、彼らが支持しているふりをしているまさにそのことを破っています。このような信条をもっている人々は、単に自分たちの行動に責任を持ちたくないのです。もし、絶対的真理があるのなら、正しいことと間違っていることの絶対的な基準があるわけで、私たちはそれらの基準に対して責任があります。この責任こそが、人々が絶対的真理を拒否することで回避しようとしているものなのです。

絶対的真理・世界的真理を否定することと、そこから出てくる文化的相対主義は、人生の説明を説明するために進化論を擁護する社会の論理的な結果です。もし、進化論が真理なら、人生には意味はなく、私たちには目的がなく、絶対的な正しさも間違いもあり得ません。そうすれば人は自分の好きなように人生を歩み、自分がしたことに対して何の責任もありません。しかし、罪深い人間がどれほど神さまの存在と、神さまの絶対的真理を否定しても、その人々はいつか神さまのさばきの前に立つのです。聖書は宣言します。「・・・神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり」(ローマ1:19-22)。

絶対的真理があるという証拠があるでしょうか?はい、あります。最初に、人間には良心があって、私たちの内側で世界が「こうあるべき」であると語ります。また、あるものは「正しい」、あるものは「間違っている」と私たちに語るのです。私たちの良心は、苦しみや飢餓やレイプや痛みや悪は何かが間違っていること、そして愛、気前のよさ、同情、そして平和は私たちが努力して求めるべきものであると確信させます。このことは、どの文化でも、どの時代でも世界的真理です。2:14-16, 聖書は、人間の良心の役割をローマ2:14-16で説明しています。「――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁護しあったりしています。――私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」

絶対的真理が存在することの第二の証拠は科学です。科学は、まさに知識の追求であって、私たちが知っていることを研究し、さらに知ろうとする探求です。ですから、すべての科学的研究は、客観的な現実がこの世界に存在し、それらの現実を発見し証明することができるという信条の上に基づいている必要があります。絶対というものがないのなら、科学的研究に何の意味があるでしょう?どうやって科学的な発見が本当だと知ることができるのでしょう?事実、科学の法則そのものが、絶対的真理の存在の上に基づかなければならないのです。

絶対的真理・世界的真理が存在することの第三の証拠は、宗教です。世界のすべての宗教は、人生の意味と説明を使用としています。宗教は、単純な存在以上の何かを欲する、人間の願いから生まれたものです。宗教をとおして人間は、神さまを、将来に対する確信と希望を、罪の赦しを、苦しみの中での平安を、そしてもっとも深い質問に対する答えを求めます。宗教は、人間がただ単に高等に進化した動物以上のものであることの本当の証拠です。もっと高尚な目的のため、神さまを知りたいという願いを人に植え付けられた、個人的で目的のある創造主が存在するということの証拠です。Aそしてもし確かに創造主がいるなら、その主が絶対的真理の基準となり、その真理を確立するのは主の権威なのです。

幸運なことに、、そのような創造主がおられ、ご自身のことばである聖書をとおしてご自分自身を現わされただけでなく、ご自身の真理をも示されたのです。絶対的真理・世界的真理を知ることは、ご自分が絶対的真理であると主張するイエス・キリストとの個人的な関係を通してのみ可能です。イエスは、ご自身が唯一の道であり、唯一の真理であり、唯一のいのちであり、神さまへの唯一の通り道であると主張されました。絶対的真理が確かに存在するという事実は、天と地を創造し、ご自身を御子イエス・キリストをとおして個人的に知ることができるように啓示された、主権者なる神さまがおられるのだという真理を私たちに指し示しているのです。

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