イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(15-1)七つの星が監督であるという解釈が産んだ弊害

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

 啓示の書の中には、復活後のイエスが登場しますが、イエスの右手の上に7つの星があります。7つの星は7つの会衆の使者たちです。(啓示1:20新世界訳改訂版)エホバの証人の統治体は、イエスの右手の上にある七つの星は、聖霊で油そそがれた監督たち、さらに、監督たちすべてであると解釈しています。 

 私は、イエスの右手にある7つの星が、とりわけ、大群衆の監督たちであるという解釈はまったく間違った解釈だと思います。そして、証人の統治体が、間違った解釈をすると、その弊害が生ずることになると思います。 

 今回の記事からしばらくの間、わたしが証人の間違った解釈のために経験したと考える過去に起こった出来事を書いてみたいと思います。 

(1)統治体は従来七つの星を聖霊で油そそがれた監督また監督たちすべてと解釈している 

 わたしはものみの塔の出版物をできるだけ確認してみましたが、七つの星が聖霊で油そそがれた監督を表すという記述は、1969年で英文で発表されたとされている「秘義」の本に見られます。 

 以下は秘義の本からの引用です。「七つの象徴的な星は,イエスの右手の上に見られるのですから,その世話,管理また指示を受けています。・・・つまり,彼らは,霊によって生み出される,油そそがれたクリスチャンから成る七つの会衆各の主宰奉仕者,監督,管理者に相当します。」 『その時,神の秘義は終了する』7章22節』(1969年のものみの塔で秘義の本が発表されたという記載が見られる) 

 わたしはエホバの証人の書籍研究の集会で、この書籍を学んで最初はこの解釈に少しも疑問を抱いていませんでした。ものみの塔 1970年 3/1 18節の中にも七つの星が「クリスチャン会衆の霊的な監督を象徴」しているという解釈が掲載されています。 

 さらに、後になって2012年のものみの塔「覚えていますか」というコーナーで、には、次のような記載があります。

 「啓示 1章16,20の,イエスの右の手にある「七つの星」は,だれを表わしますか」という質問に対して、「会衆内の,霊によって油そそがれた監督たち,さらに言えば,すべての監督たちを表わします。―10/15,14ページ」と説明されています。ですから、証人たちの最近の説明では、7つの星は大群衆の監督たちも含むことになりました。

 七つの星が天的な希望の監督だけでなく、地的な希望の監督たちも含まれるという証人たちの解釈は、1969年の出版物にあり、現在もそのような解釈のはずです。ですから、この解釈はおよそ五十年以上続いていることになります。

 

 そして、イエスの右手の上に七つの星が監督たちとみなされていたので、大群衆の長老の権威はイエス・キリストに由来しており権威があるとみなされていたと思います。それで、大群衆の長老の言うことをなんであっても、聖書と調和しているかどうか疑わしい場合でさえ、奇妙であっても、イエスに従うのと同じように疑うことなく服従しなければならないことが強調されていたと思います。 

 別の機会には、別の大群衆の長老から、もし、長老の助言を聞いていなければ、自由にしても構わないけれども、自分から助言を聞いたら最後、その助言に従わなければならないと言われたことがありました。わたしはその大群衆の長老の言うことは、どこか間違っていると思いました。 

 わたしは過去記事で説明しましたが、七つの星は、聖霊で油そそがれたクリスチャンの男女であるという理解が正しいと思います。 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(9)啓示の書の7つの会衆に証人だけでなく他のキリスト教の団体も含まれる別の聖書的な理由 

 七つの星が聖霊で油そそがれた監督であるという解釈は、幾らか聖書からずれていると思いますが、それが地的なクラスの監督たちも含むという適用になれば、さらに一層不正確さの度合いが増していると思います。 

(2)統治体の教えの聖書からの小さいずれが問題を引き起こしたと思われるわたしの経験 

 わたしは最初から熱心なエホバの証人の出版物の読者で、手に入る証人の出版物を隅から隅まで読むように努力をしていました。そして、わたしが、証人になった当初は、聖書の中にあるポイントとなる教えのひとつは、天的な希望を持つ聖霊で油そそがれたクリスチャンに敬意を払い協力しなければならないということだと考えました。 

 それは、おおむね、イエスが言われた羊とみなされるためには、イエスの兄弟たちに協力しなければならないという教えに基づいていました。(マタイ25:31-34,40)それで、わたしは聖霊で油そそがれたクリスチャンを身近に知らなかったので、統治体の兄弟たちに協力しなければいけないなと思いました。そのために、出版物にある教えには、従うよう努力をしました。 

イエスの羊とやぎとのたとえ話は天的な希望を持つ天的な希望のイエスの兄弟たちに協力することが永遠の命につながることを教えている

 

 ところで、実は、わたしはずいぶん前にエホバの証人の正規開拓者を降ろされたことがあります。それは、私が20代の時でした。その時は、たぶん大群衆の長老の助言に従わなかったという理由だったと思います。でも、その時にどういう点でわたしが間違っていて、大群衆の長老からどんな助言をもらったのかを忘れてしまいました。 

 私は、おおむね出版物の中に書かれている統治体の要求を守っていたので、その理由を忘れてしまうくらいですから、何かささいなことに関するものだったと思います。 

 ですから、わたしが何かの点で重要な神の律法に従わなかったとか、神のご要求に従わなかったことが問題だったのではなくて、地元の大群衆の長老との関係が悪くなってしまったことそのものが理由だったと思います。 

 もちろん、わたしは若く経験がなく、親からマナーも教えられていなかったので、他の人との接し方で、未熟で巧みさが欠けていたと思います。今そんなことが起きれば、わたしはもっと柔軟に長老たちと良い関係を持つよう努力をするでしょうし、その時、長老が払っている労に対してもっと感謝を表明していれば、そういうことは起きなかったかもしれないと思います。 

 若いと理想主義になりがちです。それで、自分ができていないところがあっても、兄弟たちが小さなことでも、聖書あるいは出版物の要求と離れていると、あるいは自分独自な見方で、証人はこうあるべきだという考えと離れていると、いちいちつまずいていました。そして何でもはっきり言ってしまう人でした。 

 旧版の新世界訳によると、いわゆる「義に過ぎる人」だったと思います。(伝道7:16新世界訳改訂版)改訂版の新世界訳では、「正しさにあまりにこだわってはならない。賢くなり過ぎてはならない。どうして自分の身を滅ぼすのか」とあります。(伝道7:16)もっと、兄弟たちの不完全さや多様性を大目に見たら良かったかもしれないと思います。もちろん、今でも、神の律法違反を度外視するのは間違っているとは思っといますが。 

 しかしながら、その時、問題にされたのは、わたしが長老たちとのやり取りの間に、「わたしは大群衆の長老の言うことではなく、統治体の長老の言うことに従います」という言葉でした。 

 わたしは、その時は自分は大群衆のひとりだと考えていたのですが、上に述べたように、羊はイエスの兄弟たちに協力しなければならないという福音書にあるイエスの教えが心にあったので、そうしたことを長老に言ったんだと思います。(マタイ25:31-34,46新世界訳改訂版) 

 わたしは今でこそ、統治体の言われることが聖書的に間違っている場合があることに気づきますが、その当時は、出版物の中に書かれている統治体の言うことは、パーフェクトだと思っていたので、とりわけそういう言葉が出ました。そのために、わたしは正規開拓者を降ろされて、他県に引っ越しました。 

(3)わたしに関する出来事が地域大会の劇で取り上げられる 

 その後、引っ越して、しばらくして地域大会で、劇が行われました。その時、わたしが正規を降ろされた出来事が大会の劇で扱われました。劇の一部にわたしが語った言葉が語られていて反抗的な証人として描かれていました。

 地域大会の劇は、ギレアデ学校の宣教者が作ると言われます。そして、統治体の兄弟たちもチェックをするはずなので、わたしはその時から、あまり良くない仕方で、統治体に注目されることになっていたのかもしれません。 

エホバの証人の大会 

エホバの証人の地域大会では壇上で劇が演じられます

 

 それで、わたしはその時には、何かエホバに対して悪いことをして、エホバの不興を受けているように感じました。精神的な苦痛とストレスのために自分の身体的な健康も損なわれていきました。しかし、それでも、わたしはエホバ神に対する信仰は失わなかったので、エホバ神に奉仕しし続けました。 

 しかしだいぶ経ってからですが、わたしが語った言葉は、長老たちとのその時のやり取りで語るのは、ふさわしくなかったかもしれませんが、聖書に調和していて、何も間違ったことを言ってはいないと思いました。そのわたしの言葉に関しては、何もわたしはエホバのお考えに反してはいないと思いました。 

 その時の地域大会の劇が何年だったのか、何という題の劇だったのかは忘れてしまってネットで見ても、確認できませんでした。たぶん、1980年代の半ばから1990年代の前半までの間の地域大会だったと思います。 

 それで、わたしヨハネは、聖書に調和した言葉を語ったゆえに、証人の正規開拓者の立場を降ろされ、その言葉が地域大会の劇で、間違ったことを語ったとして、扱われました。わたしとしては、自分の過去は、人々との接し方で未熟な部分はあったと思いますが、その言葉の点では、聖霊で油そそがれたクリスチャンに対する敬意を表すということが大切だという聖書の原則に調和していたと思います。そのことが問題にされました。

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