役に立つ生き方”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、‘役に立つ生き方’ということについて考えてみました。ある雑誌に、子供の生命観についてのアンケートがありました。そのアンケートの中で、「生きているということはどういうことですか?」という質問に対する子供たちの答えの中に、「生きているということは役に立つことだ」というのがありました。何か心を探られる言葉ですね。私たちはどうでしょう? 誰かのために役に立っているでしょうか。誰かの役に立つよりも、誰かが自分の役に立ってくれることばかりを望んではいないでしょうか。人が自分の思うようにしてくれない、と不満ばかりを言ってはいないでしょうか。 イエス・キリストは「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言われました。人に何かを求めてばかりいる生き方ではなく、人に何かを与え、人の役に立つ生き方こそが本当の幸せを味わう道であるということです。 ある年のクリスマスイブのこと、ポールはお兄さんからクリスマスに新車をプレゼントされました。彼がオフィスから出てくると、よく見かける少年が、そのピカピカの新車のまわりを歩き回っていました。よほどその車が気に入ったらしく、ポールに話し掛けてきました。「これ、おじさんの車?」「ああ、兄からのクリスマスプレゼントさ」とポールは答えました。「えっ? おじさんのお兄さんがくれたの? おじさんは全然お金を払わなくてよかったの? うわあっ、すごいな! ぼく……」と、少年は何かを言いかけたまま、口をつぐんでしまいました。 ポールは、この少年が「ぼくにも、そんなお兄さんがいたらなあ」と言いたかったのだろうと思いました。ところが、少年の口から出た言葉にポールは驚きました。「ぼくね、おじさんのお兄さんみたいになりたいなって思ったんだ」ポールは、じっと少年の顔を見ていると、無意識に、「この車に乗ってみるかい?」という言葉が出てきました。少年は、二つ返事で車に乗り、目を輝かせながら言いました。「おじさん、ぼくの家の前まで乗せてくれる?」ポールは思わずニヤッとしながら、きっとこんな大きな車で帰ってくるところを近所の人たちに見せて、自慢したいのだろうと思いました。しかし、その憶測はまたもや違ってました。 「あそこに階段がついている家が見えるでしょう? そこで少し待っててくれる?」少年はそう言うなり、車を降り、走って家に入っていきました。しばらくすると家の中から、ゆっくりとした足音が聞こえ、少年が体の不自由な弟を背負って出てきたのです。少年は、弟を階段の一番下に座らせ、弟の体を倒れないように支えながら言いました。「見てごらん。さっき言ったとおり、すごい車だろ。そこにいるおじさんのお兄さんがクリスマスプレゼントにくれたんだって。お前も、待ってなよ。兄ちゃんが、いつかきっとあんな車をお前に買ってやるからな。そしたら、いつも話してるクリスマスのきれいな飾りを、その車で見に行こう」 それを聞いたポールは、何も言わずに車を降りると、少年の弟を抱き上げ、車に乗せ、少年と三人でドライブに出かけました。ポールは、二人の少年のうれしそうな顔を見ながら、久々に、何とも言えない喜びと満足を感じずにはいられませんでした。 またこの少年がクリスチャンであることを知り、ポールは、少年の生き生きした態度、そして輝いている目を見ながら、キリストの愛のゆえに、誰かの役に立とうとする生き方の素晴らしさを、生まれて初めて体験的に知ったそうです。私たちの多くの親切は、しばしば自分を満足させるためのものである場合があります。しかし、そういう動機の親切は、相手が自分の思い通りに反応をしてくれなければ力尽きてしまい、挙句の果てに不満の思いにすら変わることがあります。その親切が本当の愛に根ざしていないことが明らかになる瞬間です。ところが、本当の意味で役に立つ生き方を知らなかった私たちがキリストの愛を経験するなら、義理や体裁ではなく、本当の意味で、誰かの役に立つ生き方をする者に変えられるのです。今日の一言: 誰かの役に立とう
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