ロイドジョンズの魅力 [1]生い立ちと生涯

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

櫛田節夫
神戸聖書教会牧師、西日本宣教学院理事・学院長

 デイヴィッド・マーティン・ロイドジョンズ(一八九九~一九八一年)が二十世紀世界最大の説教者のひとりであることに異論を差しはさむ人はほとんどいないと思う。この偉大な人物の魅力を語るなどおこがましい。が、筆者は浅学・非才・霊性の低さをも省みずロイドジョンズ博士を幾分でも紹介してお役に立てれば幸いと思い、執筆をお受けした。

 ただ恐れるのは持ち合わせの資料の限界(『D・マーティン・ロイドジョンズ』上下、イーアン・マーレー著、『マーティン・ロイドジョンズと二十世紀の福音主義』ジョン・ブレンチャー著、ロイドジョンズの大部分の主要な説教と著作は所持、評論集などは欠く)と筆者のバランスを欠いた理解と表現である。この点はお赦しを乞う外はない。

Ⅰ この賜物豊かな霊的巨人
 ―その生い立ちと生涯

★ 生涯の概略
 (一八九九~一九八一年)

 D・マーティン・ロイドジョンズ博士は一九八一年三月一日癌で召天した。五十年以上、一九二六年十一月十一日ウェールズでした最初の説教を含めれば、五十四年間説教者であった。説教は博士の生涯の第一の任務であり、奉仕の生涯の触媒であった。社会改革とか政治にはあまり関心を示さず、むしろ教会と説教に全精力を注いだ。その活力に満ちた献身は福音的な教会とカルビン神学の復興に捧げられ、その結果その分野でリーダーに押し上げられ、博士が召天した時には非国教徒(聖公会ではない信徒)の福音派は権威ある声と指導者を失った。博士は二つの教会の牧師となった。一九二七~一九三八年ウェールズのアベラボンのサンドフィールズで、次いで一九四三年まで最も名声の聞こえのある自由教会の講壇のひとつ、ロンドンのウェストミンスター・チャペルでG・キャンベル・モルガンの協力牧師となり、それから一九六八年の辞任までの二十六年間主任牧師として留まった。

[1] 誕生・家族・医者・回心
 (〇~ 二十三歳)

 マーティン・ロイドジョンズはヴィクトリア女王の死の一年少し前の一八九九年十二月二十日ウェールズの首都カーディフで誕生。ハリーとマグダレーン・ロイドジョンズ夫妻の次男で、兄ハロルドは法科の学生の二十一歳のとき死亡、弟のヴィンセントは無類の読書好きで十五歳までにウォルター・スコットとチャールズ・ディケンズの全作品を読破。オックスフォードのジーザズ・カレッジを卒業、一九六〇年高裁の判事、兄マーティンより五年長生きした。マーティン・ロイドジョンズによると、父はあまり高い教育を受けていなかったが「私が出会った人の中で最も親切な性格の人」で、母は最も「物惜しみしない心の広い」女性で「きわめて頭の回転の速い、父より知的な人」であった。一九〇六年、一家はカーデガンショアのランゲイソへ移転。一九八〇年に彼自身が何度も述べたところによると、一九一三年の、ダニエル・ローランドの生誕二百年祭を祝うウェールズカルビン主義集会は青年の彼の心に最も永続的な印象と影響を与え「今日まで続いてきたカルビン主義メソジストの先祖たちへの関心」の始まりをつくった。

 ロイドジョンズが十四歳のとき父の商売が破産したため一九一四年九月ロンドンのウェストミンスターへ移住。商売が好転し、ロンドン中西部地区のメルボルン・グラマー・スクールに入学、一九一六年ロンドン大学付属高校夏季試験で頭角を現し、同年十月ロンドンの最古・最大の聖バーソロミュー病院に医学生として十六歳で入学。五年後内科医と外科医の資格を取得。異例の若さで宮廷医師大学会員に。後に牧師になったが生涯日進月歩の医学への関心を維持。一九二三年、高名な宮廷侍医ホーダー卿の主任臨床助手に。彼はこの頃二十三歳で回心。

[2] 結婚・召命・牧師として赴任・教会の成長・北米での奉仕
 (二十四~三十八歳)

 一九二七年一月、幼なじみで十八か月年長の医師ベサン・フィリップスと結婚。召命を受け年間三五〇〇ポンド以上の報酬を受け取る将来を約束された経歴に背を向け、一九二七年年間二二五ポンドの報酬のアベラボンのサンドフィールズ教会に赴任。彼は言った。「私は開拓伝道をするため意図的に南ウェールズの九十三人の会員の小さな伝道センターヘ行った。私は何も捧げなかったがあらゆるものを受けた。福音の伝達者であることは神が人にお与えになる最高の栄誉であると思う」と。十一年間で五百三十人の会員になり礼拝出席は八百五十人を数えた。その地方から何千人もの人々を引き寄せた。最初の年だけでも五十四教会から説教に招かれた。

 一九三二年北米訪問。カナダのトロントなどで九回の日曜日に説教し、「ロイドジョンズは町を嵐で占領した」と評された。米国のバッファローの夏季学校では壮大なコンサート・ホールで六千人に説教した。

[3] ウェストミンスター・チャペルに赴任・実り豊かな牧会伝道
 (三十八~六十八歳)

 一九三八年七十五歳のG・キャンベル・モルガン博士の招聘を受け、同師の協力牧師に。一九四三年同師の引退とともに主任牧師になった。一九四一年頃から超教派のいくつかの集いのリーダーとなった。「福音的合同の大学間の交わり」(IVFEU)、「ウェストミンスターの交わり」「福音的図書館」「キリスト者医学者の交わり」などの交わりにかかわった。一九三九年頃の二千人以上の会衆は第二次世界大戦でナチスの爆撃で減少、一九四四年頃に会堂は爆撃に遭い、出席者は百五十人ほどに減少したが礼拝は借家で継続し、一九四五年頃には五百人に回復、一九四八年には千八百人ほどになり一九四八年から一九六八年の間は通常の日曜礼拝は千五百人で夕拝は二千人、ロンドン最大の会衆派の教会であった。一九六八年までの最後の十三年間は毎週金曜日夜ローマ書の連続講解説教をし、出席者は千人から千二百人で筆記用具を持って集まり、彼らは「フライデー・ナイター」と呼ばれた。この間ウィークデーにはほとんど毎週各地の教会奉仕に出かけた。「現代のムーディ」「カルビン主義最後の説教者」などと呼ばれ、火と燃えた器であった。

[4] 引退・巡回奉仕と執筆・召天
 (六十八~八十一歳)

 一九六八年ロイドジョンズ博士は三十年間の熱心で実り多い牧会伝道の後引退し、英国各地における説教奉仕と執筆活動に従事した。一九六九年四月から九月まで最後の米国訪問となり広く旅行し、ウェストミンスター神学校で説教に関する十六回の講義をし、それが『説教と説教者』として出版された。一九八一年三月一日博士は「何度も説教したその栄光へ移された」。八十一歳二か月。

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