徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。
「何をもって正しいキリスト教と言えるか。」私があるキリスト教主義大学の学生だったとき、先生から投げかけられた問いです。自信満々に「もちろん聖書です」と答えました。しかし即座に別の学生が「いや、使徒信条です」と声を上げました。使徒信条について聞いたこともなかった当時、その答えはピンと来ませんでした。しかし後に、それほど間違っていないと思うようになりました。
「聖書のみ」を奉じるプロテスタント諸教会にとって、聖書は信仰の拠り所です。神の息が吹き込まれた特別な書物と信じるからです。この聖書を通して、神がどういう方か、私たち人間が神の目にどう見られているのか、神が私たちに対して何をしてくださったのか、つまり福音を学ぼうとします。
しかし、福音を知るためには聖書を知ればよいと言われ、聖書をいきなりポンと渡されたらいかがでしょうか。ここに真理がある、ここに救いがあると言われても、聖書はあまりにも分厚すぎます。全体を読み通すことさえ簡単ではありません。書かれた時代や文化も今とは大きく違い、理解の難しい箇所も多くあります。
そこに、教会に説教者が与えられている理由の一つがあります。実際、多くのキリスト者が説教によって聖書の真理を学び、神のことばとして受け止めてきました。しかし私たちはなぜ、教会で学ぶ聖書の読み方を信頼できるのでしょうか。牧師が「聖書はこう語っている」と言っても、信用してよいのでしょうか。牧師は確かに神学校などで勉強し、聖書についてよく知っているかもしれません。しかし完璧ではありません。いつも国語のテストで満点を取れるわけではないのです。聖書の福音が正しく理解され、解き明かされているか、どこで判断すればよいのでしょう。
一つの基準となるもの、それが「信条」です。初期の教会において、キリスト教信仰を告白するとは時に文字どおり命がけでした。社会の少数者として肩身の狭い思いをする、というだけではありません。小説『クオ・ヴァディス』が描くように、激しい迫害に遭い、時にライオンの餌食とされる立場になることを意味しました。キリスト教の神を信じるとは、「鰯の頭も信心から」のように曖昧な存在を信じることではありません。人はそのようなものに命を預けようとは思わないはずです。
そのような背景の中で、新約聖書の時代から三世紀頃にかけて、ある短い文言が生まれました。洗礼時の信仰告白と結びついた「信仰の基準」です。十字架と復活に至るキリストの生涯に示された神の愛に触れ、その愛に人生を懸けること、それがキリスト者になること、洗礼を受けることでした。一人ひとりが、キリストを通して示された神の恵みを味わい、喜び、その応答として「我信ず」と告白するよう促されたのです。人は「信仰の基準」に沿って信仰を告白し、洗礼を受けることによって目に見えるかたちで告白しました。
そのような「信仰の基準」から発展したのが信条、とりわけ「使徒信条」など基本信条と言われるものです。信条は誰かが勝手に考え出し、「これを信じよ」と人々に押し付けたものではありません。信条とは福音そのものとさえ言うことができます。なぜなら、「信仰の基準」は新約聖書の内容、特にコリント人への手紙第一、一五章を肉付けしたもので、福音の最も短い要約だからです。
なぜ福音を要約するのでしょうか。それは、聖書全体は木々が生い茂った森のようなもので、簡単には全体を把握できないからです。木を見て森を見ずという譬えがあるように、一部だけに注目していれば全体像を見誤ります。全体を眺める地図があって初めて、迷うことなく進んでいくことができます。その地図の役割を果たすのが信条です。
ところで、「我らの主、イエス・キリストを信ず」というように、使徒信条には「我らは信ず」が含まれています。キリストの救いの御業は、聖霊の働きによって、罪の赦しや永遠のいのち、身体のよみがえりに結実します。しかしその救いは、個人の救いにとどまりません。イエスの心を心とし、そこに生きようとする人々の交わり、新しい共同体の姿が現れてくるからです。救いには、そのような「共同体に生きること」も含まれるのです。
信仰は英雄的にただ一人で貫き通す、というものではありません。互いに支え合い、励まし合っていくものです。それは日頃顔を合わせる地域教会を軸としますが、そこにとどまりません。教派教団の垣根を超え、私たちは古からの多くの証人に雲のように囲まれています。「我信ず」と告白するとき、その声には数多の「我信ず」が重なっているのです。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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