(その1 その2)
前回まで、ルカ福音書における「救いを与える信仰」について見てきました。ここからは、このようなルカの「信仰」概念をより大きな歴史的文脈の中に位置づけることによって、さらに理解を深めていきたいと思います。
ローマ帝国における「信仰」
新約聖書においてしばしば「信仰」と訳されるギリシア語ピスティス、およびそれに対応するラテン語フィデースは、ギリシア・ローマ世界において、ある命題を正しいとする心的態度すなわち「信念」以上の意味的広がりを持っていました。最近出たテレサ・モーガンの研究によると、ピスティスあるいはフィデースとは「第一義的には、一群の信念でも心や精神の機能でもなく、共同体を形成する関係」でした(Roman Faith and Christian Faith, p.14。強調は引用者)。そこで考えられている概念は人間関係あるいは人間と神々との関係における相互のコミットメント、信頼、信用なのです。
ピスティス/フィデースは社会の基本的構成要素であり、社会生活のあらゆる側面において、関係を構築し維持するために働いていました。フィデースはローマ帝国の主要な価値概念の一つでした。初代皇帝アウグストゥスはフィデースを重要視し、信頼の女神フィデースへの礼拝を復活させ、その『業績録』の中で多くの国々がローマ人のフィデースを経験したと述べています。フィデースは関係における相互的概念です。皇帝は軍や帝国住民の信頼を勝ち得るだけでなく、自らも信頼に価する存在であることをアピールしました。支配者が被支配者に対して信頼性を示すことはローマの主要な価値観だったのです。
女神フィデース(右)を描いたローマのコイン(2世紀初頭)
(Image by Classical Numismatic Group, Inc. via Wikimedia Commons)
しかし、ローマ帝国におけるフィデースの概念には暗い側面もありました。フィデースは被支配者である民族の権利を保障し、彼らを保護するものであるとされていましたが、実際にはローマ人によって彼らに加えられた強制と暴力と結びついていたのです。ローマ社会内部におけるパトロン関係においても、クライアントがパトロンから保護と恩恵を受け取る代わりに無条件のフィデースを捧げることが求められており、その関係は根本的に不平等なものでした。皇帝は自らが民を信頼し、また信頼に足る存在であるという印象を与えようと多大の努力をおこないましたが、民からは必ずしもそう見られてはいませんでした。ある意味において、フィデースはローマによる支配と搾取の婉曲表現だったのです。
ローマ帝国の支配下に生きたルカとその読者は、ピスティスまたはフィデースについてのこのような一般的理解を共有していたはずです。そのような彼らにとって、イエス・キリストとの関わりの中でとらえられるピスティス(信仰)とはいかなるものだったのでしょうか?
誰に対する信頼なのか?
ルカの理解する「信仰」を考える際に、上で見たローマ的な背景とともに、あるいはそれ以上に重要なのが、旧約聖書的背景です。旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳聖書においてピスティスは主として「真実」、「忠誠」、「信頼」といった意味で用いられます。たとえば詩篇33篇4節(七十人訳32篇4節)では主のすべてのわざが「真実に(エン・ピステイ)」なされることについて語られています。これは人間同士、あるいは人間と神の間の関係にまつわるものです。真実、忠誠、信頼はイスラエルと神の関係、またイスラエル人同士の関係において中核的な概念でした。つまり、旧約聖書におけるピスティスもローマのフィデースと同様、知的な「信念」というよりむしろ関係的な概念であることが分かります。
ルカがこのような関係的な「信仰(ピスティス)」の概念を共有していることは、前回まで見てきた「あなたの信仰があなたを救った」という表現の分析からも裏付けられます。そこでは「信仰」はイエスという人格に対する信頼を意味していました。この信頼は「ダビデの子」であるメシア、すなわち王に対する信頼です。ローマ帝国がフィデースを通して多くの国々をその支配の中に取り込んでいったように、イエスも彼に対する信頼を通してさまざまな形で神から疎外されていると思われていた人々(「罪人」、女性、病人、儀式的に汚れた者、外国人、貧困者等)を神の国(支配)に導き入れるのです。
ところで、ローマ皇帝もしばしば「救い主」と呼ばれました。ローマ皇帝は人々の信頼(フィデース)を得て、人々を「救う」存在とされていたのです。このようなローマ帝国の背景に照らして考える時、「あなたの信仰があなたを救った」というイエスのことばは、ローマ皇帝がその臣民に約束した「救い」および彼らから期待した「信頼」と暗黙の内に対置されていると考えることができます。ルカ福音書における「あなたの信仰があなたを救った」という表現において、「信仰」のギリシア語には冠詞がついていて、人々がその時持っていた特定の「信仰」(「あなたのこの信仰」)をイエスが意味していることを示唆しています。すなわち、ここで問題になっているのは、その人が「誰」を信頼しているのか、「忠誠を捧げるべきまことの王は誰か、イエスか、皇帝か」ということなのです。ルカの答が前者であることは言うまでもありません。ルカ福音書において救いを与えるのは、ただ「イエスに対する信仰」なのです。
しかし、ここでもう一つの疑問が生じます。ルカははたして、当時のローマ帝国における皇帝と臣民の「信頼」関係をただ換骨奪胎して、イエスと弟子たちの「信仰」関係に置き換えただけなのでしょうか?ローマの「信仰」とキリスト教の「信仰」には何らかの違いがあるのでしょうか?これらの疑問に答えるために、次回はルカ福音書においてイエスがどのような種類の「王」として描かれているのかを考察します。
(続く)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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