新しい生き方の掟(山上の垂訓 講解説教 第3回)

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「新しい生き方の掟」(山上の垂訓 講解説教 第3回)

陶山義雄
申命記8,11-18;

 先ほど交わした交読詩編第19編は、太陽、月、星など、天体の運行の中に、それを創造された神の威光を讃え、仰ぐ姿勢から、その運行を司る神の掟に目を転じ、主の律法と掟、主の定めと命令を讃えた後、こう結んでおりました:(19:8~10)

「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。・・・」

 小野千恵子さんの伴奏で、平井桃子さんに歌って頂いた旧讃美歌74番は、詩編第19編を元にして作られた素晴らしい讃美歌でした。何よりもこの讃美歌はハイドンの作曲した「天地創造」第13曲でうたわれる合唱から取られていたこともあります。それは創造第4日・神羅万象が完成したところで捧げられる詩編第19編の冒頭が歌われています。:

「天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業を示す。云わず、語らず、その声、聞こえざるも、その言葉は地の果てにまでおよぶ。」

 旧讃美歌の74番は19編を忠実に歌いながら、その3節でこう結んでおりました:

「昼はもの云わず、夜は語らねど、声なき歌声、心にぞ響く。
われらの命に まします御神の 掟は賢く、御稜威(栄光)こよなしと」

 この讃美歌が讃美歌21に載せられなかった事情を讃美歌改定委員の一人であった吉田實先生に抗議したことがあります。先生によると、委員会では「御稜威」と云う天皇讃美の言葉があるので、この讃美歌は没になった、との事でした。それならば、「御稜威」を「栄光」に変えて、残せるのではないか、と再度、抗議するほど、私には残念な事でした。

 夜空に輝く美しい星、動かない恒星の間を縫って動く惑星、その動く星の頂点に太陽と月を見ながら、聖書の民は暦を生み出し、季節を読み取って農耕にいそしみ、いつ種を蒔き、いつ刈り入れたらよいのか、自然の掟を読み取って生活のリズムを作り出していたのです。移り替わる星座は旅人に「道しるべ」を提供し、季節を読み取るカレンダーにもなって来ました。これら全ては宇宙と天地の創造主がなさった働きで、完全であり、誤ることがない事実を歌っています。作者はこれとは全く反対に自分自身へ目を転じると、過ちと欠点に満ちた人間であることに気付いて19編の13節から終わりにかけて懺悔と告白を述べています:

「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうか私を清めて下さい。あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにして下さい。そうすれば重い背きの罪から清められ、私は完全になるでしょう。どうか私の口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、私の岩、私の贖い主よ。」

 神羅万象が創造主の支配と秩序の中で、落ち度もなく完璧に動き、働いているのに反して、人間はどうすれば被造物として、その秩序と調和を回復することが出来るのでしょうか。旧約聖書の民は神の業と働きに準えて人間が守るべき秩序として掟を生み出しました。それを生み出す力は創造主から頂いたものなので、人間の掟もまた、神から頂いたものとしています。それは創世記の創造物語、失楽園に続いて、洪水物語にかけて収められています。特に洪水物語は人類が犯して来た二つの悪を指摘しています。一つは古い方の洪水物語(J典:紀元前9世紀の作)で40日40夜の洪水のあと7日たって鳩を3回放ち、3日目、すなわち洪水が終わり10日目に放った鳩が、オリーブの葉を銜えてきた所を見てノア自身の判断で下船した後、祭壇を築いて神に礼拝を捧げることにより、悪を止める途が解かれています。今一つの洪水物語(P典:紀元前5世紀の作)1年と1か月かかって洪水が収束し、神の命令でノア一族が箱舟から下船したあと、神から契約の掟が授けられ、これを守ることによって悪を止める途が解かれています(創世記9:1~11)。そこで頂いた契約の掟とは「人の血を流す者は人によって血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(同9:6)

 洪水物語は創世記の6章から9章にわたって記されています。二つの伝承が混ぜ合わせられているので、まるで一つの物語として読み取れるのですが、文体や内容、そして何よりも「神」を表すヘブライ語が違っている所から、分離して読むとかえって良く分かるようになります。古い方の物語では洪水により処罰をうける悪の中身は「性の乱れ」、今で云えば乱婚や不倫をなくすための方策が物語の背景です(同6:1~4)。祭壇を捧げて礼拝をする、それは、結婚の儀を持つことにより夫婦となると云うケジメが物語化されています。いま一つの物語が問題にしている人間の悪、洪水によって処罰されなければならない人間の悪とは「殺人・暴虐」です(同6:5~6)。「人の血を流す者は人に血を流される」とは、死罪をもって相手の命に対する償いをせよ、と云う掟が神から頂いたもので、洪水によらないで人類が犯してきた二つの悪を止める方法がこうして伝授された、と云うのです。

 「性の乱れ」・「乱婚」を止める方策は人間が動物状態から脱却して文明人になる第一歩として、人類と云う分類に属する人々が第一に築き上げた成果です。律法や掟になるよりも早く、畏れ、とか、畏敬(awe; reverential fear; numinose)として宗教儀礼に結びついて発展を遂げた世界です。(古事記ではイザナギとイザナミは天の御柱を回って結ばれます。)畏れは「欲動規制」、アメリカ先住民がタブーと呼んでいた世界です。畏れ多くて、そのようなことは出来ない世界、法以前の規制はやはり、天から備えられた人類として共通の世界です。これを指摘した、ルードルフ・オットーは『聖なる者』という著書のなかで、ヌミノーゼと呼んでおりますが、禁止される以前に自ら恐れ多くて出来ない、正に欲動規制が法以前の、自然・神から与えられた秩序でした。その最たるものが性の区分であり、結婚の儀でもあったのです。

 また、暴虐、殺人、戦争などの悪を止める方策は正に政治の世界が介入する問題であり、掟や法律、契約や条約などへと発展する問題です。違反した場合には処罰が、そして、その極致に死罪が用いられて来ました。洪水物語を生み出した聖書の民も例外ではありません。ただ、彼らは、どちらの問題(性の乱れ、と、殺人)に対しても、神と人が結ばれる関係の中で解決を図っています。モーセがシナイ山で神から授かった十戒はその集大成と云えるものでした。聖書の民はこれをトーラーと呼んでいます。トーラーを訳せば「教え」と云う意味になりますが、神がモーセに伝授した、と云われるもので、それは教え以上に、神から授かった絶対的規範をさしています。それは十戒と「契約の書」として出エジプト記と申命記に纏められています。十戒はその代表各になりますが、以下、振り返ってみましょう。(文語訳は端的で覚えやすい。旧讃美歌・交読文34より:出エジプト記20章)

  1. 汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。
  2. 汝、己のために、何の偶像をも刻むべからず。(以下省略)
  3. 汝の神エホバの名をみだりに口に挙ぐべからず。(以下省略)
  4. 安息日を覚えてこれを潔くすべし。六日のあいだ働きて汝のすべての業をなすべし。七日は汝の神エホバの安息なれば、何の業をも為すべからず。そは、エホバ6日のうちに天と地と海と、それらのうちの全てのものを造りて、7日目に休みたればなり。これをもてエホバ、安息日を祝いて聖日としたもう。(以下省略)
  5. 汝の父母をうやまえ。これは汝の神エホバの汝に賜う所の地に、汝の命の長からんためなり。
  6. 汝、殺すなかれ。
  7. 汝、姦淫するなかれ。
  8. 汝、盗むなかれ。
  9. 汝、その隣人に対して偽りの証を立つるなかれ。
  10. 汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。(以下省略)

 これら10の戒めは権力者によって監視されるような守られ方ではなく、エジプト脱出を可能にした神の恵みの集大成であり、これも与えられた恵みとして、それぞれが心に銘記して実践すべき、云わば, 内的制裁(Internal Sanction),良心となるべく、あらわされた掟です。ヘブライ語の命令形は未来形にも訳せます。「・・・せよ」は「・・・するようになる」。また、「・・・するな」は「・・・しないようになる」とも訳せます。

 マタイ福音書記者は聖書の民が守り続けてきた律法を十分に弁えながら、本日のテキストでは、なおそれを乗り越える「イエスの教え」をキリスト者の新律法として提示しようとしています。それは旧律法を空しくするのではなく、これを完成するものとして私達にこれより解き明かそうとしています。「完成する」と云う言葉について原語では「私が満たそうとしている」(πληρωσαι)とイエスが語っているように記されています。律法ではまだ足りないところがある。そこを満たすために、マタイ記者はこれよりイエスの新しい掟を提示しようとしています。具体的には、このあと5章21節から7章12節にかけて展開されるので、今後を楽しみにしていて頂きたく思います。本日の週報コラム・「牧師室から」では、「掟のなかの掟」としてマタイ記者がこれを「至上の掟」にまで高めている所を紹介させて頂きました。教会ではこれを「黄金律」と呼んでいます。マタイ7章12節で、山上の説教の頂点にマタイ記者は据えています。(週報を手にしていない,教会ホームページで参加しておられる方々を想定し、ここで週報コラムの文書を読ませて頂きます。)

 今日は少し目を転じてパウロが信仰義認を説いている所とマタイの律法順守の関係に暫く注目いたしたいと思います。私達の教会はルターの「信仰義認」を掲げて生まれたプロテスタント教会に属しています。宗教改革者・ルターが拠り所としたのはパウロの信仰義認論でした。ロマ書3章28節には、こう記されています:

「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」

 また、少し前の3章23節以下でパウロはこう述べています:

「人はみな罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・神が今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 ルターが「人の救われるのは業によるのではなく、信仰による」と主張したのは、間違いなくこのようなパウロの言葉によっています。その事と、マタイ記者が掲げているイエスによって完成された律法を遵守することによって達成されるキリスト者の義とはどう関わるのでしょうか。「掟を守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:19,20)律法に関する二つの見解は初代教会の歴史を映し出しています。イエスとパウロの間には約20年の隔たりがあります。また、パウロとマタイ記者の間には40年近くの隔たりがあります。教会が誕生して60年も経てば教会も成長・変化を遂げて行く中で、律法を巡っても変化が起きていた様子は十分にあり得る所です。イエスが安息日・論争で語ったトーラーのこの条項に対する姿勢は実に革命的な姿勢であったと思います:

「安息日は、人間のためにあるのであり、人間が安息日のためにあるのではない。だから人の子(人間)は安息日の主人である。」(マルコ2:27)

 掟は人間が生み出したものであるのに、何が何でも守らなければならないとするのは律法主義である。律法学者やファリサイ派は律法があらわしている恵み、基本的な精神を見失い、人の上に立ってこれを支配の道具に使っている。律法学者として身を立てようとしたパウロも、キリストを信じる信仰によって律法主義の縄目から解き放たれた経験をもとにして信仰義認を説いています。それから約半世紀ほど経ったマタイ記者の教会はどうなっていたのでしょうか。本日のテキストで19節から20節を読みますと、律法の意義を過小評価し、それを軽んじたり、無効であるかのように振舞う信徒への警告が読み取れます。律法は空しいのではなく、その神髄を守らなければならない。その神髄をこれよりマタイ記者は山上の説教の本論で展開するのです。次回以降のお楽しみとして、引き続き関心を持ちながら、今後の展開に委ねたいと思います。信仰義認を説くパウロが、同じロマ書で述べている所は、福音と律法について私達が理解するための鍵を提供しています:(ロマ書13:8~10)

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、盗むな、むさぼるな、』(出エジプト20:15~17)そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。愛は律法を全うするのです。」

 マタイ記者も基本的にはパウロと同じ視点で律法を見ていると云っても宜しいと思います。ただ、言葉とその展開に違いがあるので、その所もこれから学びながら、山上の説教・講解説教を続けたいと思います。

祈祷:
父なる神様 私達が日々、聖書の御言葉に育まれている恵みに心より感謝申し上げます。何が正しく、何が誤っているか、そのケジメと基準が希薄になっている今の時代にあって、主イエス・キリストが歩まれた道と教えに倣う生き方を共に歩むことによって、この時代と社会への証を立てることができますよう、私達を力づけ、導いて下さい。


 
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Emmanuel

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