最高の道 愛

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「最高の道 愛」

秋葉正二
エレミヤ31,2-6; Iコリント13,1-13

テキストは有名な箇所です。文体が修辞的で賛歌の形式をとっているので「愛の賛歌」と呼ばれています。愛がテーマですから結婚式でよく読まれます。私も結婚式の司式で何度も引用してきました。牧師になりたての頃、高校時代の友人の結婚式をホテルで司式したのですが、その時同じブラスバンドの仲間で横浜の大きな神社の神主をしている先輩が列席していました。式の後彼が、私が読んだ「愛の賛歌」にいたく感動したらしく、「いいなあキリスト教は、神道にはああいう素晴らしい表現がないんだよ。羨ましい。」と感想を語ってくれました。聖書を読んだことのない人にも感動を与える内容を「愛の賛歌」は持っているのでしょう。

13章全体で13節しかなく、リズミカルですからすぐに読み通せます。内容は1節から3節まで、4節から7節まで、そして8節から13節までと、三区分することができます。まず第1区分の1節から3節を見てみましょう。ここでは、いかに優れた霊の賜物でも〈愛がなければ一切は無である〉ことが語られます。賜物の具体例としてまず「異言」が挙げられます。当時コリント教会で異言を語っていたのは、知識のある人たちでした。異言というのは意味不明の発音を伴う言葉ですが、天的なものだと考えられていました。そこで「天使たちの異言」というような言い方が出てきます。この異言が語られても、愛がなければ「騒がしいどら」であり「やかましいシンバル」だとパウロは言います。同時に預言や信仰も引用されています。預言は知識の象徴ですし、信仰はキリスト者にとって意識そのものです。しかし、それらも愛がなければ「無に等しい」と断じるのです。パウロ特有の物言い、強調の仕方でもあるのでしょう。

3節になると誰からも賞賛されそうな行為でさえ、愛がなければ「何の益もない」となります。パウロは厳しい目を持った人ですから、財産を貧しい人に施すことや、誇ろうとして我が身を死に引き渡すこと-つまり殉教ですが、そうした行為の中にキリスト者の偽善性や激情に支配される危険性を嗅ぎ取っていたのかも知れません。私はここを読んでいますと、マタイ25章の「最も小さい者の一人」という言葉を思い出します。羊飼いが山羊と羊を分けるように、王が人々を右と左に分ける話です。あの箇所では結果や効果を意識して行う行為ではなく、慈しみや深い憐れみの心に促されて自然に行われた行為の中に、本当に大切なものがあることが、譬えによって示されていました。私には、どうもパウロがあの箇所と共通することを述べているような気がするのです。またパウロは、当時盛んであったギリシャの哲学を意識していたかもしれません。パウロがアテネのアレオパゴスで説教した時、ギリシャの哲学者たちはつれない態度で応じました。パウロはがっかりしてすぐにアテネを離れていますが、伝道という観点から見ればそれは明らかに失敗です。それ以来パウロはギリシャの思想をことさら意識するようになったのではないか、と私は勝手に想像しています。

古代ギリシャの神々は聖書の神さまのように世界を創造する神ではありません。その存在はいかなるものの助けなしにも自ら存在するようになっています。そこには死などなく、運動と変化があるだけです。行き着くところは永劫回帰の思想ですが、パウロは愛を論じる際にそうしたギリシャの永遠論にチャレンジしていたのではないでしょうか。イエスさまが示された「最も小さい者の一人」にしたことなどは、ギリシャ的に見ればどう見ても永遠性とか不死性とか、偉大性を持たらすものではないでしょう。しかしパウロの信じるイエスさまの教えでは、最も小さい者に最も小さな愛の行為を行うことが永遠に至る道でした。イエスさまが明らかにしたことは、王に代表されるような英雄的行為ではなく、日常生活における最も目立たない行為に意味があるということでした。イエス・キリストに出会って、その愛に生かされた人たちのほとんどは、この地上の歴史に記録されてはいません。彼らはやがて朽ちゆく歴史の書に名を残そうとはしませんでしたし、世間的に見れば無名の人たちです。パウロは「愛」という時に、そうした人たちのことを考えていたと思うのです。それを例えば、フィリピ書4章にあるように、『命の書に名前を書きとめられているクレメンスや他の協力者たち』のように表現したのだと思います。パウロの書簡には、エボディアとかシンティケとか一回しか名前の出てこない人たちがかなりいます。これはどういうことかと言えば、この世では無名でも心から誠実を尽くして教会のために生涯を捧げた人たちや、貧しい人たちのために働いた人たちなど、いわば永遠の命を勝ち得た人たちの名前が実際には表記されていなくても、本当はその人たちの名前で聖書はぎっしりと埋め尽くされているということではないでしょうか。黙示録に出てくる「勝利を得る者」というような表現も同じでしょう。

神さまが喜んでくださるのは愛に裏打ちされた目立たない小さな行為なのです。パウロはそのことを「愛がなければ一切は無」だと言ったのです。さて、いろいろ横道にそれましたが、4節から7節に進むことにします。この部分は愛の働きを述べていることには間違いありませんが、愛の賛歌というよりはユダヤ教的な勧告に近いと思います。愛を主語として、つまり愛を擬人法で、「忍耐強い」「情け深い」と肯定形で表現したかと思うと、今度は一転して、否定形をもって愛の定義を八つ並べています。言われていることはどの人間にも共通な自己中心性の否定であり、他人を不愉快にさせるような生活態度の戒めです。すべて相手の存在を想定していて、人間関係の在り方が示唆されています。

一般的にも当てはまる内容ですが、パウロの場合は手紙の宛先であるコリント教会の混乱を意識しているはずです。当時のコリント教会ではインテリで経済力もあるいわゆる強い人たちの振る舞いと高慢さが混乱を引き起こしていました。教会が一つとなってまとまるには、弱い立場の人たちへの配慮が必要です。これは現代の教会も十分耳を傾けなければいけない点でもあるでしょう。そうしたコリント教会に見られるような背後の事情が次の三つ目の区切りにも影響していきます。三つ目の区切りは8節からあとの部分です。この区切りの中心テーマは「愛の永遠性」です。8節の『愛は決して滅びない』は、愛の不滅宣言です。申し遅れましたが、この13章で「愛」と訳されている言葉はアガペーです。ギリシャ語の愛にはアガペーの他にエロースとかフィリアとか幾つかあるのですが、アガペーは最も重要な愛と言えます。

エロースは性愛も含みますが、新約聖書の記者たちはエロースの使用を避けて、アガペーを選択します。感情を強調する際にフィリアを使うこともありますが、稀です。エロースを使わないのはグノーシス主義において使われる利己的な愛だからでしょう。イエスさまが神さまから「わたしの愛する子」などと呼ばれる時はもちろんアガペーが使われますし(Mk.1,11)、「ぶどう園と農夫の譬え」で「愛する息子」などと譬えられる時も(Mk.12,6)そうです。つまり基本的にイエスさまから発せられる愛がアガペーなのです。またアガペーは、イエスさまと結合することによって信仰や戒めを守ることなどにもつながっていきます。ヨハネ書簡に「神は愛です」とあるのは讃美歌にもなっていますから御馴染みです(Iヨハネ4,16)。ヨハネにとっては、神の子が受肉し、人となること自体が神の愛の啓示でした。パウロの場合には、イエスさまが十字架に死なれることの中に、アガペーは完全に結びついていると見ています。

きょうのテキストもそうですが、いわば十字架に死んで天に挙げられた主イエス・キリストと結合することによって、教会の中に兄弟愛が生まれるのです。それはまた旧約の律法主義からの解放でもありました。ですからきょうのテキストで示されているアガペーは、「新たな創造」だと言えます。このアガペーが貧しい人たちなど、弱い立場にある人たちへの生活扶助などの行為として具体的に示されるわけです。10節の『完全なものが来た時には』という表現は終末的な意味でしょう。主の来臨の時です。11節では幼子と成人の関係が比喩として語られています。人間は成長するにつれて考え方も変化し、判断力なども増していくものですが、一般的に大人になれば幼児期の考え方は捨ててしまいます。この比喩を用いてパウロは彼の論敵の判断力の未熟さなどを批判したのでしょう。

12節の鏡の比喩では、私たち人間の神認識の不完全性が表現されています。当時の鏡は今のようにくっきりとは見えなかったはずですから、「おぼろに映る」というような表現が使われています。終末の日にすべての人間は主なる神さまと顔と顔とを合わせてハッキリ向き合わなければならないことを、私たちキリスト者は意識しておく必要があると思います。13節はこの章全体の締めくくりでしょう。『信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。』「愛」という言葉がすっかり使い古されて軽い意味になってしまっている現代に、私たちキリスト者は聖書の示すアガペーの愛をしっかり胸に刻みたいと願うものです。祈ります。


 
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