皇帝への納税は律法に適うか

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「皇帝への納税は律法に適うか」

秋葉正二
ダニエル書2,20-22;

 明日10月31日は「宗教改革記念日」ですので、一般的にプロテスタント教会は直前の日曜日に宗教改革記念礼拝を守ります。 くれぐれもハロウィーンとやらに惑わされないでください。 キリスト教に関係ないことはないのですが、もともと異教の風習に由来するものです。 来年は宗教改革500年ですから、きっと世界各地でいろいろな催しが行われるでしょう。

 「宗教改革記念日」は私たちの信仰について、あるいは教会についてなど、いろいろなことについて考えるよい機会になります。 私は今回プロテスタント教会が発足した時代に対立軸として存在していたカトリック教会について考えてみました。 ガリラヤ会の皆さんは、先日陶山先生が宗教改革についていろいろ教えてくださったので、参考になられたことでしょう。 一口にカトリックと言いましても、 現代のカトリック教会は16世紀とは大きく様変わりしています。 16世紀にカトリック教会はトリエント公会議を開きまして、プロテスタントが「信仰のみ」と言えば、すかさず「善いわざも」と言い、「聖書のみ」と言えば、「教会の伝統も」と主張して改革に反対したのですが、カトリック教会には自分たちの教会を内側から改革していこうという動きもあったのです。

 もっとも有名なのは、イグナティウス・ロヨラの創設したイエズス会という修道会の働きでしょう。 そこからインドなどを経由して多くの宣教師たちが日本にもやってきたので、フランシスコ・ザビエルなど私たちにも馴染み深いものがあります。 500年経ちまして、カトリック教会は既に改革に向けて大きく舵を切っています。 半世紀ほど前に「第二バチカン公会議」で、現代世界における教会の大刷新を行いました。 ミサも聖体拝領だけでなく、聖書朗読や説教の重要性を取り入れましたし、ラテン語だけでなく各国語による礼拝も守られるようになりました。 つまり500年の歳月はカトリックとプロテスタントを近づけたとも言えます。

 この延長線上にあるのが、エキュメニカル・ムーブメントという教会一致運動です。 違う教派の教会がお互いに協力し合って相互理解を深めようというわけです。 ですから、今ではカトリック教会は東方教会やプロテスタントを「分かたれた兄弟」だと言っています。 カトリックとルター派の教会が共同宣言を出したり、WCC(世界基督教協議会)で討議し合ったりしているのはその一端です。 そんなことを思いながら、きょう私たちは世界の教会が同じキリストの体につながる枝として和解しているのだということを確認しましょう。

 さて、いろいろ申し上げましたが、教会が誕生した紀元1世紀も宗教改革の16世紀も税金の問題は教会が抱える大きな課題の一つでした。 それはどんな時代でもこの世には世俗的な権力者がいて、治める地域の住民から税金を徴収したからです。 宗教改革の時代には神聖ローマ帝国が今のドイツ地域を中心にヨーロッパに君臨していましたが、いかに皇帝がローマ教皇から戴冠を受けていたとは言え、教会支配体制が崩れていくにつれ、領邦国家が分立していくようになると、教会に納める税、皇帝に納める税、領邦国家に納める税など、民衆は税金で塗炭の苦しみを舐めるようになります。 実は民衆が重税に喘ぐという構図は、ほとんどの時代に共通する出来事であることに気づきます。 きょうのテキストは、この税金に関してイエスさまとファリサイ派・ヘロデ派の人々との間に交わされたやりとりです。 15節には 『ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した』 とありますから、ファリサイ派の人々によってイエスさまに陰謀がめぐらされたのです。

 ファリサイ派の動きの背景には、ユダヤ人指導者たちが構成するサンヘドリンと呼ばれる議会・裁判所の決定権の問題があります。 サンヘドリンでは議会・裁判が開かれますが、いかに議会・裁判所といえども、死刑宣告だけはローマ帝国から許可されていませんでした。 イエスという青二才を何とか貶めて亡き者にしようと狙っていたファリサイ派にしてみれば、それは何とも歯がゆかったことだったでしょう。 そこで一番手っ取り早い方法が、イエスにローマ帝国に対する反逆罪の汚名を着せることでした。 ローマ帝国では反逆罪は死刑だったからです。 この陰謀のために、ファリサイ派の人たちは弟子たちを普段はいがみ合っていたヘロデ派の人々と一緒にイエスさまのところに遣わしたと16節にあります。

 自分たちだけが先頭に立って露骨に陰謀をめぐらすのが後ろめたかったから弟子たちなのでしょう。 ヘロデ派の人たちというのは、ヘロデ党とも訳されていますが、ヘロデ王家を支えるいわば与党です。 この人たちは一応ローマ帝国の支配には満足しているのですが、このユダヤではローマ総督ではなくてヘロデ王家の王が君臨すべきだと密かに願っていました。 ファリサイ派は民衆の代表という立場ですから、普段この両者はいがみ合っていたのです。 ところが王家に属する家々の妻たちの中には、かなりファリサイ派の教えに影響されていた人も多かったようで、イエスを貶めるためにこの際手を結んでやれ、ということになったのでしょう。

 話を戻します。 16節後半です。  『先生、わたしたちはあなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです』。 …… どうでしょうか、この言い回しは? 実に陰険な雰囲気がよく訳されています。 そして、こうした言い回しの背後には実は重要な問題が隠れています。 当時熱心党(ゼーロータイ)と呼ばれていた政治結社の存在です。 熱心党はイスラエルが神権政治国家だという主張を持っていまして、ローマ帝国に税金を払うことに抵抗していました。 神政国家、つまり神のみがイスラエルのただ一人の王であり、その代理人とも目されていたダビデの治めた国を理想にしていたのでしょう。 一種のナショナリズムです。 おそらくファリサイ派の人たちも心の中ではそうした主張に同調していたはずです。

 ですから、もしイエスがローマに税金を納めるようにと答えたなら、即反ユダヤの烙印を押すつもりなのです。 しかしここでは、ヘロデ派という普段自分たちが反民族的な輩だと非難している人々と協力して、イエスという目障りな存在を取り除こうとしているわけですから、リーダーたちが自ら乗り出していくことははばかられたのでしょう。 ですから弟子たちを遣わしたのです。

 さてイエスさまはファリサイ人たちの悪意に気づかれました。 その上でこう言われています。  『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい』。 で、彼らはデナリオン銀貨を持ってきます。 それをご覧になってイエスさまはさらに言われました。 『これは誰の肖像と銘か』。  貨幣に王の像が刻まれれば、その王はその国の支配者であるというのがイスラエルの伝統ですから、普段民衆から尊敬されていたユダヤの律法学者にしてみれば、平生の主張からも貨幣に人間の像を刻むことには反対せざるを得ないのです。 神のみが唯一の王ですから、皇帝であれ何であれ、人間の顔が刻まれれば偶像礼拝になるという理屈だったと思われます。

 とにかく、彼らは 『これは、だれの肖像と銘か』 というイエスさまの言葉に対して 『皇帝のものです』 と応じてしまいました。 皇帝カイザルの肖像が目の前にあるのですから、ついそのまま答えてしまったのです。 このあたりには、言葉の罠を仕掛ける役目を担っていた割には、知恵のない姿を晒し出してしまっています。 イエスさまの応答はまったく彼らが予想しなかったものでした。 21節です。  『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』。 口語訳聖書では、『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に……』 と訳されていた有名な箇所です。

 とにかく、この言葉にファリサイ派もヘロデ派も驚嘆してしまったわけですが、ここには彼らを驚かせたという以上の意味があります。 「皇帝のものと神のもの」という発想は、この世とあの世という二つの世界を連想させます。 パウロは「我らの国籍は天にあり」と言いましたけれども、イエスさまもパウロも「国籍が天にあるから」この世を否定的に捉えているわけではありません。 俗世間と言いますか、ここにはこの世の生活に対する強い肯定が打ち出されています。 「我らの国籍は天にあり」という信仰に立ちながら、この世の権威、たとえば、王を代表とする支配者を一見認めているようで、実は決定的に否定しているという、イエス・キリストの持つあの世とこの世の両極端における緊張関係を見落としてはならないでしょう。

 キリスト者は、あの世とこの世の秩序を共に生きている存在なのです。 古代や中世の人たちは、宗教的センスということでは現代の私たちより優れていたと私は考えているのですが、パウロなどにしても見事にあの世とこの世を同時的に生き抜いたと思います。 それが証拠に、たとえば中世の人は農閑期になると巡礼の旅に出たりしました。 ジョン・バンヤンの「天路歴程」に見るように、巡礼には深い宗教的な思いが込められています。 安息日や主日にしても、おそらくあの世に思いを致す超越的な日として捉えられていたのだと思います。 ところがどうでしょう、私たちが生きる現代は世俗化の時代、脱宗教の時代と言われて久しく、ほとんどの人の関心はこの世のことだけです。 日曜日という本来聖日・主日として位置付けられている日でさえも人々は働くようになってしまいました。 現代を支配するのはそうした一元的な思考で、あの世のことや超越的な世界のことなどはどこかに吹き飛んでしまっています。 自分のことだけを考える、あるいは自分の国のことだけを考えるという排他的な思考が、現代人の精神的な貧しさを象徴しています。

 そういう意味でナショナリズムの本質はエゴイズムだと私は考えています。 在日外国人の人権問題などに関わっていますと、そういう現代の特徴がよく見えます。 排他主義、閉鎖主義という一元的思考は、現代人の抱える病弊ではないでしょうか。 私はきょうのテキストに現れているように、結局イエスさまは、「あの世を思うことのできない一元的な思考は破滅してしまいますよ」と言われているような気がしてなりません。 人間は現実において懸命に生きると同時に、理想をもって生きなければ、その人生は破滅します。 私たちはイエスさまから、生と死を共に念頭に置いて生きていきなさいと、納税というお金の話を媒体にして教えられているのではないでしょうか。 私たちは一応先進国という豊かさの中で生きていますが、豊かさの中でアフリカやアジアなどの飢えの問題を見つめる意味もここにあると思います。 日本だけでなく、世界のことを一緒に考えることは神さまの祝福ではないでしょうか。

 人間は二つの世界を生きるという二元的な生活を営なむとき、二つの世界を関連付けるとき、精神に広さと豊かさが与えられると思うのです。 キリスト者でなくても孤独や悲しみを体験することは同じだと思いますが、もし違いがあるとしたら、それはキリスト者はこの世だけを生きているのではなく、神さまとイエス・キリストという超越の世界にも生きていて、祈ることができるという点だと思います。 神さまのことを想い、祈ることは、人間を絶望に転落することから救い、支えてくれます。 あの世とこの世をどう生きるべきか、神の国を仰ぐゆえに、きょうこの日をどう生きるべきか、キリスト者はイエス・キリストを通して導かれます。 キリスト者として、そのことに感謝しつつ、日々新たに創造的に生き抜いていけたらと願っています。 祈りましょう。


 
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