相変わらず明るいニュースが少ない昨今です。 アベノミクスで景気が上向いたなんて言われてもいますが、賃上げやボーナスが増えて喜んでいるのは、一部の大企業だけという気がします。 恩恵に与れずに過酷な状況に喘いでいる業界も多いのでしょう。
このところよく耳にするのは、「長時間労働」とか「非正規雇用」といった言葉です。 グローバル経済と言われるように、経済状況は一国の問題では済まないと言われていますし、政治にもあまり希望が持てないということになってくれば、この先世界はどうなっていくのだろうかと心配になります。 社会全体がこうした暗いニュースばかりに覆われていくと、またぞろ「世の終わりは近い」という思想が顔を出してくるかもしれません。 こうした傾向は人類の歴史の中でたびたび現れました。
日本では平安末期から鎌倉時代にかけて末法思想が流行し、人々を不安に陥らせました。 同時にこの時代は仏教改革とも呼ばれる鎌倉仏教を生み出したことを私たちは知っています。 法然、親鸞、日蓮、道元といった宗教界のリーダーたちの時代でもあります。 キリスト教神学で言えば終末論ですが、終末思想はすでにユダヤ教にもありました。 そうした流れを受け継いで、初期のキリスト教は盛んに死とか審判とか天国・地獄などを論じながら、世の終わりやキリスト再臨の信仰を強めていきました。 初代教会の前にはローマ帝国というこの世の絶対権力とも言うべき存在がありましたから、その強い圧力から逃れたり乗り越えたりするにはどうしたらよいかと、キリスト者は信仰的に闘ったとも言えます。
きょうの旧約のテキストはホセア書を読みましたが、世の中に希望が見えないと、古代イスラエルにはホセアのような預言者が登場しました。 ホセア4章には、呪い・欺き・人殺し・盗み・姦淫といったさまざまな不正がはびこっている時、神さまはそれを見過ごしにはされない、歴史に介入してイスラエルに審判を下されるのだ、とホセアの叫びが記されています。 そのような預言者の告知の代表的なものが終末宣言であり、その終末宣言を引き出す原因として、人殺しとか盗みとか姦淫のような人間の犯す数々の不正があるわけです。 きょうのテキストでも終末の出来事そのものをイエスさまは語っています。 内容を一言でいえば「人の子の来臨」です。
すぐ前のパラグラフでイエスさまは、「世の終わりが来るときの苦難について述べられているのですが、その苦難の後、つまり24節冒頭の 『それらの日』 に、 『太陽は暗くなり、月は光を放たず……』 と言われるのです。 それは旧約聖書を拠り所とした言葉でありまして、イザヤ書の13章10節などを想起させるやり方で、宇宙の異変を描いています。 ちなみにイザヤ書13章10節にはこうあります。 『天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない』。 旧約聖書のこうした箇所では、「主の日」の到来、すなわち裁きのための神さまの顕現が語られています。 こうした表現は、教訓とかかくし言葉で神さまの言葉を告げる黙示文学の方法でもあります。
「天体は揺り動かされる」などという表現に触れますと、天の中のもろもろの力である天体が神様によって揺り動かされ、宇宙的な悪霊の勢力がうごめき始めるといったような印象でしょうか。 こうした表現を現代の私たちはどう受けとめるべきなのでしょうか。 宇宙一つとってみても、古代と現代ではその捉え方には大きな開きがあります。
現代は原子力の時代です。 私ならば、宇宙的な悪霊の勢力のうごめきとして、たとえば核爆発を連想します。 広島と長崎の出来事として、核爆発は現実に二度も起こった私たちが確認できる目の前の歴史的事実です。 私たちは「天体は揺り動かされる」と表現されている事柄を、厳粛な真理として、恐ろしい現実として現代人に迫ってくるものとして感じ取るべきではないでしょうか。 これは言い換えれば、人間の罪が自然界にまで及んで現れてきているということではないでしょうか。 26節には 『そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る』 とあります。 天体が神さまによって揺り動かされることにより、悪霊的勢力の支配が終わり、そこに「人の子」が来るというのです。
26節の表現も旧約聖書に依拠しています。 ダニエル書の7章13節以下にこうあります。 『夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない』。 ダニエルの見た幻の「人の子」はまだ漠然としていて、明確なメシア像ではありませんが、少なくともイエスさまは、ダニエルの見た幻を拠り所として「人の子」を語っておられるのです。
旧約聖書において、終末の完成時に期待されていた「人の子」がわたしキリストなのだということを明らかにされています。 イエスさまはダニエルの幻を引用して、ご自身が、人の罪のあがないとして十字架の苦難を負い、復活され、やがては最後の勝利を得て、地上に神の国を完成するために来臨すると言われているのです。
イザヤは9章5節で 『ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は“驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君”と唱えられる』 と預言していますが、それこそこの預言の成就が今なった、とイエスさまが宣言なさったのです。 「人の子」がイエスご自身であることを福音書記者マルコは確認しているのです。 27節には、『そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める』 とあります。 「四方から」、つまり東西南北全方位から、それこそ地の果てから天の果てまであますところなく、探して集められると言われています。 イエス・キリストによって選ばれた人たちの救いのために到来することが語られています。 神を信じるすべての人が、呼び集められて、神の国の民となるということです。
神さまに逆らったために人類は罪に落ちたと創世記の堕落論は語っていますが、その時からこの地上には苦難と争いが絶えなくなったというのが旧約聖書の歴史が表すところです。 人間が罪に落ちたと同時に、この自然界も呪われ、混乱に陥りました。 けれども、人間の罪を負い、十字架にあがないの死をとげ、復活し昇天したキリストが、審判のため、栄光の王として、再び地上に来臨し、その後神の国が完成する、と新約聖書は告げるのです。 そのときには、世界からまったく罪が除かれるでしょう。 キリスト教の信仰は、そこにキリスト者の最後の希望がある、と示しています。
では、人の子キリストの再臨はいつのことでしょうか? 私たちはこういうことを自分の信仰生活の中でどれだけ真剣に突き詰めて考えているでしょうか。 ほとんど考えたこともない、とおっしゃる方がおられたら、ぜひ考えてください。 イエスさまはすぐ後に続く 「いちじくの木の教え」 の中で、『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない』 と言われていますが、イエスさまの言葉に基礎をおく人生もまた滅びることがないのです。
ですからイエス・キリストの約束されたみ言葉に土台をおく私たちは、幸いな存在なのです。 内村鑑三は、かつて最愛のお嬢さんを亡くされたとき、悲しみのどん底から這い上がるきっかけを得たのは再臨信仰でした。 彼は熱心に再臨運動を展開しています。
人間の命の不思議さ、はかなさも含めてその神秘を想うとき、私は内村の信仰が分かるような気がします。 終末論を単なる思想の一つとしてではなく、自分の命が掛かっている出来事として理解することは大切なことだと思います。 「人の子」が来る、それは私たちの救いのためなのだということを、再確認したいと思います。 祈りましょう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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