キリスト者の希望

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「キリスト者の希望」

秋葉正二
ヨブ記42,1-6;

 初期ユダヤ教においては、エルサレムの権威者がディアスポラ(離散)のユダヤ人共同体に宛てて手紙を送り、祭儀的な指導をしたり、異邦人社会でどのように信仰を守って生活すべきかを説いたりする伝統がありました。初期のキリスト教がその伝統を借り受けたことが、使徒言行録のバルナバ派遣などの記事から分かります。そのような状況下、本書は教会の世俗化に対して警告を与えています。教会の人たちが神さまの意志に従うことよりも、世俗社会の価値観を優先して、信仰者としての本来あるべき姿を失っていたことを著者は非難するのです。パウロは信仰義認を説きましたが、これがややもすると教会の中で誤解されていたようです。つまり信仰と行為との生命的な結びつきが軽視されつつありました。7節の冒頭でヤコブは「兄弟たち」と呼びかけていますが、具体的な人々の顔を思い浮かべながら書いているのかどうかは分かりません。回覧文書的なものならば、一般的な教会の人たちが対象ということになります。

 ともあれヤコブは、『主が来られるときまで忍耐しなさい』 と農夫を例にあげて勧めています。農夫が収穫を忍耐強く待つことは誰もが知っているからです。自然を相手に仕事をする人たちの忍耐強さは誰もが認めるところです。「主が来られるとき」まで待てをヤコブは言います。「主が来られるとき」ですから、もちろん終末のときです。そこには既に人間存在の究極的意味を歴史の直線上に見出そうとするキリスト教の信仰理解があります。同時にそれはユダヤ教以来の伝統でもありました。終末を意識した思想が初期の教会の中で着実に発展しつつあったことが分かります。この世の現実は厳しいことばかりですから、よみがえって神のもとに帰られたイエスさまが一日も早く再びこの世に来られることを当時の教会の人たちが期待した気持ちは、私たちにもある程度想像できます。しかし30年経ち40年経ってもイエスさまの来臨はありませんでした。そこで、主の来臨を待つキリスト者は、収穫を待つ農夫たちのように忍耐強くあらねばならないという勧めがなされたわけです。さらに、そのように勧めつつ著者は8節の後半では 『主が来られる時が迫っている』 と畳み掛けています。

 この「切迫した終末」は、1世紀のキリスト教の特徴でもあります。「迫っている」と言われれば、何かを怖いような印象もありますが、決してマイナスイメージで終末を受けとめなさいと勧められているのではありません。たとえば、7節で例にあげられている農夫ならば、どんな気持ちで収穫を待ち続けたのでしょうか。彼らは決して悲観的に待望しているわけではありません。どれだけ豊かな実りがあるだろうかと期待を込めて収穫を待ち望んだはずです。ですから農夫の待望とは積極的な希望を意味しています。著者は「信仰も同じですよ、終末を忍耐強く待つというのは希望を抱いて生きることですよ」と勧めているのです。そこには旧約の終末論とは根本的に異なる終末論があるように思います。教会が誕生してからの終末論は、イエスさまのこの世における活動が土台にあるわけですから、決定的な救いはすでに現れたという信仰です。

 言うなれば、決定的なものがすでに現れたという信仰と、さらにそれを確実なものにする新たな救いが今まさに起ころうとしているという期待とが緊張関係に立っているのです。殉教が現実に起こっていた時代ですから、当時のキリスト者は信仰生活を続ける限り、おそらく死を意識せずにはおれなかったと思います。信仰をもって歩んでいる自分が死んだらどうなるかを、考えずにはおられなかったでしょう。そこで、イエスさまの来臨が遅れれば遅れるほど、ある種の非終末論化が始まりました。具体的に言えば、キリスト者は死後すぐに天国に入れるという理解が生まれたのです。ヨハネ福音書に見られるように、永遠の命の現在的所有理解が始まっていました。しかしだからと言って、現在既に終末が始まっているものの、未来における完成という考えが姿を消したわけでもありません。黙示録には、世の終わりの前にキリストが現れて千年間世界を支配するという思想が出てきますが、今の世と来たるべき世との中間状態は考えられませんから、その考えは無理としても、現在と未来とにつながる終末の緊張関係が当時あったことは確かでしょう。

 現代の私たちのことを考えてみても、確かに救われたという信仰を与えられつつ、やがて 「主が来られる時」 を希望をもって生きているわけです。黙示録の表現を借りれば、「新しい天と新しい地」を待ち望んでいます。ですから、7節8節で語られている忍耐は、希望に胸膨らませて待つという積極的な忍耐です。さて、9節では 『兄弟たち、裁きを受けないようにするためには』 とあるように、終末には「裁き」という側面があることも示されています。『裁く方が戸口に立っておられます』 というのですから、これは「切迫した終末」 の表現です。神さまは私たち人間を愛してくださり救ってくださるお方ですが、「裁く方」 としても来られるというのです。神さまは聖にして義なる審判者としても来臨されるのです。そうであるならば、私たちはただ漫然と待望するのではなく、自分の生き方を省みなければなりません。ではどういう風に生きたらよいか……、著者は具体的なアドバイスをしてくれています。『互いに不平を言わぬことです』。

 これは非常に難しいことだと思います。なぜかと言えば、人間は不平を言いつつ歩む存在だからです。たとえば教会の中のことを考えてみましょう。イエスさまを仰ぎつつ同じ信仰をもって歩んでいるはずなのに、具体的なこととなるとすぐにどこかで不平が頭をもたげ始めます。たとえば、役員会が一つの事柄を決めたとします。すると必ずと言っていいほど、それに反対を唱える意見が出ることはどの教会でも珍しいことではありません。役員会の決定が絶対に間違いがない、などとは到底言えないわけですから当然といえば当然です。問題は正面切って反対意見が出ないままくすぶり続けることでしょう。燠火みたいに消えたように見えても実は消えていないといった状態です。そうした状態が良い結果を生むことはまずありません。教会の歩みの上ではマイナスに作用することがほとんどでしょう。

 考えてみれば、旧約聖書に見るイスラエル民族の歩みがそうでした。荒野の40年は民の不平不満に溢れた40年でした。リーダーであるモーセはさぞ大変だったろうと同情したくなります。ちょっと油断すれば、エジプトの肉鍋が恋しいとか、金の子牛の鋳造を作ってそれにひれ伏すとかしたのです。その度にモーセは心を砕かなければなりませんでした。不平を言わずに忍耐をもってお互いに接する、このことが信仰生活においてどんなに大切かを思わずにはおれません。お互いに不平をもらすのは人間の弱さの証拠なのでしょう。すぐ前の4章11節以下では 『兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません』とありますから、そのこととも関連していると思います。そして10節では、忍耐することの模範として、『主の名によって語った』 旧約の預言者たちを挙げます。

『主の名によって語った』預言者とは、アモスであり、イザヤであり、エレミヤなどです。彼らは必ず 『主はこう言われる』 と念を押して預言を語っています。その意味は、彼らの預言が主なる神の権威に基づいたものであるということです。彼らは厳しい言葉で不信仰や悪を指摘したため苦難を受けたり殺されたりしたのです。ヤコブは彼らこそ 『辛抱と忍耐の模範』 だと位置付けています。さらに11節では 「ヨブの忍耐」 が取り上げらます。幸福の絶頂にあったヨブに、次から次へと与えられた人生の苦難に対して、彼は神義論を問題にせざるを得なくなり、信仰の危機が臨みました。ヨブは三人の友人を相手に、深刻な長い問いかけの前に置かれますが、神さまは最後に応えられました。ヨブは神こそが、慈しみ深く、憐れみに満ちた方であることを示されています。

 ヤコブはそのヨブに起こった出来事に言及して、あなた方はそのことを知っているではないか、と言うのです。もっと言えば、私たちが主イエス・キリストの十字架と復活を通して神さまから祝福されているということです。それゆえ、私たちがそれぞれの人生で苦難に遭っても、忍耐して神さまへの忠誠を失わずに生きることが重要なのです。ヤコブの言う忍耐は我慢ではありません。「主が来られる」「神の国は近づいた」ことをはっきり自覚しながら、神さまの導きと祝福を信じて終末論的に生きることが大切なのです。そういえば、聖書の最後の言葉は、『アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように』 で結ばれていました。祈りましょう。


 
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