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- イエスが私達の大祭司とはどういう意味があるの?
大祭司は多くあるイエスの呼び名一つです。イエスの呼び名メシヤ、救い主、神の御子、人の子、罪人の友、などあり、それぞれがイエスがどんな方であり私達にどう関わって下さる方なのかを示しています。ベブル記ではイエスが私達の大祭司であると書かれています( ヘブル2:17; 4:14)。「祭司」という言葉には主に二つの意味があり、一つ目は宗教的な仲介者、二つ目は聖なる働きをすることができる聖い人物という物です。この言葉が聖書で初めて使われているのは創世記14章で、アブラハムが甥のロトを助けようとしてエラム人を追って戦いに出、その帰りにサレムの王であり神の祭司であるメルキゼデクに出会います。彼の名は「義の王」という意味があり、メルキゼデクはアブラハムとアブラハムに勝利を与えられた神を祝福しました。それを受
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- イエスはどういう見た目だったの?
イエスの見た目について聖書には何も書かれていません。イエスの外見について書かれている可能性があるのはイザヤ53:2b「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」という物です。この箇所からわかるのはイエスの外見は他の人々と同じで、普通だったという事です。イザヤがここで言っているのは、来たるべき苦しみを受ける神のしもべはへり下った形で来られ、世界の王であるという事実を明確にさせる形で、きらびやかな形でこのよに来られるのではないという事で、イエスの本当の姿は信仰の目によってのみ見えるという事でした。イザヤはさらにキリストが十字架につけられる前に鞭で打たれる様子を描き、「 ―その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―」(イ
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- ヨハネ8章でイエスが「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」と言ったのはどういう意味だったの?
パリサイ人達の「あなたは自分自身を誰だというのですか。」(ヨハネ8:53)という質問に対し、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」とイエスは答えました。それを受けたユダヤ人達は「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」と問いただします。それを受けたイエスは「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」と答えました。それを聞いたユダヤ人達はイエスを石打ちにしようとしましたが、イエスは身を隠して宮から出て行かれました。このユダヤ人達の極端な反応はイエスが「わたしはいるのです」(エゴー・エイミ)といった際に出エジプト記3:14で神が自分をさして言われた「わたしはある」という名と自分を同等とした事をユダヤ人
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- イエスの昇天の意味と重要性は何?
イエスは死から蘇った後、ご自分が生きていることを墓で女性たちに(マタイ28:9-10)、弟子たちに(ルカ24:36-43)、そして500人以上の人々に(I コリント15:6)示され、その期間神の国の事を彼らに語られました(使徒1:3)。復活の40日後、イエスと弟子たちはエルサレムの近くにあるオリーブ山に行き、そこでイエスは弟子たちが近い将来に聖霊を受ける事を約束し、またそれまでエルサレムに留まるようにと命じました。そして彼らを祝福し、天に昇りました。イエスの昇天の様子はルカ24:50-51、また使徒 1:9-11に記されています。聖書を読むとイエスの昇天は文字通り、物理的起こった出来事だとわかります。イエスはゆっくりと地面から、人々に見える形で天に昇り始めたのです。弟子たちが小さくなっていっ
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- イエスの幼年期には何が起こったの?
ルカ2:41-52の箇所以外にはイエスの幼年期、少年期、また青年期について聖書には何も書かれていません。上記の箇所からイエスの子供の頃について少しわかります。まず、イエスの地上の両親は敬虔なユダヤ教徒だったということです。律法に従って、ヨセフとマリヤは毎年過越の祭りのためにエルサレムに行っていました。さらに彼らは12歳であったイエスを一緒に連れていくことで13歳のミツワーの備えをしました。ミツワーとはユダヤ人の子供が大人になる式でした。つまり、イエスは当時のイスラエルの普通の家庭に育った普通の子供だった事がわかります。また上記の箇所ではイエスが神殿に残ったその行動が悪意の込もった行動でも不従順からくる物でもなく、イエスが自身が父なる神の働きのために存在する事を知っていた事を示しています。また
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- イエスはユダヤ人だったの?
インターネット上で検索するとナザレのイエスがユダヤ人であったかどうかについて多くの議論がされている事がわかります。上記の質問について考える前に、ユダヤ人/ユダヤ教徒とは何であるのかという質問を答える必要があります。この質問自体も議論を引き起こす物で、様々な見解がありますが、正統派、保守派、そして改革派のユダヤ教徒達全てが賛同するであろう定義は「ユダヤ人とはユダヤ人である母親を持つ人か、正式にユダヤ教徒への改宗をした人である」という物です。母方の家系の重要性は旧約聖書にはっきり書かれているわけではありませんが、現代のユダヤ教では、母方の家系の重要性を教えていると理解できる箇所が幾つかあるとみなされていて、申命記7:1-5; レビ記24:10; そしてエズラ10:2-3などがあります。また他には
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- イエスの血潮とはどういう意味?
「イエスの血潮」という言い回しが新約聖書で幾度も使われていますが、これはイエスキリストが身代わりの犠牲を払って死なれ、私たちを購って(あがなって)くださったその事をさしている表現です。私たちの救い主の血潮について書かれている箇所では、イエスキリストが実際に十字架で、私たち罪人達のために死んでくださったという真実をさしているのです。キリストの血潮は、歴史の全てを通して存在する数え切れないほどの人数の人々の無限の罪の全てを許す事ができる力を持っていて、その血潮の力を信じる者達に救いを与える事ができるのです。イエスキリストの血潮が罪の贖いをもたらすという真実はモーセの律法で教えられています。年に一度、祭司が動物の血を神殿の祭壇の上で、人々の罪のための生贄として捧げていました。「それで、律法によれば
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- イエスが怒った事はあるの?
両替人達や動物商人達を追い出して宮を清めた際、イエスは激しい怒りを示されました(マタイ21:12-13; マルコ11:15-18; ヨハネ2:13-22)。その様子を神の家を思う「熱心」と聖書は書いています(ヨハネ 2:17)。イエスの怒りは神の聖さと礼拝を思った純粋な物だったので正しかったのです。神の礼拝が曲げられていたのでイエスは早急に行動しました。他にイエスが怒りをあらわにしたのはカペナウムの会堂で、パリサイ人達がイエスの質問に答えようとしなかった時に「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた」(マルコ3:5)。と書いてあります。私達はしばしば怒りを自己中心で暴力的な感情と思い、人生から怒りを取り除こうとする事もあるかもしれ
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- キリストの復活をなぜ信じなければならないのですか?
紀元1世紀にユダヤにおいて、ユダヤの議会の要請でにより、ピラトのもとで、イエスキリストが公に十字架刑にされたということはすでに確立した事実です。クリスチャンでない歴史家、フラビウス. ヨセファス、コルネリウス. タキタス、サモサタのルシアンなどが叙述していますし、またユダヤ議会でさえ、初代教会のクリスチャンでイエスキリストの死を目撃した人々の証しで、この重要な歴史的事実を認めています。 イエスの復活に関しては、否定しようもない証拠がいくつかあります。法理学の天才、国際的政治家の故サー.ライオネル.ルックホー(殺人事件の弁護をして連続245回被告の無罪判決を得たことで、ギネス世界記録書に載っていることで有名な人)が復活の証拠がいかに圧倒的かクリスチャンの意気込みと自信を要約して書いています。「
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- 旧約聖書のどこにキリストの来られることを預言していますか?
イエスキリストに関する預言は、旧約聖書の中にたくさんあります。多くの解釈者たちは、メシヤについての預言は何百もあるといいます。 以下は、その中でも最も明確で重要だとされる預言です。イエスのご降誕について:イザヤ7章14節「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名つ”ける。」 イザヤ9章6節:「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその方にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」 ミカ5章2節:「 ベツレヘム、エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、私のために、イスラエルの支配者
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- イエスが人の子だと言うのはどういう意味ですか?
新約聖書では、イエスが「人の子」といわれているところが88回も出てきます。「人の子」の第一の意味は、ダニエル書7章13-14節の預言のことを言います。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」 この「人の子」というのは、メシヤの称号です。イエスが主権と栄光と国を与えられたお方です。イエスがこのことばを使われたとき、人の子の預言をご自分に当てはめておられたのです。 当時のユダヤ人には、このことばはよく知られていたもので、誰のことを指しているかもよくわ
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- 神があの時代にイエスを遣わされたのはなぜですか?なぜもっと前とかもっとあとに遣わされなかったのでしょうか?
「しかし、定めの時が来たので(時が満ちたので)、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の舌にある者となさいました。」(ガラテヤ4章4節)この聖句は時が満ちた(定めの時がきた)時、父なる神が御子を遣わされたと宣言しています。 一世紀のあの当時、少なくとも人間的に考えると、キリストの来臨に非常に理想的なときと思われる多くのことが起こっていました。1) ユダヤ人の間に、メシヤが来られるだろうという大きな期待が出てきていた。イスラエルがローマ帝国の支配下にあって、ユダヤ人はメシヤが来られるのを渇望していた。2)ローマは当時の世界のほとんどの部分を支配下において統一 していた。それで、各地方には統一感があった。また、ローマ帝国が比較的平和であったので、旅行ができ、初代教会のクリ
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- イエスには兄弟姉妹があったのでしょうか?
聖書のいくつかの箇所でイエスの兄弟たちが出てきます。マタイ12章46節;ルカ8章19節です;マルコ3章31節では、イエスの母と兄弟たちがイエスに会いにきたとあります。聖書はイエスには、4人の弟、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダがあったと言っています。(マタイ13章55節) 聖書はまた、イエスには妹がいたとも書いてますが、その名前や人数は記されてません。(マタイ13章56節)ヨハネ7章1-10節では、イエスがあとに残られて弟達だけ祭りに行くことを述べています。 使徒伝1章14節では、イエスの母と弟達が使徒たちと共に祈っていることが書いてあります。 ガラテヤ人の手紙1章19節では、ヤコブがイエスの兄弟であることを述べています。 これらの箇所から最も自然な結論は、イエスに実際に血の繋がった異父兄弟がい
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- イエスが神の小羊というのはどういう意味ですか?
ヨハネ1章29、36節でイエスが「神の小羊」と呼ばれたのは、イエスこそ罪のための完全な最後のいけにえであるということを言っているのです。キリストが誰であり、何をされたかを理解するためには、旧約聖書から始めなくてはなりません。それには、「罪過のためのいけにえ」(イザヤ53章10節)として来られるキリストについての預言があります。事実、旧約聖書で神が設置されたいけにえ全体の制度は、イエスキリストの来臨の舞台を提供しています。キリストは神の民の罪の贖いのために神が備えられた完全ないけにえなのです。(ローマ8章3節;へブル10章) 子羊のいけにえは、ユダヤ人の宗教生活といけにえの制度において非常に重要な役目を果たしました。バプテズマのヨハネが、イエスを指して、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章
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- なぜイエスは多くの苦しみを体験しなければならなかったのですか?
イザヤ書52章14節は、「多くの者があなたを見て驚いたように、―――その顔だちは、損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。」と言っています。イエスはその裁判と拷問、十字架刑に至るまで、最もひどい苦しみに会われました。(マタイ27章;マルコ15章;ルカ23章;ヨハネ19章) 肉体的な苦しみもひどかったのですが、イエスが通られた霊的な苦しみに比べたら、それは何でもないほどでした。第2コリント5章21節には、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義徒なるためです。」とあります。 イエスには全世界の罪の重みがのしかかっていたのです。(第1ヨハネ2章2節)イエスが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
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- イエスは結婚していたのですか?
イエスは絶対に結婚したことはありません。イエスがマグダラのマリヤと結婚していたという神話が最近人気を集めています。これはただの神話であって、まったく間違っています。神学的にも歴史的、聖書的にも何の証拠はありません。2,3の グノーシス派(異端)福音書の中でイエスとマグダラのマリヤの関係が親しかったとありますが、そのどれも、イエスとマグダらのマリヤが結婚していたとか、恋愛関係があったとか書いてはいません。. 中で、それに最も近いのは、イエスがマグダラのマリヤにキスしたと述べているところですが、それも、友だち同士のようなキスであったと言えるものです。さらに、グノーシス派の福音書に直接イエスはマリヤと結婚していたと書いてあったとしても、その福音書には何の権威もないのです。グノーシス派の福音書は、す
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- イエスの系図はマタイ書とルカ書とでなぜ違っているのですか?
聖書の中でイエスの系図があるのは、二箇所あります。マタイ1章とルカ3章23-38節です。マタイはイエスからアブラハムまで、ルカはイエスからアダムまでさかのぼります。 しかし、マタイとルカはまったく違った系図をたどっていると思われる理由があります。例えば、マタイはヨセフの父をヤコブとしているのに、、(マタイ1章16節)ルカはヨセフの父をヘリ としています。(ルカ3章23節)マタイは、ダビデの子ソロモンを通した家系をたどっていますが、一方ルカはダビデの子ナタンの家系をたどります。(ルカ3章31節)事実、二つの系図で、ダビデとイエスの間で共通な名前は、サラテルとゾロバベルだけです。(マタイ1章12節;ルカ3章27節) この違いを指摘して、聖書に間違いがある証拠だとする人もあります。しかし、ユダヤ人
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- 本質的結合とは何?どうしてイエスは同時に神であり、人であることができるのですか?
本質的結合とは、御子なる神、イエス.キリストが人間の性質を取りながら、同時に完全に神であることを説明することばです。イエスはいつも神であられました。(ヨハネ8:58;10:30)しかし、イエスが肉体を持ってお生まれになった時、人となられたのです。(ヨハネ1:14)人間の性質が神の性質に加えられて、イエスは神であり、人となられたのです。 これが本質的結合、ひとりのイエス.キリストが完全に神であり、完全に人なのです。イエスの二つの性質、(人間と神との二つ)は切り離すことができません。イエスは、完全に神であり、完全に人であり、永遠に神と人との違った性質を持った一人の人格なのです。イエスの人間性と神性は混合しませんが、それぞれのアイデンテイテイーを失うことなく結合しているのです。イエスは時々人間とし
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- もし、イエスが神なら、どうして神に祈ることができますか?イエスは自分に祈っておられたのでしょうか?
地上におられた時、神であるイエスが父なる神に祈られたことを理解するためには、永遠の父なる神と永遠の御子なるイエスが、人のからだを取って地上に生まれる前から永遠の関係があったことに注目する必要があります。ヨハネ5章19-27節を読んでください。 特に23節では、父なる神が御子を遣わされたとイエスは教えておられます。(ヨハネ15章10節もみてください。)イエスはベツレヘムでお生まれになったとき、神の子になられたのではありません。 イエスは永遠の昔から御子であり、今でも未来にもずっと御子なのです。イザヤ9章6節は、私たちのために、御子が与えられ、ひとりのみどりごが生まれると教えています。 イエスは、いつも聖霊と共に三位一体の一部をなす神でした。この三位一体の神は、父なる神、御子なる神、聖霊なる神と
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- イエスが罪を犯す可能性はあったのでしょうか?
この興味ある質問には二つの面があります。この質問は、イエスが罪を犯されたかどうかと聞いているのではないことを覚えておくのは重要です。聖書が明確に示しているように、イエスは 罪を犯したことがありません。(第2コリント5章21節;第1ペテロ2章22節)この質問はイエスが果たして罪を犯すことができたか否かというのです。イエスが’罪を犯すことはできなかった’と信じる人はイエスは罪を犯したくても犯すことはできなかったと信じます。’罪を犯すことができる’と信じる人は、イエスは罪を犯すことはできたが犯さなかったのだと主張します。どちらの意見が正しいのでしょう?聖書の明確な教えは、イエスは罪を犯すことができなかった、つまり、犯そうにも犯すことはできなかったとあります。もし、罪を犯すことができたなら、今日でも
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......