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- イエスは死んでから復活するまでの間に地獄に行きましたか?
イエスの魂は死から復活までの間の時間に地獄へ行ったのでしょうか? この質問に関しては、かなりの混乱があります。この考えはおもに、「地獄に下り、」という使徒信条から来ています。 他にも聖書の二、三の箇所でその解釈のし方によっては、イエスが“地獄”へ行ったと述べているところがあります。この問題を学ぶにあたって、まず、聖書が死者の領域について何と教えているか理解することが大事です。へブル語の聖書では、死者の領域を叙述するために使われることばは“ショオル”です。これは単に、“死人の場所”または“死者の魂/霊の場所”という意味です。新約聖書のギリシャ語で地獄という意味で使われることばは、“ハデス”です。これも“死者の場所”のことです。 新約聖書のほかの箇所ではショオル/ハデスというのは一時的な場所を示
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- 聖書は、特にイエスが十字架につけられたのは何曜日であるとは言っていません?
マタイ12章40節でイエスは言われました。「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」十字架刑の日を金曜日だとする人たちは、イエスが三日間墓の中におられたという妥当な考え方があると言います。一世紀ごろのユダヤ人の考え方だと、部分的な一日でも丸一日と数えます。 イエスは金曜日のうちに墓に入れられたので、その日を一日目と数え、土曜日の丸一日、日曜日の朝までを次の一日と数えます。 だから、イエスが三日間、墓に入っておられたと考えられるというわけです。金曜日だったという意見のおもな議論はマルコ15章42節にあります。イエスが十字架にかけられたのは、「安息日の前日」であったという記録です。もし、その日が毎週廻ってくる安息日であったなら、それは土曜日だとい
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- イエスキリストの復活は本当ですか?
聖書はイエスキリストが死者の中から実際に復活されたということの決定的証拠を提供しています。 キリストの復活については、マタイ28章1-20節;マルコ16章1020節;ルカ24章1-53節;ヨハネ20章1節-21章25節に記録してあります。復活されたキリストは使徒伝にも出現しています。(使徒伝1章1-11節)これらの聖書の箇所から、キリストの復活の“証拠”となるものをいくつか得ることができます。 まず、第一に弟子達の劇的変化を見てください。 弟子達は、恐がって部屋に隠れていた臆病者から、世界中に出て行って大胆に福音を宣言する者へと変えられています。復活したキリストが彼らの前に現れたという理由のほかに、何が彼らをあれほどまでも劇的に変えることができたということの説明になるでしょう。二番目に、使徒
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- イエスが神の御子であるとは、どういう意味ですか・?
私たちが父と息子と考えるような意味でイエスが神の子であるという意味ではありません。神が結婚して息子を持ったのではありません。神が人のかたちをとったという意味で、イエスは神の子なのです。(ヨハネ1章1、14節) イエスは聖霊によって妊娠したということで、神の子なのです。ルカ1章35節は、「み使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます。』」と宣言しています。聖書の時代には「人の子」という言葉は人間のことを指して使われています。人の子というのは人間のことです。 ユダヤ人の指導者達の前での裁判の時、大祭司はイエスに要求しました。「私は生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その
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- 処女降誕は、なぜそれほどにまで重要なのですか?
処女降誕の教理は決定的に重要なことです。(イザヤ7章14節;マタイ1章23節;ルカ1章27、34節)まず、この祝福された出来事を聖書がどのように延べているか見てみましょう。 「どうしてそのようになりましょう?」というマリヤの質問に、ガブリエルはこう答えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は聖なる、神の子と呼ばれます。(ルカ1章35節)み使いは、ヨセフにマリアと結婚するようにと励ましてこう言っています。「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイ1章20節)マタイは処女が「聖霊によって身重になったことがわかった。」と言っています。(マタイ1章18節) ガラテヤ4章4節も処女降誕について教えています。「 神はご自分の御子を遣わし、女か
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- 神はなぜ私たちを試されるのですか?
なぜ神は私たちを試されるのか、又は試されるのを許しておられるのかと聞く時、私たちは試練は実際神から来ると認めていることになります。神が神の子供たちを試されるとき、神は貴重なことをされます。ダビデは神の試しを求めました。自分の思いと心を試してそれが本当に神に真実かどうか調べてくださいとお願いしました。(詩篇26:2;139:23) アブラハムがイサクを捧げることで神に試されたとき、アブラハムは従いました。(へブル11:17-19)そうしてアブラハムは全世界に彼が信仰の父であることを示しました。(ローマ4:16)旧約聖書と新約聖書の両方とも、”試す”と訳されている言葉は〝試練によって証明する”という意味です。だから、神がその子供たちを試されるとき、その目的は私たちの信仰が本物だということを試され
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- イエスは本当に存在したのですか?イエスキリストについて歴史的な証拠はありますか?
典型的に、この質問をする人はこの質問に「聖書以外に」という条件をつけます。イエスの存在の証拠として聖書は考慮できないという考えは、私達は認めません。 新約聖書では数百もの箇所でイエス.キリストのことを書いています。 福音書が書かれたのは紀元2世紀ごろ、イエスの死後百年以上経ってからだ と言う人たちもいます。もしそれが本当であったとしても(私達はそれには強く反対しますが)古代の証拠物件に関しては、ある事件が起こってから200年も経たない頃の書物は非常に信頼できる証拠だと考えられています。さらに、大多数の学者たち(クリスチャンもノンクリスチャンも)パウロの書簡(少なくとも何通か)は実際、パウロによって、1世紀の後半に、イエスの死後40年足らずの時に書かれたと認めています。 古代写本の証拠としては
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- 神はなぜ私たちを愛しておられるのですか?
この短い質問は、これまでに最も意味深長な質問の中の一つです。人間には、十分な答えはできないでしょう。 一つの事は確かです。神は、私たちが愛しやすいから、又は神に愛される価値があるから 愛されるのではありません。もし何かと言えば、その反対が真理でしょう。人類が堕落して以来、人間の状態は反逆と不従順です。エレミヤ17:9は人間の心の中の状態を述べています。「 人の心は陰険で、それは直らない。誰がそれを知ることができよう。」 私たちの心の最も奥の奥は罪で腐敗しているので、私たち自身でさえ、罪でどれほど汚染されているか気付かないのです。私たちの生まれつきの状態は神を求めません。神を愛してもいません。神を望んでもいません。 ローマ3:10-12はこの生まれつき堕落した生まれ変わっていない人の状態を
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- 神とは何?
A. W. トーザーは「神とはどんなお方か?」と書きました。「もしこの質問で、『神ご自身において神とはどういうお方か?』という意味なら、答えはありません。 もし、『神は、敬虔な理性が理解できるようにご自分について何を表示してくださったか?』という意味なら、十分で満足できる答えがあると思います。」私たちが神ご自身については神を知ることはできないとトーザーがいうのは正しいのです。ヨブ記は宣言しています。「あなたは神の深さを無抜くことgできようか。全能者の極限を見つけることができようか。それは天よりも高い。あなたに何ができようか。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得よう。」(ヨブ記11:7-8)しかしながら、私たちは、神がご自分についてみことばと被造物に啓示されたこと、〝敬虔な理性”が把握する
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- 神は人格者ですか?
その通り、神は人格者です。しかし、私たちが、神は人格者だというとき、神は人間だという意味ではありません。神は人格を持っておられ、理性のある自己認識されるお方だという意味です。神学者はしばしば、人格は〝知性と感情と意志のある存在”と定義します。 神は確かに知性(詩篇139:17)、感情(詩篇78:41)、そして意志(1コリント1:1)を持っておられます。それで、神は人格者なのです。誰も人間の人格を疑いません。人間は神のかたちに似せて造られたのです。(創世記1:26-27)聖書全体を通して、神に関して、彼、彼を、彼のという人称代名詞が使ってあります。聖書は神は三位一体;父、子、聖霊の三人の人格のあるお方として存在していると教えています。三位一体の神は、考えるには難しい概念です。 けれども、その証
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- もし神が存在したとして、なぜ私がそれを気に掛ける必要があるのでしょうか?
神の性質だけでなく、神の存在についても無数の見解があります。人間には私たちのすぐ隣の世界と全体としての宇宙の複雑さに関しての見方に限界があります。皮肉なことに、神の性質は混乱の性質ではなく、平和な性質なのです。1コリント14:33は、「それは神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。」と言っています。混乱を征服するカギは、質問を全く避けて通るのではなく、多くの人が無視しているそのお方に焦点を当てることです。(ピリピ4:6-7)私たちは人間の直面している実際の具体的な問題、貧困、文盲、病気などのような問題に対して熱心に取り掛かるべきです。そして神の存在とか神の性質などの論争がそれらのチャレンジに集中する邪魔をすることにもなるのは真実です。それで、私たちの誰かが神が存在するか否かなどを気にする必
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- 神の恵みとは何?
恵みは聖書の不変の主題です。それは新約聖書でイエスが来られることで絶頂に達するのです。(ヨハネ1:17)新約聖書で〝恵”と訳されている語は”〝好意、祝福、親切”という意味のギリシャ語charis, から来ています。私たちもみな他の人に恵みを表すことができます。 しかし、恵という語が神に関係して使われるとき、恵はもっと強い意味を表わします。 恵みとは神が、当然呪われるべき私たちの罪に対して、呪いの代わりに祝福を選択されることです。それを受けるに値しない者に対する神の博愛のことです。エペソ2:8は、「あなた方は目踏みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」と言っています。私たちが神との関係に入ることができる唯一の方法は私たちに向けた神の恵だから
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- 神はなぜ悪い人に良いことが起こるのを許しておられるのですか?
この質問はその反対の質問、「神はなぜ良い人に悪いことが起きるのを許しておられるのか?」によく似ています。両方とも、私たちが毎日目のあたりに見る、当惑させられる不正と思われる ことについてのことです。詩篇73に、詩篇の著者を悩ませる同じ質問の答えがあります。ひどい悩みと魂の苦しみにある自分を見て、彼は書いています。「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、滑るばかりだった。それは私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。」(詩篇73:2-3)この詩篇の著者はアサフという人で、神殿の聖歌隊の一つの指導者でした。明らかに彼は裕福な人ではありませんでした。それよりも自分の人生を神に仕えることに捧げていました。(1歴代誌2章を参考) しかし、私たちのように、困難を体験し、す
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- 神に栄誉を帰すとはどういう意味ですか?
黙示録4:10-11に、天での場面が記されています。「二十四人の長老は御座についている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して行った。『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに万物は存在し、また創造されたのですから。』」〝栄光”と〝誉れ”と訳されている言葉は、聖書では密接した関係にあり、しばしば交換して使われています。 しかし、微妙な違いがあります。最も頻繁に〝栄光”と訳されている言葉は、 〝本質的、本来備わっている価値”という意味があり、一方、〝誉れ”と訳されている語には、〝認められた評価、栄光あると認める、又は評価すること”という意味があります。栄光は栄光を帰される側
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- 神の愛が無条件であるとはどういう意味ですか?
聖書にある神の愛は明らかに無条件です。つまり神の愛は、神に対してその対象がどう思っていても、その対象(神の民)に向けて表現されます。神の性質が愛なので神は愛されるのです。(1ヨハネ4:8)神の愛は慈善的な行動に神を動かすのです。神の無条件の愛は福音に最も明白に表されています。 福音のメッセージは 基本的には神の人類救出の物語です。 神は反抗的な神の民の悪い状態を考えられて、彼らを罪から救おうと決心されますこの決断は神の愛に基づいています。(エペソ1:4-5)パウロがローマ人に宛てて書いた言葉を聞いて下さい。「私たちがまだ弱かった時、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはい
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- 神が霊(冠詞なしの)であるとはどういう意味ですか?
神は霊であるという教えは、ヨハネ4:24にあります。「神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」イエスはこの言葉を、正しく神を礼拝するためには、具体的な場所が必要だと思っていた女性に言われました。神が霊であるというのは、父なる神は肉体を持っておられないという意味です。御子なる神は人間の肉体を取ってこの世に来られましたが(ヨハネ1:1、14)父なる神は肉体を持っておられません。 イエスはインマヌエル(神は私たちと共におられる)として独特なお方です。(マタイ1:23)民数記23:19は神が真実であることと、道徳的な人間との対照を強調しています。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。、、、」ある人たちは、聖書が神について述べ
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- 神は楽しみに反対しておられるのですか?
ある人たちは神を、楽しみにも面白いことにも反対する残酷な厳しい主人だと想像します。彼らにとって、神はすべてに真剣で、規則の神なのです。 しかし、これは神の正確な聖書的な姿ではありません。神は私たちが楽しみを体験できるように創造されました。聖書は数か所で、私たちの歓喜と楽しみについて述べています。(例えば、詩篇16;箴言15:13;17:22) 創造の美しさと人類の多様性は神の創造的な絵の具のパレットを私たちに示しています。 多くの人は屋外で時間を過ごしたり、また違った人物と関係を持つことに楽しみを見つけています。これは良いことで、正しいことなのです。神は被造物を楽しんでほしいと願っておられるのです。聖書の中で、神ご自身が物事に楽しみを見つけておられるのを見ることができます。例えば、ゼパニヤ3
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- 神は備えて下さるとはどういう意味?
私たちのために神が備えて下さる方法について述べる聖句が聖書には169節あります。ピリピ4:19はただ、「私の神はキリスト.イエスにある栄光の富をもって、あなた方の必要をすべて満たしてくださいます。」と言っています。 富を求める人たちはいつもお金や財産が奇跡的に届くことを探求していますが、私たちは神が備えたいと願っておられるのは何かもっと厳密に考えるべきです。人間の良い親がそうであるように、神は私たちに害になるとわかっているものは決してくださらないのです。私たちがよりキリストに似た者となり、世の塩、世の光となるのを助けるのが神の目的なのです。(マタイ5:13-14)神は、単なる物質的財産の天の源として、私たちに見てほしくないのです。物質的な富を得ることがこの世の根本的な目標ではありません。 (
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- 神の不変性とは何?
神の不変性(神の質が変化しないこと)は聖書を通して明白に教えてあります。例えば、マラキ書3:6は主であるわたしは変わることがない。」と確認しています。(民数記23:19;1サムエル15:29;イザヤ46:9-11;エゼキエル24:14も参考にする)ヤコブ1:17も神の不変性を教えて、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上からくるのであって、光を造られた父からくるのです。父には移り変わりや移り行く影はありません。」と言っています。「移り行く影」とは、太陽に関して私たちの見た上での眺望のことです。太陽が日食している、動いているように見える、それから影を投げかけるているなど。太陽は昇って、沈み、毎日、出たり、消えたりして;一つの回帰線から出て、年のある季節によって、別の回帰線に入ります
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- 神が光だというのはどういう意味ですか?
「神は光であって、、」と1ヨハネ1:5は言っています。光は聖書によく出てくる比喩です。 箴言4:18では、「あけぼのの光のようだ」と光は義を象徴していす。ピリピ2:15―16では、「非難されるところのない純真な」神の子供たちを空に輝く星のように,、「世の光として輝くため」として、比喩しています。イエスは光を良い行いの絵として、「あなた方の光を、人々の前で輝かせ、人々があなたの良い行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。」と言われました。(マタイ5:16)詩篇76:4は神のことを、「あなたは輝かしく」と言っています。神が光である事実は暗やみと自然な対照になります。もし、光が義と善の比喩なら、暗やみは悪と罪を表します。第1ヨハネ1:6は「もし私たちが、神と交わりがあると言
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......