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- 真の福音とは何?
真の福音とは、神が罪人を救ってくださるという良いニュースです。人間は生まれつき罪深い者で、神からかけ離れていてその状況を変える希望もない者です。しかし、神は救い主イエス.キリストの死と埋葬と復活で人間を救う方法を備えてくださいました。 “ 福音”ということばは、文字通り”良いニュース”という意味です。しかし、このニュースがどんなに良いか本当に理解するためには、まず悪いニュースを理解しなければなりません。エデンの園で人間が堕落した結果(創世記3:6)人間のすべての部分―心、意志、感情や肉体―が罪によって侵されてしまいました。人の罪深い性質のでせいで、神を求めることもできず、求めもしなくなりました。人は神の元に行きたいとは思わないのです。事実人間の心は神に対して敵意を持っているのです。(ローマ8
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- もし救いを疑うなら、本当に救われてないことになるのですか?
誰でも、時には救いを疑うことがあります。救いを疑うか疑わないかでクリスチャンであるかどうかが決まるわけではありません。信者が不真実な時でさえ、神は真実です。(第2テモテ2:13)神は私たちに救いを確信し、救いに自信を持って欲しいと願っておられます。 (ローマ8:38-39;1ヨハネ5:13)神はイエス.キリストを信じる者は皆救われると約束されています。(ヨハネ3:16;ローマ10:9-10)私たちはみな罪を犯し、神の栄光に達することができません。(ローマ3:23)その結果、私たちは死と永遠に神から離されるべきなのです。(ローマ6:23)しかし、神は私たちを愛し、私たちが当然受けるべき罰を代わりに受けて死んでくださいました。(ローマ5:8)その結果、信じる者は皆救われて永遠に安全なのです。時に
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- 一般的啓示だけでも人は救われますか?
一般的啓示は、次のように定義できます。「すべての人々に、いつの時代でもどこでも、神の存在と、神に知性があり、力ある超越したお方だということの啓示」明らかに、詩篇19:1-4、ローマ1:20などの聖書箇所は私たちの周りの被造物で 神についてのことは理解することができると言っています。被造物は神の力と威厳を現わします。けれども、キリストを通しての救いの計画は現わしません。イエスの御名以外の救いはありません。(使徒伝4:12)だから、一般的な啓示だけでは誰も救われません。たいてい、「一般的啓示だけで人は救われるか?」という質問は、もう一つそれに関係した質問、「福音を一度も聞いたことのない人が死んだらどうなるか?」と一緒に聞かれます。残念なことに、未だに世界には、聖書や、イエスキリストの福音の全く届
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- マルコ16:16は救いのためにバプテズマが必要だと教えているのですか?
他の聖書のある一節 、または一箇所の場合と同じように、まず聖書の他の箇所がその主題について教えていることを通して、このことを古いにかけてから、識別します。バプテズマと救いに関して、聖書は、救いは恵みのゆえにイエスキリストに置いた信仰によってであっていかなる行い(バプテズマを含む)にもよらないと明確に述べています(エペソ2:8-9)だから、バプテズマ、またはその他の行いが救いのために必要だという結論に行き着く解釈は、間違った解釈だということになります。詳しくはこのサイトの「救いは信仰のみ?、または信仰プラス行い?」という質問の答えを参考にしてください。マルコ16:16に関して、マルコ16章、9-20節には原文上の問題がいくつかあることを覚えておくことが大事です。これらの聖句がマルコの福音書の原
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- イエスはどうやってまた誰に私たちのために代価を支払ったのですか?
代価(身代金)とは、捕虜になっている人を解放するために支払われるものです。イエスは私たちを罪、死、地獄から解放するために代価を払ってくださいました。出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を通して、神のいけにえの要求が出てきます。旧約聖書時代には神はイスラエル人に身代わりの贖いとして動物のいけにえを捧げるように命令されました。動物の死がその人の死(罪の罰-ローマ6:23)の代わりになったのです。 出エジプト記29:36aには,「罪のための購いとして一頭の若い雄羊は朝捧げなければならない」とあります。神は聖さを要求されます。(第1ペテロ1:15-16)神の律法は聖さを要求します。私たちは、犯した罪のせいで、神に完全な聖さを差し上げることはできません。(ローマ3:23) だから、神はその律法を果すこ
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- ヨハネ3:5は救いのためにバプテズマが必要だと教えていますか?
他の一節、または一箇所と同じように、まず、この主題について他の聖書箇所が教えていることを通して、そのことをふるいにかけてから、識別します。バプテズマと救いに関する場合、聖書は、救いは恵みのゆえにイエス.キリストに置く信仰によるのみであって、いかなる行い(バプテズマを含む)によるものでもないとはっきり教えています。(エペソ2:8-9)それで、バプテズマ、または他のどのような行いでも救いには必要であるという結論に達する解釈は間違った解釈だということになります。詳しい情報は このサイトの「救いは信仰によるのみ?または信仰プラス行いですか?」という記事をお読みください。ヨハネ3:3-7で、「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはで
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- 福音メッセージの必須要素は何ですか?
”福音”ということばは、良いニュースという意味ですが、イエス.キリストの贖いの業を通しての罪の赦し のメッセージだと定義するのが最もいいでしょう。要するに、それは義であり聖である神と和解するために神の御子に信頼する人たちを救い出す神の計画なのです。この救いの本質的なないようは、私たちのために聖書にはっきり展示されています。使徒パウロの最初のコリント人への手紙の中で、パウロは福音メッセージの内容を展開しています。「兄弟たち、私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、またそれによって立っている福音です。またもしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救
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- いのちの書と子羊のいのちの書には違いがありますか?
新約聖書には“いのちの書”について8箇所出てきますが、そのうちの二箇所が子羊、イエスキリストに属する”子羊のいのちの書”と特定してあります。8箇所のうち7箇所が黙示録に出てきます。その名がいのちの書に記されている人は、神に属する者で永遠のいのちのある人です。 パウロは共に働いてくれた人たちのことを、その名が命の書に記されている人たち(ピリピ4:3)だと言っています。ここでもいのちの書を永遠の救いをもっている人たちの名前を記録した書だとしています。同じように黙示録3:5 には、主を信じる人たちの名前が載せてあるいのちの書のことが出てきます。 この人たちは地上での生活で試練に打ち勝って、その救いが本物であったことを証明した人たちです。この節(3:5)は、また一度その名前がいのちの書に記されたら、
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- 憐れみと恵みはどう違いますか?
憐れみと恵みはしばしば混同しています。この用語は同じような意味があるのですが、憐れみと恵みは同じではありません。その違いを要約すると:憐れみは私たちが罪のために当然受けるべき罰を神が与えないことで、私たちが受ける価値のないにもかかわらず 、神が祝福してくださることが恵みです。憐れみは裁きからの救いです。恵みは神が価しない者に親切な御手を差し伸べてくださることです。聖書によると、私たちはみな罪を犯しました(伝道者の書7:20;ローマ3:23;1ヨハネ1:8)罪の結果、私たちは当然死ぬべきなのです。(ローマ6:23) そして火の池で永遠の裁きを受けるべきなのです。(黙示録20:12-15)このことを頭に入れると、私たちが生きている毎日が神の憐れみの行いなのです。もし神が私たちが当然受けるべきもの
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- イエスが私たちの罪のために死なれたとはどういう意味?
簡単に言えば、私たちのためのイエスの十字架上での死がなかったら、誰一人として永遠のいのちがないことになります。イエスご自身が言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)この中で、イエスはご自分の誕生と死と復活の理由を宣言されました。―それは、自力では絶対に行くことのできない罪深い人間に天国へ行く道を備えるだめ でした。神がアダムとエバを創造された時、すべてにおいて彼らは完全でした。そして、実際のパラダイス、エデンの園に住んでいました。(創世記2:15)神は人をご自分の姿に似せて造られました。つまり、彼らは自由意志で自分で選択したり決断する自由を持っていたということです。 創世記3章は、
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- クリスチャンが救いを”戻す”ことができるのですか?
短い答えはいいえです。真のクリスチャンは救いを”戻す”ことはできません。不思議にも、クリスチャンが救いを”失う”ことは不可能だという人たちでも、救いを神に”戻す”こともできるとも 信じています。この意見の人たちは、ローマ8:38-39を読んで、私たちの外側の何物も神から引き離すことはできないが、私たちが自由意志で、神から離れることを選択することもできると主張します。これは聖書的でないだけでなく、論理を無視しています。 私たちがなぜ救いを”戻す”ことができないかを理解するために、三つのことを把握しなければなりません。:神の性質、人間の性質、救いそのものの性質です。神はその性質において救い主です。詩篇だけでも13回、神が人間の救い主だと言及しています。神だけが私たちの救い主です 。他の誰も私たち
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- 神は大きな罪を赦されますか?神は殺人者を赦されますか?
多くの人は、神が”小さな”罪、うそや怒り、不純な想いなどだけは赦されるが、殺人や姦淫などの”大きな”罪は赦されないと間違って思っています。これは本当ではありません。 神が赦されないほど大きい罪はありません。イエスが十字架で死なれたとき、全世界のすべての罪のための代価を支払ってくださったのです。(第1ヨハネ2:2)救いのためにイエス.キリストに信仰を置くとき、すべての罪は赦されます。これには過去、現在、未来の大きいのも小さいのも含まれます。イエスは私たちのすべての罪のための罰を受けて死なれました。一度赦された罪はすべて赦されていのです。(コロサイ1:14;使徒伝10:43)私たちはみな罪を犯したので(ローマ3:23)永遠の罰を受けるべきなのです。(ローマ6:23)イエスは私たちの罪の罰を受けて
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- 聖書は臨終の回心について何と言っていますか?
聖書で、最も有名な臨終/最後にキリストに回心する話はイエスの横で十字架にかかった強盗です。(ルカ24:39-43) この犯罪人は自分の死の寸前までキリストを信じないで、あざける者でした。(マタイ27:44)しかしながら、最後に悔い改めてイエスを天の王として認めたのでした。主は彼に祝福の約束をされました。「きょう、あなたは私と共にパラダイスにいる。」と。この十字架上の犯罪人の話は死ぬ寸前の回心が可能なことを現わしていますが、聖書は、一瞬も待つことなく、今すぐ悔い改めよと警告しています。バプテズマのヨハネは警告しています。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)イエスも、今すぐ悔い改めることの必要について全く同じメッセージをされています。(マタイ4:17)聖書はいのちの短さに
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- 救われていると感じなかったどうするの?
上の質問は多くのキリスト者が感じているものであり、多くの人々は救われていると感じないというで自らの救いを疑うのです。聖書には救いについて多く書いてありますが、「救いを感じる」事については何も書いてありません。救いとは罪人が神の罪の裁きである「御怒り」から解放される過程の事です(ローマ5:9; Iテサロニケ5:9)。特にイエスの十字架の死と復活を通して救いが成就されました(ローマ5:10; エペソ1:7)。救いの過程の一部は私たちが信仰によって救われるというものです。まず、私たちは福音-イエスの死と復活のよき知らせ-を聞き(エペソ1:13)、次にそれを信じる-イエスとイエスの犠牲の愛に信頼する事(ローマ1:16)-事で救われます。私たちは肉の行いによっては救いが成就しない事を知っています。この
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- 同じ罪を繰り返し犯し続けるなら神は赦してくれなくなる?
上の質問に答えるためには、次の二つの聖書箇所を読む必要があります。一つ目の箇所は詩篇103:12で、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」というものです。キリスト者たちに、神のみ言葉で示されているにもかかわらず、罪が赦されていないと思わせる事はサタンの得意技と言えます。私たちが本当に、信仰を持ってイエスを救い主として受け入れたにもかかわらず、本当に赦されているかどうかを疑問に感じ続けているならば悪霊の妨害を経験している可能性があります。悪魔や悪霊達は人々が自由を経験する事をひどく嫌い、救いについての真実への疑いの種を私たちの心に植え付けようとするのです。多くあるサタンの用いる作戦の一つは私たちに過去の罪を思い出させ、神は私たちを到底赦す事などできない
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- 使徒伝2:38は救いのためにはバプテズマが必要だと教えていますか?
使徒伝2:38、「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス.キリストの名によってバプテズマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。』」ある一節、または一箇所について考える時、まず聖書が他の箇所でその主題について教えていることを通して、それをふるいにかけて識別します。バプテズマと救いに関して、聖書は明確に恵みのゆえにイエス.キリストへの信仰を通してのみ救われる、バプテズマを含むいかなる行いによるのでもないと教えています。(エペソ2:8-9)それで、バプテズマ、または他の行いが救いのために必要だという結論に至る解釈は間違っているということになります。詳しくはこのサイトの”救いは信仰によってだけ?または信仰プラス行いによるのですか
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- いのちの書に書かれた名前が消されることは可能ですか?
黙示録22:19では、「また、この書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とあります。この節は普通、永遠の安全性に関する議論に関係しています。黙示録22:19は、人の名前が子羊のいのちの書に記された後、将来いつか消されることがあるという意味でしょうか?言い換えれば、クリスチャンが救いを失うことができるのでしょうか? まず第一に、真のクリスチャンは神の力で安全に保たれ、贖いの日まで封じられていると聖書は明らかに教えています。(エペソ4:30)そして父なる神が御子に与えられた者すべて を御子が誰ひとり失うことがないとあります。(ヨハネ6:39)主イエス.キリストは宣言されました。「 わたしは彼らに永遠のいのちを与
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- 第1ペテロ3:21は、救いのためにはバプテズマが必要だと教えていますか?
他のどの一節、または一箇所の場合と同じように、まず聖書のほかの箇所がその主題について教えていることを通して、このことをふるいにかけてから識別します。バプテズマと救いの場合、聖書は、救いは恵みのゆえにイエス.キリストに置く信仰のみであって、いかなる行い(バプテズマを含めて)によるものではないと 明確に教えています。(エペソ2:8-9)だから、バプテズマ、または他の行いが救いのために必要だという結論に達する解釈は間違った解釈です。詳しくは、このサイトにある「救いは信仰のみ?または信仰プラス行いですか?」をお読みください。救われるためにはバプテズマが必要だと信じる人たちは、第1ペテロ3:21をその証拠として用います。そこには「今あなたがたを救うバプテズマ」とあるからです。ペテロはバプテズマを受ける
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- 後戻り/堕落しているクリスチャンでも救われているのでしょうか?
この質問は何年もの間、絶え間なく議論されてきています。「後戻りする者」とか「後戻りしている」ということばは新約聖書には出てきませんが、旧約聖書ではおもにイスラエルについて使われています。ユダヤ人は、神の選民でありながら、神に背を向け続けて、神のことばに反抗していました。(エレミヤ8:9)だから、彼らは、自分たちが怒らせた神との関係を回復 するために、何度も罪のためのいけにえを捧げ続けることを強制されたのです。しかしながら、クリスチャンは、キリストの一度限りの完全ないけにえを活用したおかげで、罪のためのいけにえはもう必要でなくなったのです。神ご自身が私たちの救いを獲得してくださったのですから。(第2コリント5:21) 私たちは神によって救われたのですから、真のクリスチャンは、戻って来れなくなる
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- 悔い改めとは何ですか?救いに必要なものなのですか?
多くの人たちが悔い改めとは「罪に背を向けること」を意味することを知っています。これは悔い改めの聖書的な定義ではありません。聖書では、悔い改めることは「自分の心を変える」ことを意味します。聖書は、本当の悔い改めは行動の変化という結果にあらわれるとも言っています(ルカ3:8-14、使徒行伝3:19)。使徒行伝26:20には「・・・悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきたのです」と宣言しています。悔い改めの聖書的に完全な定義は、行動の変化につながる心の変化です。それでは、悔い改めと救いの関連性はどうなっているのでしょう?使徒行伝は、救いに関して悔い改めに特に焦点を当てているようです(使徒行伝2:38、3:19、11:18、17:30、20:21、26:20)。救
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......