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- キリストのよみがえりはなぜ大切なのですか?
イエスのよみがえりが大切であることには、いくつかの理由があります。第一に、神ご自身の計り知れない力を証しします。よみがえりを信じることは、神を信じることです。もし神が存在し、宇宙を創造され、宇宙を支配しておられるなら、神は死人をよみがえらせる力を持っておられます。もし神がそのような力を持っておられないのなら、信じ、礼拝するのに値する神ではありません。いのちを創造された神だけが、死んだあとにいのちをよみがえらせることができます。神だけが死そのものの恐ろしさを逆転させることができます。そして神だけが、とげである死と墓の勝利を取り除くことができます(Iコリント15;54-55)。イエスを墓からよみがえらせることで、神はご自分がいのちと死の上に絶対の主権を持っておられることを私たちにもう一度示される
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- キリスト教の贖いには、どういう意味がありますか?
すべての人は贖いを必要としています。 私たちの生来の状態は有罪なのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)とあるとおりです。キリストの贖いが私たちを罪から自由にし、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)贖いの恩恵には、永遠のいのち(黙示録5:9-10)、罪の赦し(エペソ1:7)、義(ローマ5:17)、律法の呪いからの解放(ガラテヤ3:13)、神の家族への養子縁組(ガラテヤ4:5)、罪の束縛からの解放(テトス2:14、Iペテロ1:14-18)、神との平和(小お菜1:18-20)、そして聖霊の内住(Iコリント6:19-20)が含まれています。贖われるとは、赦されること、聖くさ
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- キリスト教の和解とは何ですか?私たちはなぜ神と和解する必要があるのですか?
けんかか、口論をしたふたりの友人を想像してみて下さい。ふたりが楽しんでいたよい人間関係は、はりつめて切れんばかりになっています。ふたりは、話しもしなくなりました。コミュニケーションはあまりにもぎこちないものと思えます。友人たちは、だんだんに他人になって行きます。このような疎遠は、和解がなくてもとには戻りません。和解することは、友情関係や調和の中に回復することです。古い友人たちが自分たちの違いを解決し友情を回復するとき、和解が成立します。SIIコリント5:18-19はこう宣言します。「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の
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- 義認とは何ですか?
簡単に言えば、義とされるとは、正しいと宣言されること、神と正しい関係を持つことです。義認とは、キリストを受け入れた人々が正しいとされる神の宣言です。それは、キリストを受け入れた人々に与えられたキリストの正しさに基づいているのです(IIコリント5:21)。原則としての義認は聖書のいたるところに書かれてありますが、義認を信者との関係で説明している主要な箇所はローマ3:21-26です。「しかし、神は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖
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- 救いにはバプテスマが不可欠ですか?バプテスマの再生とは何ですか?
バプテスマの再生とは、救われるためにはバプテスマを受けなければならないという信条のことです。私たちは、クリスチャンの従順のためにバプテスマが大切な一歩であることは主張しますが、バプテスマが救いのための必須条件であるということは断固として否定します。私たちは、ひとりひとりのクリスチャンが全浸礼でバプテスマを受けるべきであると信じています。バプテスマは、信者がキリストの死、葬り、よみがえりとに同化することを示しています。ローマ6:3-4は宣言しています。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリ
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- クリスチャンは、罪の赦しを乞い続けなければならないのですか?
「もし、私が罪を犯して、神にその罪を告白するチャンスがなくて死んでしまったらどうなるのですか?」というのはよくある質問です。もうひとつ一般的なのは、「もし、わたしが罪を犯して、そのことを忘れてしまって神に告白しなかったらどうなるのですか?」という質問です。どちらの質問も、間違った仮定に基づいています。救いは、信者が犯したひとつひとつの罪を死ぬ前にすべて告白して悔い改めるように努力することにかかっているのではありません。救いは、クリスチャンがひとつひとつの罪を告白して悔い改めることに基づいているのでもありません。確かに、私たちは自分が罪を犯したことに気づいたなら、できるだけ早く自分の罪を神に告白しなければなりません。しかしながら、私たちはいつも神に赦しを乞うている必要はありません。 わたしたち
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- もし、私たちの救いが永遠に確かなものであるのなら、なぜ聖書はあんなに強く背教に対して警告しているのですか?
聖書があんなに強く背教に対して警告している理由は、本当の悔い改めは目に見える結実によって量られるからです。バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けているとき、自分は義人だと思っている人たちに「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(マタイ3:8)と警告しました。イエスは山上の垂訓を聞いている人々に、実によって木を見分けることができると語られれています(マタイ7:16)。そして、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれると警告されました(マタイ7:19)。これらの警告の裏には、ある人々が「お手軽な信仰」と呼ぶものに対抗する目的があります。言い換えれば、イエスに従うことは自分はクリスチャンだと言う以上のものだということです。だれでもキリストは救い主だと言うことはできますが、本
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- 神はなぜ、旧約聖書で動物のいけにえを義務付けられたのですか?
神は、罪の一時的な赦しを提供し、イエス・キリストの完全で完璧な犠牲を予表するために、動物のいけにえを義務付けられました(レビ記4:35、5:10)。動物のいけにえは聖書全体を通じて見ることのできる大切なテーマです。なぜなら、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです(へブル9:22)。アダムとエバが罪を犯したとき、神は彼らに着るものを用意するために動物を殺されました(創世記3:21)。カインとアベルが主にささげものを持ってきました。カインのささげものは、地の作物だったので受け入れられませんでしたが、アベルのささげものは、「彼の羊の初子」であったので受け入れられました(創世記4:4-5)。洪水がひいたあと、ノアは動物のいけにえを神にささげました(創世記8:20-21)。神はイスラエ
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- 赤ん坊や小さな子どもたちが死んだらどうなるのですか?聖書のどの箇所で責任をとるべき年齢があると言っていますか?
責任をとるべき年齢についてのディスカッションの中で、往々にして忘れられているのはどんなに小さくても、子どもたちは罪がないという意味で「無邪気」なのではないという事実です。聖書は、たとえ新生児や子どもが個人的な罪を犯していなくても、新生児や子どもたちを含むすべての人は、遺伝した罪によって神の前に有罪であると言っています。遺伝した罪というのは、私たちの両親から受け継いだものです。詩篇51篇でダビデは、「ああ、私は咎あるものとして生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」と書いています。ダビデは、受胎の時点ですでに自分が罪人であったと認めています。肉体的・霊的な死はアダムの原罪の結果ですから、ときとして新生児が死ぬという悲しい事実によって、新生児であってもアダムの罪の影響を免れることができない
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- 永遠の安全(保障)とは、罪の免許証ですか?
永遠の保障という教理に対して、最もよく聞かれる反論は、クリスチャンは好き放題の生き方をしても救われているという考えを勧めることになるということです。この考えは、”厳密には” 真実ではありますが、 永遠の保障の”本質”ではありません。イエス.キリストを救い主として”本当に“ 信じ受け入れた人 が罪ある人生を歩むこともできますが、その人はそういうことはしません。 クリスチャンがどう生きるべきかということと、救いを受けるために人は何をしなくてはならないかということの区別を、ここではっきりしなくてはなりません。 聖書は、救いは恵みによるのみ、キリストイエスに置く信仰によるのみであると、いたるところで、明確に言っています。(ヨハネ3章16節;エペソ2章8-9節;ヨハネ14章6節)人は信仰によって、信仰
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- 神の主権と人間の自由意志は、救いに関してどのように関係していますか?
聖書は、だれが救われるか、神は知っておられると明らかに言っています。(ローマ8章29節;第1ペテロ1章2節)エペソ1章4節では、神が「世界の基の置かれる前から」わたし達を選ばれたと言っています。聖書は、何度も信者達を「選ばれた者( chosen) 」と呼んでいます。(ローマ8章33節;11章5節;エペソ1章11節;コロサイ3章12節;第1テサロニケ1章4節;第1ペテロ1章2節;2章9節)他でも、「選びの者( elect)」と呼んでいます。(マタイ24章22、31節;マルコ13章20、27節;ローマ11章7節;第1テモテ5章21節;第2テモテ2章10節;テトス 1章1節;第1ペテロ1章1節)信者が救われるようにあらかじめ定められ、(ローマ8章29-30節;エペソ1章5、11節)救いに選ばれてい
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- イエスのことを聞くチャンスがなかった人達はどうなるのでしょうか?イエスのことを一度も聞かなかった人を、神は罪に定められるのですか?
神のことを聞いたことがあるかなしかにかかわらず、すべての人は神の前で申し開きをする責任があります。聖書は、神が明らかにご自分を自然の中(ローマ1章20節)と人の心の中に(伝道者の書3章11節)現しておられると言っています。問題は、人間が罪深いということです。すれで、人はみな、神についての知識を拒み、神に反抗するのです。(ローマ1章21-23節)神の恵みがなければ、わたし達は罪深い心の欲望のままに汚れに引き渡されるのです。そうして、神は、神なしの人生がいかに無益で惨めな人生かということを自分で発見するようにしてくださるのです。神を拒否する人たちのために神はそうされるのです。(ローマ1章24-34節) 現実は、神のことを聞いたことがない人たちがいるというのではなく、どちらかというと、神について聞
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- イエスが罪のために死なれる前、人はどうやって救われたのですか?
人間が堕落して以来、救いの基礎はいつもキリストの死でした。十字架以前にしろ、十字架以後にせよ、歴史上であの中枢となる事件なしには、だれ一人として救われないのです。 キリストの死によって、過去の旧約聖書の聖徒たちの罪と、それから後の新約聖書の聖徒たちの罪の罰が支払われたのです。救いの条件はいつも信仰でした。救われるための信仰の対象は、いつの時にも神でした。 詩篇の著者はこう書きました。「 幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩篇2編12節) 創世記 15章6節では、アブラハムが神を信じ、神にとってはそれでアブラハムを義とみなすのに十分であったと言っています。(ローマ書4章3-8節をも見てください。) 旧約時代のいけにえ制度では罪を取り除くことはできませんでした。へブル書9章1節―10章
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- 身代わりの償いとは何でしょうか?
「身代わりの償い」とは、イエス?キリストが全ての罪人に代わって死んだという事実を指しています。聖書は、すべての人間は罪人であると言ってます(ローマ人への手紙3:9−18、3:23を読んでください)。私たちの罪に対する刑罰は、死です。ローマ人への手紙6:23はこう言っています。「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト?イエスにある永遠のいのちです。」このみ言葉は、いくつかのことを私たちに教えています。まず第一に、私たち全ての人間は、罪人であるために、死んで永遠の時を地獄で過ごすのに値するという事です。聖書の言う「死」とは、神から切り離された状態のことです。もちろん、人間はみな死にますが、ある人たちは、死んでから天国へ行き、主とともに永遠の時を過ごします。しかし、
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- どうしたら、自分の救いの確証がもてるのでしょうか?
どうしたら、あなたが本当に救われたということを知る事ができるのでしょうか。ヨハネの手紙第一 5:11−13を見てください。「そのあかしとは、神が私たちに永遠の命を与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。御子を持つものは命を持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」それでは、だれが御子を持っているのでしょうか。御子を信じて受け入れた人々です(ヨハネの福音書1:12)。もしあなたがイエス様を信じて受け入れたのなら、あなたは命を持っているのです。それは一時的なものではなく、まさしく永遠の命です。神様は私
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- クリスチャンが救いを失うことはありえますか?
この質問に答える前に、「クリスチャン」という言い方を定義しなければなりません。「クリスチャン」とは、祈ったことのある人のことでも、教会で結婚式をあげた人のことでも、クリスチャン・ホームで育った人のことでもありません。これらのことは、クリスチャンの経験の一部ではありえますが、これらのことがクリスチャンを「作る」のではありません。クリスチャンとは、信仰によってイエス・キリストが唯一の救い主であると受け入れ、イエス・キリストに完全に信頼した人のことです(ヨハネ3:16、使徒行伝16:31、エペソ2:8-9)。それでは、この定義を念頭において、クリスチャンが救いを失うことはありえるでしょうか?おそらく、この大変に大切な質問に答えるのに最善の方法は、聖書が救いのときに何が起こると言っているかを調べ、救
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- 救いとは何ですか?キリスト教の教理では救いとはどんなものですか?
救いとは、危険や苦しみからの解放です。救うことは、解放すること、または守ることです。このことばは、勝利、健康、また保護という考えをともないます。聖書は、ときには救うとか救いということばを、一時的な肉体的解放の意味にも使っています。パウロが牢獄から解放されたときなどはその例です(ピリピ1:19)。しかし、それにまさって「救い」ということばは、永遠の霊的解放に関係があります。ピリピの牢獄の看守に救われるにはどうしたらよいかを語るとき、パウロは看守の永遠の運命について触れました(使徒行伝16:30-31)。イエスは、救われることと神の国に入ることを同一視しておられます(マタイ19:24-25)。私たちは何から救われるのでしょう? キリスト教の救いの教理によれば、私たちは「怒り」すなわち罪に対する神
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- 聖霊の力とは何?
聖霊の力とは神の力です。三位一体の三番目の位格、聖霊は聖書を通して、聖霊によって力ある偉大なわざが現れるお方として現れておられます。その力は初めに創造のわざに見ることができます。なぜなら、世界は聖霊の力によって造られました。(創世記1:1-2;ヨブ記26:13) 聖霊は、旧約聖書では神のみこころがなされるためにある人たちに力を与えてくださいました。 「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(サムエル16:13;出エジプト記31:2-5;民数記27:18も参考) 旧約聖書では神の民に聖霊が永久に宿ることはなかったのですが、聖霊は彼らを通して働かれ、彼ら自身だけではできなかったことを成し遂げることができる力を与えられました。サム
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- 聖霊の現れと神の遍在との違いは何ですか?
神の遍在は、一度にどこにでもおられるという神の性質です。私たちが神の臨在を意識しない時でも神はおられます。神の現れは、もちろん神が明白に現れたときです。-つまり神が私たちと共におられるとはっきりと認識できる事実です。神の遍在は三位一体のそれぞれの位格、父(イザヤ書66:1)、子(ヨハネ1:48)、 聖霊(詩篇139:7-8)に当てはまります。神が遍在されるという事実は、私たちの方で特別な経験をするという結果になるかもしれないし、ならないかもしれません。しかしながら、神の明白な現れは、神が明らかに間違いなく私たちとの相互作用をされる結果です。それは私たちが神を体験するときです。聖書は、三位一体の神の三人の位格がそれぞれ、ある人たちの生活にご自分を現わされたことを記録しています。出エジプト記3章
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- 聖霊が内在されるとは何のこと?
聖霊が内在されるとは、神が永遠にイエス.キリストを信じる者の体の中に宿ってくださるということです。旧約聖書では、奉仕のための力を与えるために信者の上に降りてこられたり、また出て行ったりされましたが、必ずしもずっととどまることはされませんでした。 In (士師記15:14;1歴代誌12:18;詩篇51:11;エゼキエル11:5を参考) イエスは弟子たちに真理の御霊が彼らの生活にされる新しい役割を明らかにされました。「その方はあなた方とともに住み、あなた方のうちにおられる」(ヨハネ14:17) 使徒パウロは、「あなた方のからだは、あなた方のうちに住まれる、神から受けて聖霊の宮であり、あなた方はもはや、自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなた方は代価を払って買い取られたのです。ですか
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......