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あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 外洋を航行する大型貨物船は、浸水した場合を想定して、船倉がいくつもの部屋に区切られている。船長は、ボタンひとつで、各小部屋の鉄の扉を閉めることができる。それによって、浸水が広がることを防ぐためである。 人生という航海においても、過ちと失敗に満ちた過去という部屋の扉を閉めることを学ぶ必要がある。また、まだ来ていない明日という日に対しても、扉を閉める必要がある。それによって、今日という日を、全力で生きることができるようになる。 日々の生活の中で、過去という部屋の扉も、未来という部屋の扉も、ともに閉めることを学ぼう。K.N. (月刊デボーションガイドClay【クレイ】2012年7月号より)

キリストは、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。

イエスは、紀元30年にエルサレムで十字架刑に処されました。罪名は「ローマ帝国に対する反逆罪」です。初めて聖書を読んだときの私の疑問、「処刑された人の死が、なぜ私たちの罪のために自身を捨てたと言えるのか。まして、十字架に手足を釘づけにされるなんて、キリスト教は何とも血なまぐさい宗教だなあ」。しかし、クリスチャンの人たちにはそんな野蛮な気配はないし、むしろ、こんなに穏やかで平安な人生があるのだ、と驚きでした。この不思議なギャップが私を信仰探求へと向かわせたのかもしれません。イエスの死が単なる刑死ではなく、「ご自身を捨てた」と言えるのか、次の4点を見たいと思います。①ローマ法に照らして無罪、②モーセの律法に照らして無罪、③逮捕処刑を避ける力はあったのにそれをしなかった、そして、④通常の死に方ではな

ユダヤ人、ヘブル人(ヘブライ人)、イスラエル人はどう違うのですか?

基本的には同じ意味で用いられています。新約聖書の中でもパウロは状況に合わせてこの3つの言葉を使い分けています。(ピリピ3:5〜6、ローマ11:1、使徒21:39参照)英語でイスラエル人(Israeli)というと、現在のイスラエル人国家の市民を指しています。「イスラエル」とは、神がイスラエル民族の祖先であるヤコブに与えた名です。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」(創世記32:28)。「イスラ(サラ)」には「戦う、支配する」という意味があり、また「エル」には「神」という意味があり、「神が戦う」という意味になります。聖書的にはイスラエル人(Israelite)とはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫のことです。アブラハムの子孫というだけ

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

「よみがえり」「いのち」「死んでも生きる」「決して死ぬことがない」など、さっと読んだだけでは意味がよく分からないけれども、惹きつけられる言葉だと思いませんか?これは、おそらく、私にとって初めて目にした聖書の言葉だったと思います。小学生の頃、はがき大のカードが郵便受けに入っているのを見つけました。それには、2匹のひよこの写真とともに、この言葉が書かれていました。「聖書」とは書かれていなかったので、それが聖書の言葉とは知らなかったのですが、何か不思議な言葉だと思って、高校生ぐらいまで、そのカードを大切に持っていた記憶があります。大学2年生の時、聖書を読むようになり、ヨハネの福音書を読んでいて、この言葉に再会しました。ああ、これは聖書の言葉だったのかと気づいた時、もしかしたら神が私を信仰へと導くた

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

この手紙は、パウロが獄中にいたときに書かれたものです。それだけに、この言葉には重みがあります。

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

ソフィア・カバレッティ著『子どもの宗教的能力』という本があります。その中で著者は、無神論者の家庭で育っていた3歳の女の子の話を書いています。その家庭では、神が話題に上ることはありませんでした。ある日その少女が、世界の起源について父親に質問をしました。「お父さん、世界はどこから来たの?」父は、無神論的確信に基づいて、物質主義的な答えを返しました。そして最後に、こう付け加えたのです。「でもね、すべてのものはとても力のある存在、神と呼ばれる存在によって創造されたと考える人たちもいるのだよ」それを聞いて、その少女は部屋の中をつむじ風のように飛び回り、喜びに満ちてこう叫んだといいます。「お父さんの言ったことは本当じゃないとわかってたわ。その人よ、その人が造ったのよ」Sofia Cavalletti,

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

新約聖書の冒頭は、このことばで始まります。このあと延々と人の名前が続くので、初めて聖書を読む人は、まず、ここでうんざり。でも、アブラハムもダビデも、旧約聖書のキーパーソンです。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

聖書は、自分の心にあるものを映し出す鏡です。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

キリストを信じる者は、一人ぼっちになることはありません。いつもそばにいてくださる方がいるからです。

あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

これは私が、福音を信じた直後に「神様、仰せの通りです」と何度も読み返した聖句です。福音に触れる前は自分はそれほど悪い人間ではない、いろいろな罪は犯していてもむしろ良い部類に入るのではないか、などと勝手に思い込んでいました。それは、自分のうちに原罪と呼ばれる罪の本質があることを認めたくなかったからです。しかし、聖書を読み進み、唯一の創造主である神を認めて、自身を見つめてみると、このエペソ書2章に書かれている通り、私自身こそ「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う」罪そのものの人間であったことを認めざるを得ませんでした。私こそ、父なる神の御怒りに触れ、このままでは滅びの死に向かっても仕方なかった人間でした。しかし、神は、そのような罪の本質を持った者に、一方的な恵みとあわれみをかけてくださ

神は人をご自身のかたちとして創造された。

ある新聞で、オーダーメードのフィギュアがヒットしているという記事を読みました。オーダーメードがヒットしている理由は、それが「世界で一つだけ」のフィギュアになるからだそうです。結婚を記念して、タキシードとウエディングドレスを着た自分たちのフィギュアを作るカップルもいるそうです。ちなみに、価格のほうは、体長8.5センチの3頭身2体で、計2万3000円程度とのこと。この価格、高い? それとも安い?私たち1人1人は、神さまによるオーダーメードの作品です。(情報源:朝日新聞2010/02/08)

それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

リーダーシップ能力に長けている人は、カリスマも持ち合わせていることが多いです。この「カリスマ」という言葉は、ギリシア語で「聖霊の賜物」、つまり神様からのプレゼントという意味で、つまり恵みにあるがゆえに、大切なことは人間だけの努力だけで得られるものではないと言うことです。聖書には、信仰と恵みによって人に与えられた19種類のカリスマ(賜物)について書かれています。例えば、預言、指導、勧め、奉仕、慈善など。多くの人々は、それが何であるか気がつかないで生きているのですが、日々のデボーションを通じて、未発見の賜物を見つける努力をしませんか。そして、ご自分の賜物を発見されたなら、それを愛の動機で用いることで、その性質はさらに伸ばされるのです。カリスマを自分の力で得たと思う人は、やがて傲慢な者へと変化させ

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

神の愛を信じるなら、思い煩いをすべて神にゆだねることができます。その人は、神の恵みによって生きるようになります。

わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。

これは、「まことのぶどうの木のたとえ」(ヨハネ15:1〜8)の一節です。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」ということばで始まる有名なたとえです。イエスはよく、民衆の生活や農耕作業を題材にたとえ話をしました。ここでは、イエスはぶどうの木、信者はその枝、父なる神は農夫というわかりやすい設定です。さらっと読むと、のどかなブドウ園の風景を思い浮かべるのですが、ちょっと待てよ、私は実を結ぶような自信はないし、と少し不安になります。6節に読み進むと、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」とあります。こうなると、自分にはクリスチャンになっても信仰生活を続けていける確信はない

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

これは、使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の一節です。コリントの教会は、パウロが大変な苦労をしながら伝道旅行をし、その中で生まれた教会のひとつでした。パウロがコリントの人々に最も大切なこととして伝えたのは、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリント15:3〜4)でした。キリストの死と葬りと復活の3つを信じること、これが福音の三要素です。ところが、コリントの教会の中に、「死者の復活はない」と主張する人々が出てきました。パウロはこの手紙の15:12〜19で、復活否定論に反論しています。その論点を要約するなら、次の2点です。ひとつは、キリストの復活を信じることは、信仰の実質です。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

あなたは、絶望的な状況に陥った時、どのようにしてそこから脱出しますか。 ある時、海軍で潜水夫をしていた人の話を聞いたことがあります。彼は、海底深く潜水した時のことを話してくれました。そこは深くて暗く、五感をなくしてしまうような場所だったそうです。なんと恐ろしい所でしょうか。深い海の中にいて、自分の指先さえ見えなくなるのです。どこが上なのかもわからなくなります。そこで私は、こう尋ねました。「そういう場合、どのようにして海面に浮かび上がるのですか」「泡を感じるのだよ」「えっ、泡ですか」「そうだよ。海の中で方向感覚をなくした時は、指先で泡を感じるのだ。泡の上がって行く方向が、海面なのだ。泡について行けば上に出られる」 日々の生活において、私たちも方向感覚をなくすことがあります。そのような時、神のみ

あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

これは、「アブラハム*の召命」と呼ばれる箇所です。このように神の声を聞いてそれに即座に応答し、父の家を出ていく人はすごいと感心したり、自分にはこんなことはないと距離を感じたりします。しかし、創世記の前後の記事を読むと、事情は少し違うようです。*アブラムとはアブラハムの最初の名前です。

神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

この箇所は、イエスが復活し、昇天したあとに、使徒ペテロがイスラエルの人々に語ったことばです。この中には、旧約聖書のキリスト預言との関係では、ポイントが3つあります。

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。 「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。 『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」これが、クリスチャンが抱く希望です。

私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。

旧約聖書の英雄ダビデも、ひとり悩む時がありました。

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He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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