(1)ゲッセマネでのイエスの祈り(2)刑柱上のみ子は苦しみの杭の上でさんざんに嘲られたがイエスはイスラエル人の罪の許しを神に祈られた(3)イエスが刑柱上にあった時臨んだ三時間の闇の意味するもの(4)聖なる所の垂れ幕が引き裂かれるという異兆の意味すること(5)比ゆ的な地震が意味する事柄 今年、2020年4月7日(火)は、年に一度のイエスの死の記念式です。その日が近づく今、エホバ神がご自分のみ子を犠牲にするにあたって感じられた怒りと苦しみを振り返るのはふさわしいことです。
イエスが刑中の上で苦しみの死を遂げられた時にエホバ神はどのように感じられましたか
まず、イエスの最後の日に起きた出来事は、確かに父エホバ神とみ子イエスが異なる方であることが分かります。そして、その時、エホバ神とイエスは異なる人格的な存在として、異なる感情を表明されました。 ルカ22章と23章に注目してイエス・キリストとエホバ神が贖いの犠牲を備えるにあたってどのような感情的な犠牲を払われたかを考えましょう。こうしたことを考慮することによって、キリストの贖いの犠牲を備えてくださった、エホバ神に対する感謝を深めることができます。(1)ゲッセマネでのイエスの祈り ルカ22章からは、贖いの犠牲を備えるにあたっての、イエスの苦悩が分かります。イエスが処刑される前の晩に、ゲッセマネの園で、前途に迫った苦しみの杭の上での死に至る非常な痛みと苦しみの試練を考えて、神に祈られたことが記されています。(マルコ14:32-36) イエスは、この時に、血のように汗が地面に滴り落ちたと書かれています。(ルカ22:44)
実際にあまりのストレスと苦悩のために、血のような汗を流す、血汗症という病気があるそうです。イエスは一時的にそのような症状が出たのかもしれません。 イエスは、ゲッセマネの園で、このように祈られました。「父よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯をわたしから取り除いてください。しかしやはり,わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」。(ルカ22:42) ですから、この時点で、エホバ神のご意志とイエスの望みとは少し異なっていたことが分かります。「わたし(イエス)の意志」と「あなた(エホバ)のご意志」が異なっていたことが分かります。
イエスはご自分に対してではなく天のみ父エホバ神に願いを述べられました
では、ここでエホバ神にご意志であれば、取り除いていただきたいと願われた「この杯」とは何でしょうか。 イエスは、その時、人類の救いのために贖いの死を遂げなければならないことをご存知でした。イエスは聖書全体を読んで理解しておられましたし、天でエホバ神から説明も受けていました。(ヨハネ15:15) イエスは人類のための贖いの犠牲となることを拒否されたのではありませんでした。(マタイ20:28)イエスは、「友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」と言われて、ご自分の追随者たちの救いのためにご自分の命を捨てようとしておられました。(ヨハネ15:13) しかし、イエスは、「わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが終わるまで,わたしはどんなにか苦しむことでしょう。」と言われたことがありました。(ルカ12:50)それで、イエスは、贖いの犠牲を備えるために非常に苦しまなければならないことも認識しておられました。 イエスは、天で幾十億年も前に、宇宙が存在する前からみ父によって全創造物の最初に「初子」として創造されました。(コロサイ1:15)そして、み父と長い期間、共に過ごされ、エホバ神が創造の業をする際に、そのもとで働かれました。エホバ神とみ子の間には、強い愛情がありました。(箴言8:30。ヨハネ17:24) エホバ神は優しい方だったので、その期間、ご自分に忠実なみ子に不当な苦しみを味あわせることはありませんでした。イエスは天でいつも、喜びや楽しみを経験され、苦しまれたり、辱められたりするような経験をされたことはありませんでした。 ですから、宗教指導者たちから、鞭うたれ、侮辱され、苦しみの杭の上で、くぎを打ちこまれ、極度の痛みと苦しみを経験されることは、イエスにとっても初めての経験であり、決して容易に耐えられるようなことではありませんでした。(ルカ18:32,33。マタイ26:37,38)
そして、イエスは苦しみを受けることを受け入れておられてそのことを何度も予告されていました。(ルカ9:22)それで、イエスを悩ませられたのは、ご自分の死に方だったと考えられます。 一般に人は、「神の栄光よりも人の栄光を愛」する人が多いかもしれません。(ヨハネ12:43)しかし、イエスは、ひたすら神に栄光がもたらされるようにと願っておられました。(ヨハネ7:18) しかし、宗教指導者たちは、イエスを殺そうとする理由として次のように言いました。「りっぱな業のためではなく,冒とくのために,つまり,あなたが人間でありながら自分を神とするからこそ,わたしたちは石打ちにするのだ」。(ヨハネ10:33) でも、イエスは、ご自分の事を神とは主張されませんでした。イエスは反対者に答えて、「あなた方は,父が神聖なものとして世に派遣されたわたしが,自分は神の子だと言ったからといって,『神を冒とくしている』とわたしに言うのですか。」と言われていました。(ヨハネ10:36) ですから、イエスが取り除いてくださいと願われた「この杯」は、神の栄光を第一に求めてきたご自分が、神であると主張する冒とく者として死ぬことだったと考えられます。 それで、イエスは人類の罪のための贖いとして死ぬこと自体は、受け入れておられましたが、非常に重大な罪とみなされている冒とくの罪で処刑されることは、イエスにとっては、非常に大きなストレスであったと考えられます。 それで、イエスは、み父にとってはどんなことであっても、不可能なことはない、つまり、事態がどんな展開になっても、エホバ神の目的は必ず、成し遂げられるという信仰をみ父に対して抱いておられたので、ご意志であるなら、この事態を変えていただきたいと祈られました。(マタイ19:26) エホバ神は、この時、イエスが不従順の罪を犯したとはみなされませんでした。園のイエスにみ使いを遣わしてイエスを強められました。(ルカ22:43) しかし、イエスは、苦しみの杯を飲むことは喜ばしいこととは思いませんでしたが、ご自分の願いではなく、み父エホバのご意志が行われるようにと祈られました。 たとえ、ご自分が苦しむことになってもみ父に従順に従うことが最善の結果をもたらすという確信を抱いておられたからです。(ヘブライ5:8。ヨハネ14:28) イエスは、エホバ神に対してなんと強い信頼と、崇敬の気持ちを持つておられたことでしょう。 ですから、確かにみ子はみ父を崇拝し、全幅の信頼を寄せておられ、完全に従順でありたいと願っておられたことが分かります。 イエスは、ご自分が苦しんで死ぬことになっても、必ずみ父は三日目にご自分を復活させてくださるという全幅の信頼を持っておられました。(ルカ9:22) そのみ子のみ父に対する確信は、ご自身がヤイロの娘や、友人ラザロなど幾人かの人々を復活させた時に強められたことでしょう。(ルカ8:50-55。ヨハネ11:441-44) そして、イエスは、当然、ご自分よりもみ父を愛しておられました。み父を「心をこめ,魂をこめ」て愛しておられました。(ルカ10:27)み父がご自分よりも偉大な方であると考えておられました。(ヨハネ14:28)神のご意志は、ご自分の考えが行われるよりも勝れた最善の結果をもたらすという確信を抱いておられました。 それで、自分にとって苦しいことでも、ご自分はみ父のご意志に従って、み父のご意志が優先されて成し遂げられることを望まれました。そして、ご自分がそのような仕方で死ぬことになっても、エホバ神の目的と人類の救いが達成されると確信しておられました。 こうしたことから、エホバ神とみ子イエスは人格とお考えが異なる二者であることが分かります。イエスは、み父エホバに従属する方です。イエスが父なる神と同じ神なのではありません。 そして、人類のためにみ子が苦しみの死を遂げて贖いの犠牲を捧げるということは、基本、み父エホバ神のお考えであることが分かります。そして、み子はみ父に従順に従ったということが分かります。(ヨハネ3:16,17)(2)刑柱上のみ子は苦しみの杭の上でさんざんに嘲られたがイエスはイスラエル人の罪の許しを神に祈られた ルカ23章によると、み父とみ子がやはり、幾らか異なる感情を抱かれたことが分かります。そこでは、イエスが刑柱にかけられた時、周りにいた支配者たちや兵士たちから愚弄されたことが記録されています。イエスがキリストならば、自分を救ってみろと言われました。(ルカ23:35,37)
エホバ神の指示のもとに備えられたキリストの贖いの犠牲はイスラエル人から評価されず刑柱上のイエスはののしられた
でも、イエスは、人類のためにご自分の体を贖いとして差し出そうとしておられました。エホバ神は苦しみの杭で処刑されることにより、イエスの体で贖いを備え、人類に永遠の命の救いの土台を据えることを意図しておられました。(ヨハネ3:16) ですから、イエスは苦しみの杭の上での死という状況から逃れようとはされませんでした。(マタイ26:53,54) そして、イエスご自身は、自分を処刑しようとする者たちに関してみ父にこう祈られました。「父よ、彼らをお許しください。自分たちが何をしているのかを知らないのですから。」(ルカ23:34)イエスはユダヤ人の無知を考えて、ユダヤ人に非常に同情的でした。
イエスはエホバ神にご自分を処刑しようとする者たちの罪の許しをお願いした
(3)イエスが刑柱上にあった時臨んだ三時間の闇の意味するもの ところが、第六時ごろから第九時ごろまで、闇が全地に垂れこみました。(ルカ23:44) 西暦1世紀当時のユダヤ人は,日中を日の出で始まる12時間とする時の数え方を用いました。ですから、異常な闇が続いたのは、真昼の12時ごろから午後3時ごろです。(ヨハネ11:9)
イエスが刑柱にかけられた正午から午後三時ごろまで全地が闇に閉ざされたー三時間の闇はエホバ神の怒りの表明
さらに、イエスが息を引き取られた時に、聖なる所の至聖所と聖所の区切りの垂れ幕が上から下まで切り裂けました。さらに、地震が起き、岩塊が割れました。(マタイ27:45,51) これらの現象は、エホバ神が引き起こしたもので、この闇も、エホバ神が生じさせたものです。エホバ神は、ご自分の怒りを表明されました。(エレミヤ13:16。マタイ22:13) エホバ神は昔エジプトに三日間闇を送って、エジプトに対するご自分の不興を表されたことがありました。(出エジプト10:21,22)
また、闇は、人々の業が邪悪であり、「光」であるみ子を憎んで殺害した人々に対して、エホバ神が怒りと憤りを抱いておられ、いずれ裁かれることを示しています。(ヨハネ3:19,20) また、「光」であるみ子の処刑は、イスラエル人に神からの導きとなる「光」がなくなって霊的な闇になったことも示していたと思います。(ヨハネ8:12)(4)聖なる所の垂れ幕が引き裂かれるという異兆の意味すること イエスが刑柱にかけられた時には、聖なる所の垂れ幕が上から下まで引き裂かれました。 聖なる所の垂れ幕が引き裂かれるということも、エホバ神が、怒りのゆえに、モーセの律法契約をまもなく、廃棄されることを示していました。伝道の書には、「引き裂く」ことと「捨てる」ことに近い意味があることが示唆されています。(伝道の書3:6,7) また、詩編によると、エホバ神が神を忘れる者たちを「引き裂く」とは、神が彼らを無残な仕方で滅ぼすことを意味しています。(詩編50:22)
実際、エホバの神殿のあったエルサレムは、エホバ神に捨てられ、西暦70年には、ローマ軍がやってきて、エルサレムを火で焼き、百十万人のユダヤ人が無残な仕方でローマ軍によって殺されました。(5)比ゆ的な地震が意味する事柄 イエスが息を引き取られた時に、地震が起き、岩塊が割れました。(マタイ27:45,51)この異兆は何を意味しているのでしょうか。 昔、モーセの権威に反抗したコラとその家族が、いわゆる地震が起きて地面が二つに裂けて呑み込まれたことは、神の憤りの表明でした。(民数記16:31,32)ここでも、地震がある意味、神の怒りの表明として用いられています。
エホバ神は地震はご自分の憤りを表すものとして用いられた
啓示の書の中では、比ゆ的な地震が、神の怒りと関連しています。啓示6章には、「大きな地震」が起きることが予告されていて、人々は、「み座に座っておられる方」と「子羊」の「憤りの大いなる日が来た」こてを恐れて隠れようとしています。(啓示6:16,17) この地震は、北の王の南の王に対する総攻撃の大患難を意味すると考えられますが、それは、ある意味、エホバ神とイエスの怒りと憤りの表明です。もちろん、大患難は、国際的な大紛争であり、文字通りの地震ではありません。しかし、聖書は、地震と神の怒りと憤りを結び付けていることが分かります。 ですから、エホバ神は、人類に対する深い愛から、キリストの贖いの犠牲を備えられました。イエス・キリストは、人類の代わりに神の憤りを受けられました。
イザヤ53章には、イエスが贖いの犠牲を捧げられることを示す預言があります。「彼はわたしたちの違犯のために刺し通され,・・・わたしたちの平安のための懲罰が彼に臨み,彼の傷ゆえにわたしたちのためのいやしがあった。・・・エホバは,わたしたちすべての者のとががその者に出会うようにされた。」(イザヤ53:5,6)
罪のないイエスはわたしたちの罪の身代わりとして苦しみの死を遂げられた
ですから、贖いの取り決めは、人類が当然受けるべき懲罰をみ子イエスが身代わりとなって受けてくださるというエホバ神の愛の取り決めです。このキリストの贖いの犠牲に信仰を抱く人々には、永遠の命という報いがあります。(ヨハネ3:16) イエスの苦しみの死は、エホバ神の愛に基づく取り決めでしたが、神のみ子イエスはユダヤで、ユダヤ人たちから憎まれ、侮辱され、侮られ、苦しみの死を遂げるという不当な仕打ちを受けられました。ご自分の最愛のみ子が受けられた仕打ちに対しては、エホバ神は怒りと憤りを抱かれました。 それで、エホバ神は、そのことに対する怒りと憤りの表明として異常な闇や地震などの異兆を引き起こされました。 それで、エホバ神は、人類のために贖いの犠牲を備えるために、ご自分の最愛の独り子が不当にもさんざんに卑しめられて非業の死を遂げるという経験をさせることを忍ばなければなりませんでした。このことは、実際は神の怒りと憤りを生じさせました。
それで、イエスは無知ゆえに罪を犯していたとして、ユダヤ人に同情的でしたが、エホバ神はイエスとは幾らか異なる怒りの感情を表明されました。このことからも、エホバ神とみ子イエスが異なる感情を抱かれる別個の人格的な存在であることが分かります。 わたしたちは、エホバ神が人類の救いのためにキリストの贖いの犠牲を備えるにあたって、怒りや苦しみを忍んでくださったことを感謝できます。それゆえに、わたしたちの罪が許され、天あるいは地上において永遠の命を得るための法的な根拠が据えられました。
わたしたちは、キリストの贖いの犠牲に頼ることによって、エホバ神との平和な良い関係を保ち、現在もさまざまな災厄から保護され、将来は永遠の命を得ることができます。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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