2015年4月3日(金)は、イエス・キリストの記念式です。この日に私たちはキリストが人類のための贖いの犠牲を捧げて下さったことを感謝して思い起こし、天への召しを受けている人はパンとぶどう酒の表象物にあずかります。
このことにちなんで、イザヤ53章2節から6節を検討したいと思います。この章には、キリストが人類の罪を負うことが預言されていました。
キリストは「堂々たる姿もなければ、光輝もない」ことが預言されていました。「彼を望ましく思わせるような外見はない」ことになっていました。(イザヤ53:2) イエスは、完全な方だったので、その容貌は望ましいものだったと考えられます。また、キリストは確かにダビデの子孫であり、ダビデの王権を受け継ぐ正当な権利を持っておられました。(マタイ1:1,6,16)
しかし、イエスの家庭は王室ではなく、ヨセフとマリアは富んだ人ではありませんでした。イエスは貧しい大工の息子でした。(マタイ13:55)イエスは、生まれた時、馬小屋の飼い葉おけに寝かされていました。(ルカ2:7)また、イエスの誕生を祝いに来たのは、普通の身分の羊飼いたちでした。(ルカ2:8,16)
JesusGrows Up (jesus22)イエスは貧しい大工の家庭に育ち堂々たる姿も光輝もありませんでした
また、マリアは、イエスの誕生後神殿に捧げ物をした時、貧しい人のための規定を利用して、羊の代わりにはとを捧げました。(レビ5:7。ルカ2:24)ヨセフとマリアにはそれだけしか資力がなかったのです。 ですから、イエスは人々の目を引くような「堂々たる姿」や「光輝」や望ましい「外見」を持っていませんでした。
「彼はさげすまれ、わたしたちは彼を取るに足りない者とみなし」ました。(イザヤ53:3)イエスを物質的な観点でしか見ない人々は、イエスの貧しい生まれをさげすんだでしょう。しかし、飼い葉おけの中に寝かされているというのは、み使いたちが生まれたキリストのしるしであると羊飼いたちに告げたことでした。(ルカ2:12,16)
また、イエスはパウロのように高名な学者から教えを受けて、聖書の学問的な教育を受けたわけでもありませんでした。人々はイエスを「取るに足りない者」とみなしたでしょう。でも、実際はイエスは天でエホバ神ご自身に次ぐ立場を持っておられました。(コロサイ1:16。ヨハネ1:14)
キリストは「人々に避けられ痛みと病を親しく知ることに定められた人」でした。(イザヤ53:2)イエスの所に大勢の人がやってきましたが、当時の宗教指導者たちは、イエスを歓迎しませんでした。それで、「彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。」と述べられています。(ヨハネ1:11)宗教指導者の影響を受けた人々はイエスを避けました。
イエスに近づいた多くの人々は、病や障害に苦しむ人々や悪霊に苦しめられていた人々でした。(ルカ5:15;6:17,18;7:21)盲人、足なえの人、らい病の人、耳の聞こえない人が大勢キリストに近づいてきました。(ルカ7:22) それらの人々は貧しかったので、大金を払って名高い医者に診てもらうことができなかったのでしょう。(ルカ7:22。マルコ10:46)それで、イエスは人々の惨めな状況を親しく観察することになりました。
Jesus heals an blind beggar by the road (healing2)イエスには貧しい病気の人々が近づきイエスは人々の痛みと病を親しく知りました
「わたしたちの病は彼が担い、わたしたちの痛みは彼が負った」のです。(イザヤ53:4)聖書はイエスが悪霊たちを追い出し、具合の悪い者すべてを治されたのは、イザヤ53章4節の言葉が成就するためであったと記録しています。(マタイ8:16,17) イエスが人々をいやした時、イエスから精力がある程度、奪われました。(ルカ6:19;8:46)イエスにとって人々をいやすことは実際に彼の精力を費やすことを意味しました。
イエスは,神から与えられた奇跡的な力を用いて、様々な疾患をかかえて自分のもとに来た人たちを治すことにより,その人たちの病を背負いました。
Jesusheals a paralyzed man (healing)イエスはご自分の精力で人々をいやし人々の病をにないました
しかし、ユダヤ人は、「彼を災厄に遭い、神に撃たれ、苦しみを受けた者」とみなしました。(イザヤ53:4)人々はキリストが自分を神だと主張していると誤解しました。また、イエスがそれを否定しても、イエスの神の子であるという主張を聴いて、神を冒とくしていると考えました。(マタイ26:63-65)
確かに、イエスが人間として生まれる前、天で聖書の神と共にいたという主張は、人々にとって容易に信じられないことだったでしょう。ペテロが、イエスを神の子だと認めましたが、それはイエスのさまざまな奇跡を数多く見た後のことでした。(マタイ16:16)
また、イエスが悪霊を追い出すのを見て、人々は神の力がイエスに働いているのを認めるのではなく、それは悪霊の頭の力のゆえであり、イエスが悪霊につかれていると考えました。(ヨハネ8:48。マタイ12:24)
そして、最後にイエスがピラトの手で杭につけられた時、人々は、イエスが神の子だと主張したのだから、あざけって神に助けてもらうようにと言いました。(マタイ27:43)つまり、人々は、キリストが神を冒とくするような主張をしたので、神から苦しみを受けていると考えたのです。
しかし、「彼はわたしたちの違反のために刺し通され、わたしたちのとがのために打ち砕かれ」ていたのです。「わたしたちの平安のための懲罰が彼に臨み、彼の傷ゆえにわたしたちのためのいやしがあった」のです。(イザヤ53:5)そして、「エホバは、わたしたちすべての者のとががその者に出会うようにされた」のです。(イザヤ53:6。ダニエル9:24)
(jesus21)イエスは人々の罪と違反のために刺し通されました
キリストは最後まで、神と良い関係を持っていました。イエスはご自分が敵から、捕まりそうになっていた時、ペテロに自分はみ使いの十二軍団を差し向けてもらうように神に願うこともできると言われました。(マタイ26:53)しかし、イエスはそうされませんでした。
イエスは、ご自分は、「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た」と言われました。(マタイ20:28)イエスが地上に来られた目的は人々の違反ととがのための贖いとして、つまり身代わりとして死ぬことでした。(マタイ26:54)
それで、敵から捕まらないように逃げることも可能だったにもかかわらず、イエスは逃げようとせず敵につかまるままにされました。杭につけられて犠牲の死を遂げるようにご自分を進んで引き渡されました。(エフェソス5:2)
イエスは死ぬまで完全で罪のない状態を保たれたので、キリストの体の犠牲は神に受け入れられました。(ヘブライ4:15)キリストの贖いの犠牲のおかげで、キリストに信仰を働かせる人は、その罪を許されます。(ローマ3:24。マタイ26:28)その結果、キリストの贖いに信仰を働かせる人は永遠の命を得る結果になります。(ローマ6:23)
私たち人類の罪の罰をイエス・キリストが肩代わりするように取り決めてくださったのは、エホバ神です。エホバ神は人類が被るべき罪の罰をご自分の最愛の独り子が受けるよう取り計らい、人類の罪を許し永遠の命を与えるための備えをしてくださいました。(ヨハネ3:16)
キリストは神の目的の達成のために大きな役割を果たされました。それで、私たちはイエスがイザヤ書53章で預言されていた私たちの罪を負うメシアであることを認めて、記念式に出席してキリストの贖いに感謝していることを表しましょう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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