新約聖書の一部であるコロサイ人への手紙とテサロニケ人への二通の手紙はパウロが書きました。今回、パウロが手紙を送った会衆のあったコロサイとテサロニケが実在の場所であることを確認したいと思います。
コロサイColossae は小アジア の南西の町です。使徒パウロの時代にはローマの属州アジアにあり、その州は古くはフリギア と呼ばれました。歴史家のヘロドトス やクセノフォン は、コロサイが毛織物の産地として栄えたことを述べています。その遺跡はラオデキア(現代のデニズリの近く)の近くにあります。現在,その場所には人は住んでいません。コロサイ人への手紙によれば,パウロはコロサイを訪れたことがなく,その会衆はエパフラスの働きの実であったことが示唆されています。コロサイには元々の住民であるフリギア人のほかに,ギリシャ系やユダヤ系の人々も住んでいました。(コロサイ 3:11)
テサロニケはギリシャでアテナに次ぐ第二の都市
Thessalonicaはギリシャのマケドニアの主な都市のひとつでした。使徒パウロとシラスがテサロニケに行った時も,そこは繁栄している重要な都市でした。現在でも、テサロニケは、ギリシャの首都アテネ に次ぐ2番目に大きな都市で、経済や産業、商業、政治の中心地です。
ギリシャのテサロニケ
西暦50年ごろ,パウロはそこにクリスチャン会衆を設立しました。現在,この都市はサロニカSalonica(または,テッサロニキThessaloniki)と呼ばれています。マケドニアの王アレクサンドロス大王の後継者カッサンドロスが、テサロニケを建設しました。彼の妻はアレクサンドロス大王の妹で、その妻の名にちなんで,その都市をテサロニケと命名しました。
テッサロニキのキリスト教とビザンティン様式の建造物群 が、世界遺産 に登録されています。市の中心部には有名な2つの博物館テッサロニキ考古学博物館とビザンティン文化博物館があります。テッサロニキ考古学博物館は重要なマケドニア王国 の遺物が収蔵されています。
ですから、パウロが手紙を書いた小アジアのコロサイとギリシャのテサロニケが実在する場所であることが分かります。ですから、パウロは一世紀に実在していた人々に対して実際に存在していた状況に関して手紙を書き送ったことが分かります。コロサイ人への手紙とテサロニケ人への手紙は真剣に考慮するに値します。
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