牧師室より #15
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、ルターの『キリスト者の自由』の冒頭に記されている言葉を瞑想してみました。 まず本書は、その冒頭で、キリスト者の自由の二つの原則について語っています。
① キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な主人であって、何者にも従属しない。② キリスト者は、すべての者の下に立つしもべであって、何者にも従属する。 ルターは、キリスト者はすべての者に対して「自由な主人」であり、同時に「下に立つしもべ」であるという、一見矛盾するような二つの命題を掲げ、この二つの命題は、根底で結ばれ、一致していると主張しています。なぜなら、自由は信仰によって得られ、自由を得たキリスト者は、それゆえに隣人に対して奉仕の愛を持たずにはおれないと考えたからです。そしてルターは、この二つの命題の一致こそが、キリスト教信仰の真髄であると述べているのです。 このキリスト者の自由に対する二つの原則は、聖書の中のパウロの言葉からも明らかです。
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、みずから進んですべての人の奴隷になった」(第一コリント9:19) 「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである」(ローマ13:8) 「自由な主人」であると共に「下に立つしもべ」であるという矛盾の中に見出されるキリスト者の生き方の原理。実に考えさせられる大切なテーマです。 人を支配するのでもなく、人に従属するのでもない、キリスト者に与えられた高貴な自由、この素晴らしい自由を私たちはどのように実生活の中に活かすことができるでしょう? 人が自分の期待に応えてくれない時、私たちは怒ったり、ひがんだりします。それは、「この人は、私の期待に応えるべきだ」という思い込みの結果です。相手が自分の支配に服さなかったことへの怒りです。また逆に、相手の期待に応えようとして応えられなかった時は、自分を責め、自己嫌悪に陥ります。これは、「私はこの人の期待に答えるべきだ」という思い込みの結果です。つまり、自分が相手に評価されなかったことへの怒りです。 自分の期待に応えることを相手に要求するのは「支配」であり、相手の期待に応えることを自分に要求するのは「隷属」です。どちらも本当の愛ではありません。では本当の愛とはどういう関係のことでしょう?それがこのキリスト者の自由の二つの原則で述べられていることだと言えるでしょう。 フリッツ・パールズの“The Greatest Prayer”という詩です。 私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。私は、あなたの期待に答えるために、この世にいるのではない。あなたも、私の期待に答えるために、この世にいるのではない。あなたはあなた。私は私。もしも我々が、お互いの願いに答えることができたら、それは素晴らしい。しかし、たとえお互いの願いどおりの行動ができなくても、我々が良き友であることには変わりはない。(古川第一朗意訳) キリスト者の自由の二つの原則、また、このパールズの詩が、本当の自由ということについて、皆さんに大切な気づきを与えてくれることを祈ります。
今日の一言: キリスト者の自由 平安鶴田牧師