慌ただしい日々と、挫折と失望、歓喜と悲哀、幸運と不運、忘れられない年月など、無数の出来事を経験し、巡る季節のなかで、人生の重要な節目をそれと気づくことなく瞬く間に過ごした末、人間は衰退期に入ります。過ごした年月の跡は身体全体に刻み込まれています。もはや真っ直ぐ立つことはできず、濃色の頭髪は白くなり、かつて明るく澄んでいた眼は暗く曇り、滑らかで柔らかい肌はシミとシワのある肌へと変化します。耳が遠くなり、歯が抜け落ち、反応が鈍くなり、動きが遅くなります……。この時点で、人は情熱溢れる若年期に最後の別れを告げ、人生の黄昏期に入ります。その次に、人間は人生最後の節目である死を迎えます。
人の出生が人の前世により運命づけられているとすれば、人の死はその運命の終りとなります。人の出生がその人生における使命の始まりであるとすれば、人の死は、その使命の終りとなります。創造主は人の出生の諸条件を定めているので、創造主が人の死についても諸条件を定めていることは言うまでもありません。言い換えれば、偶然生まれる人はおらず、突然訪れる死はなく、出生と死は必然的に人の前世と現世に関連しています。人の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらは人の宿命であり、人の運命です。出生について様々な真相がある以上、人の死も当然ながらそれぞれ特定の諸条件のもとに起こります。これこそが、人の寿命が様々であり、死の経緯や時刻が異なる理由です。強健でも早死にする人もいれば、虚弱でも長生きして安らかに永眠する人もいます。不自然な原因で死ぬ人もいれば、自然な原因で死ぬ人もいます。自宅から遠く離れて死ぬ人もいれば、最後に最愛の人々に看取られながら目を閉じる人もいます。空中で死ぬ人もいれば、地下で死ぬ人もいます。水中に沈む人もいれば、災害の犠牲者となる人もいます。朝死ぬ人もいれば、夜死ぬ人もいます。人は皆、華々しい出生、輝かしい人生、栄誉ある死を望みますが、自分の運命から脱したり、創造主の統治から逃れたりできる人はいません。これが人間の運命というものです。人は将来に向けて様々な計画を立てることができますが、出生と他界の経緯や時期は誰にも計画できません。人々は死を回避し、阻止しようと最大限の努力をしますが、やはり、死は人知れず静かに近付いて来ます。自分がいつどのように死ぬかを知る人はおらず、ましてや何処で死ぬかなど知る人はいません。生死に対する力を握っているのは人間でもなければ自然界の生き物でもなく、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかです。人類の生死は自然界の法則の産物ではなく、創造主の権威による統治の結果です。
人が老年になると、人が直面する課題は、家族を養うことでも、人生の大望を抱くことでもなく、人生にどのように別れを告げるか、どのように臨終を迎えるか、自分という存在に、どのように終止符を打つかということです。表面的には、人間は死を少しも気にかけていないように思われますが、その問題を追及せずに済む人はいません。なぜなら、誰一人として、死の向こう側に別の世界が存在するかどうか、人間が知覚したり感じ取ったりできない世界、誰も知らない世界が存在するかどうかを知る人はいないからです。このため、人間は死と正面から向き合うこと、然るべき時に死と対峙することを恐れ、その問題を避けるよう最大限の努力をします。したがって、あらゆる人が死をひどく恐れ、人生において避けることのできない事実が謎に包まれ、あらゆる人の心に絶えず影を落としているのです。
自分の身体の劣化を感じ、死が迫っていると感じる時、人は曖昧で表現し難い恐怖を覚えます。死に対する恐怖により、人は一層淋しさと無力感を感じ、この時点で人は、人間は何処から来て、何処へ向かっているのだろうか、こうして束の間の人生を終えて死ぬのだろうか、これが人の人生の終わりの時なのだろうか、最終的に人生の意味は何だったのだろうか、結局人生には何の価値があるのだろうか、それは富と名声なのだろうか、それは家族を養うことなのだろうか、などと自問します。こうした具体的な疑問について考えてみたことがあるか、死をどれほど恐れているか如何を問わず、すべての人の心の奥深くには、この謎を究明したいという欲求、自分は人生について無理解であるという感覚が常にあり、またこうした気持ちの中に、この世に対する感傷、この世を去ることへの不本意さが混在しています。人間が恐れているものが何か、探し求めるものは何か、人間は何に対して感傷的になるか、何を残して去るのが不本意なのかを明確に表現できる人は、おそらく誰一人としていないでしょう。
人々は死を恐れているので、多くの心配を抱えています。彼らは死を恐れているので、捨て去れない物事が多すぎるのです。臨終する時、あれやこれやと気を揉み、子どもや自分が愛する人々、財産など様々な事について、あたかも心配すれば死がもたらす苦悩や恐怖を解消できるかのように、あたかも生きている人々と何らかの親しい関係を維持すれば死に伴う無力感と淋しさから逃れられるかのように思う人々もいます。人間の心の奥底には、漠然とした恐怖、愛する人と離別する恐怖、青い空や物質世界を二度と見られないことへの恐怖があります。愛する人と共にいることに慣れきった、人を恋しがる魂は、握りしめたものを手放して未知の世界にたった一人で立ち去ることに抵抗を感じています。
創造主の統治と定めにより誕生した名もなき孤独な魂は、両親と家族を得て、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得ます。この魂は、創造主の統治を経験する機会、創造主の創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、神の権威に服従する機会を得ます。しかし大半の人が、こうした稀少で束の間の機会を実際に掴むことはありません。人は一生分のエネルギーを運命に立ち向かうことに使い果たし、家族を養おうとせわしなく働き、富と地位の間を行き来して、すべての時間を費やします。人々が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、彼らはこれらを人生において最も価値の高いものとみなします。すべての人々が自分の運命に不満を言うものの、人間はなぜ生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、といった、最も喫緊に検討して理解すべき問題を頭の隅に追いやって考えないようにしています。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、ただせわしなく富と名声を追い求めて全生涯を生きます。富と名声で人間の老衰を止めることはできないこと、金銭で心の空虚感を埋められないこと、誰一人として出生、老化、疾病、死の法則から除外される人はいないこと、待ち受ける運命から逃れられる人はいないことを悟るまで、そのような生き方をするのです。人々は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、やはり死を免れられる人はおらず、人は一人残らず、元来の名もなき孤独な魂という境遇に還らなければならないということを理解します。両親のいる人々は両親がすべてであると考え、財産のある人々は金銭が自分の頼みの綱であり生きる上での手段であると考えます。立派な地位があれば、人々はそれにしがみついて、そのために命を賭けます。この世界を手放そうとする時になって初めて、人々は自分が生涯をかけて追求してきた物事が、空を過ぎゆく雲のようなものであり、いずれも掴み続けることもできなければ、自分とともに連れていくこともできないものであり、自分を死から免れさせることもなければ、この世を去る孤独な魂の帰路に仲間や慰めを与えることもないものであり、またとりわけそうした物事のなかに、人々を救って死を超越することを可能にするものなどないということに気付きます。人々は、この物質世界で富と名声を得ることで、一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を覚え、その結果、道を踏み外します。人々はそのようにして、広大な人間の世界で、平和、慰め、心の平穏を求めて手足をばたつかせてもがくうちに、次々と襲ってくる波に呑まれます。人間は何処から来て、なぜ生きていて、どこへ行くのか、など、最も理解するべき重要な問題を見出せずにいる時、人々は富や名声により誘惑され、惑わされ、支配され、道を見失って取り返しがつきません。時の流れは速く、年月は瞬く間に過ぎ去り、人は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げます。人は、まもなくこの世を去ろうとする時、この世の物事はすべて流れ去って行き、それまで自分の持っていたものを手放さずに繋ぎ止めておくことはもはやできないという認識へと徐々に辿り着きます。そして、自分がまだ名もなき、この世に生まれたばかりの泣き叫ぶ赤ん坊のようだと実感します。この時点において人は、人生で何を成し遂げたか、生きていることの価値とその意味、自分がこの世に現れた理由をじっくり考えることを余儀なくされます。そして、来世というものは本当にあるのだろうか、天国は本当に存在するのだろうか、報いというものは本当にあるのだろうか、といったことを人が益々知りたくなるのは、この時点です。人は死に近付けば近付くほど、人生とは何かを知りたい気持ちが強くなります。死が近付けば近付くほど、人の心は益々空虚になり、無力感が強くなるので、死に対する恐れが日々強くなります。人々が死に近付く時にこのような感情が表れる理由は二つあります。一つ目には、自分の人生を依存してきた富と名声を失いつつあり、この世の目に見える物事すべてを置き去りにしようとしていることです。二つ目には、愛する人々や支援の手段が存在しない、足を踏み入れるのが不安になるような、馴染みのない世界、謎に包まれた未知の領域にただ独りで立ち向かおうとしていることです。この二つの理由のため、あらゆる人は死に直面すると、不安になり、それまで決して知ることのなかった混乱と無力感を覚えます。人々は、実際にこの時点になって初めて、人がこの地上に足を踏み入れた時にまず理解すべきことは、人間がどこから来るのか、なぜ人々は生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に糧を施し、それを統治するのは誰であるのかということだと知るのです。これらを理解していることは人が生きるための真の手段となり、人間の生存に不可欠な基盤となります。それは、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知ることでもなければ、人々よりも卓越した存在となる方法や一層豊かに生活する方法を知ることでもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を学ぶことなどでもありません。生涯をかけて習得する生存のための様々な技能により、人々は物質的な快楽を豊富に得ることができるものの、そうした技能は決して人の心に真の平和と慰みをもたらすことはなく、むしろ絶えず人間に道を踏み誤らせ、自分を掌握するのを難しくさせ、人生の意味を知る機会を一つ残らず失わせます。これら生存のための技能は、然るべく死を迎えるにはどうすれば良いかということに対して漠然とした不安を生み出します。こうして、人々は人生を台無しにするのです。創造主は、あらゆる人を平等に扱い、生涯にわたり創造主の統治を経験し、知る機会を与えるにもかかわらず、人は、死が近づき、自分に死の恐怖が差し迫って初めて光が見えるようになり、その時は、既に手遅れなのです。
人々は、金銭と名声を追い求めて人生を過ごします。それらがあれば、生き長らえて死を免れるとでもいうように、金銭と名声が唯一の支えだと考え、それらの藁にしがみつくのです。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独で無力であり、進退窮まった状態にあるかを悟ります。人間は、いのちは金銭や名声で買うことができないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死を前にした人間は皆同様に貧しく取るに足らない存在であることを悟ります。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭や名声では、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを悟ります。それを強く感じれば感じるほど、人々は生きていたいと切に願う気持ちが強くなり、死が近付くのを一層恐れます。この時点で初めて、人々は、自分のいのちが自分自身のものではなく、自分で制御できるものではないこと、自分が生きるか死ぬかについて、自分自身は発言権がないこと、そうしたことが自分の制御できる範囲外にあることを、真に理解します。
人が生まれる時、一つの孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活、創造主の権威を経験し始めます。これが、その人物、すなわちその魂にとって、創造主の統治に対する認識を得て、創造主の権威を知るようになり、それを自ら経験するにあたり格好の機会となることは言うまでもありません。人々は、創造主が人々のために定めた運命の法則に基づいて生活します。道理をわきまえた良心のある人にとって、数十年にわたる人生の中で創造主の統治を受け容れるとともに創造主の権威を知ることは、それほど困難なことではありません。したがって、数十年にわたる自分の人生経験の中で、万人の運命は予め定められていることを認め、生きることの意味を把握あるいは概括することは、誰にとっても極めて容易なはずです。こうした人生の教訓を取り入れるうちに、人は、いのちがどこから来るかを次第に理解するようになるとともに、心が本当に必要とするものは何か、人を真の人生の道へと導くものは何か、人生の使命や目標であるべきものは何かを次第に把握するようになります。人は、自分が創造主を拝まず、創造主の統治を受けない場合、死に直面する時が来たとき、すなわち、その魂が再び創造主に対面するとき、その心は無限の恐怖と動揺でいっぱいになるだろうということを次第に認識します。人がこの世に数十年存在してきたにもかかわらず、人間のいのちがどこから来るかを知らず、人間の運命が誰の掌中にあるかを認識せずにいるのであれば、安らかに臨終を迎えられないのは当然です。数十年の人生経験の中で創造主の統治に対する認識を得た人は、人生の意味と価値を正しく理解している人です。そのような人は、創造主の統治を真に経験し理解する中で、人生の目的に対する深い認識を持ち、さらに創造主の権威に服従することができる人です。神による人類創造の意味や、人間は創造主を崇拝すべきであること、人間の持つあらゆるものが創造主からもたらされたものであり、近い将来に創造主へと還ることを理解しているのです。そういった人は、創造主が人間の出生を計画するとともに人間の死を支配する権利を持ち、生と死の両方は創造主の権威により予め定められているということを理解します。したがって、人は、こうした事柄を真に把握する時、自然と安らかに死を迎えることができ、この世におけるすべての所有物を穏やかに手放し、その後の物事を喜んで受け容れ、それに従うことができ、創造主が計画した人生最後の節目を、盲目的に恐れて避けようともがくのではなく、あるがままに歓迎することができるでしょう。人が、人生は創造主の統治を体験し、その権威を知る機会であると見なし、人生は創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えるのであれば、必ずや正しい人生の見通しを得て、必ずや創造主により祝福され、導かれる人生を送り、必ずや創造主の光の中を歩み、必ずや創造主の統治を知り、必ずや創造主の支配に服従し、必ずや創造主の奇跡の業の証人、その権威の証人となるでしょう。言うまでもなく、そのような人は必ずや創造主に愛され、受け容れられ、そのような人だけが死に対して落ち着いた姿勢で臨み、人生の最後の節目を喜んで歓迎することができます。死に対して明らかにこのような姿勢で臨んだ人は、ヨブです。ヨブは人生最後の節目を喜んで受け容れる準備ができており、自分の人生の旅路を穏やかに終え、自分の人生における使命を全うして、創造主の許へと還りました。
聖句では、ヨブについて、次のように述べられています。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」。これは、ヨブが死んだ時、彼には何も後悔することがなく、苦しむこともなく、この世から自然と去ったことを意味しています。皆が知っている通り、ヨブは、生きている時分には神を畏れ、悪を避けた人間でした。ヨブの正しい行いは神より称賛され、人々の記憶に残りました。ヨブの人生は、他の誰の人生よりも価値があり、有意義であったと言えるかもしれません。ヨブは神の祝福を享受し、神はヨブを地にあって正しき者と呼び、また、ヨブは神からの試みに会い、サタンに試されました。ヨブは神を証し続け、正しき者と呼ばれるに相応しいとされました。ヨブが神の試みに会った後の数十年間、ヨブは従前にも増して価値が高く、有意義で着実で、平和な人生を送りました。ヨブの正しい行いゆえに、神はヨブを試し、ヨブの正しい行いゆえに、神はヨブの前に現れ、直接言葉を伝えました。したがって、ヨブは試された後の年月において、人生の価値を一層具体的に理解し、認識し、創造主の統治を一層深く理解し、創造主がどのように祝福を与え、奪うかについて、一層正確かつ確実な認識を得ました。ヨブ記には、ヨブに対してヤーウェ神がそれ以前よりも大きな祝福を与えるとともに、ヨブが創造主の統治を知り、安らかに死と直面する上で更に有利な立場にヨブを立たせたことが記されています。したがって、ヨブが老いて死を迎えた時、自分の財産について懸念しなかったことは確実でしょう。ヨブには心配も後悔もなく、無論死に対する恐れもありませんでした。なぜなら、ヨブは生涯を通して神を畏れ、悪を避けて生活したからです。彼には、自分の最期を懸念する理由がなかったのです。現在、死に直面した時のヨブのように行動できる人々がどれだけいるでしょうか。なぜ、誰もこうした簡単な態度を示すことができないのでしょうか。その理由はただ一つです。すなわちヨブは、神の統治に対する信念、認識、服従を主観的に求めて人生を過ごし、ヨブはこうした信念と認識、服従をもって人生の重要な節目を経験し、晩年を過ごし、人生の最期の節目を迎えました。ヨブが経験した事柄を問わず、ヨブの人生における追求と目標は苦痛ではなく、幸福でした。ヨブが幸福であったのには、創造主がヨブに与えた祝福や称賛のみならず、より重要な理由がありました。それは、ヨブの追求と人生の目標、神を畏れ、悪を避けることで得た、創造主の統治に対する漸進的な認識と真の理解、そして更には、ヨブが人生において、創造主の統治の対象として個人的に体験した創造主の驚くべき業、そして人間と神の共存、面識、相互理解に関する、暖かくも忘れがたい経験と記憶です。創造主の旨を知ることでもたらされる慰めと幸福、そして、神の偉大さ、驚異性、愛すべき存在、忠実性を理解した後に生まれた崇敬の念があるからこそ、ヨブは幸福だったのです。ヨブが一切苦しむことなく死を迎えることができた理由は、ヨブは死ぬことで創造主の許に還ることを知っていたことにあります。そして、ヨブの人生における追求と進歩があったからこそ、ヨブは安らかに死を迎えることができ、創造主がヨブのいのちを取り戻そうとすることに冷静な気持ちで向き合うことができ、さらには汚れのないまま、懸念することなく神の前に立つことができたのです。現在の人々はヨブが手に入れたような幸福を掴むことができるでしょうか。あなたがた自身は、そうした幸福を掴む条件を備えていますか。今日の人々は確かにそうした条件を備えていますが、それでは、なぜヨブのように幸福に生きられないのでしょうか。なぜ彼らは死の恐怖の苦悩から抜け出せないのでしょうか。死に直面した時、失禁したり、震えたり、気絶したり、天と人間を区別なく非難したり、中には号泣したり、むせび泣いたりする人々もいます。こうした反応は、決して死が近付いた時に突然現れるものではありません。人間がこうした気恥ずかしい行動を取る主な理由は、心の奥底で死を恐れていること、神の統治と采配に対する明瞭な認識や経験がなく、ましてやそれに心から服従することなどないことにあります。人々は、あらゆる物事を自ら計画して管理し、自分の運命や人生、死を自ら制御することしか望まないがゆえに、こうした反応をするのです。したがって、人々が決して死の恐怖から逃れることができないのは当然です。
人に、神の統治や采配に関する明瞭な認識や経験がない場合、その運命や死に関する認識はつじつまの合わないものにならざるを得ません。人々は、すべては神の掌中にあることを明確に見ることができず、すべては神の支配と統治の下にあることに気付くこともなければ、その統治から脱したり逃れたりできないことを理解することもありません。そのため、死を迎える時期になると、彼らの最期の言葉や懸念、後悔は尽きることがないのです。彼らは、過剰な重荷、過剰な嫌気、過剰な困惑に潰されそうになっています。彼らが死を恐れる原因はそこにあります。この世に生を受けたあらゆる人にとって、出生は必然であり死は不可避であり、誰一人としてその過程を超越することはできません。苦痛を感じることなくこの世から去りたい、抵抗や懸念なく人生最後の節目と直面したいと願うのであれば、その唯一の方法は、後悔を残さないようにすることです。そして、後悔せずに他界する唯一の方法は、創造主の統治を知り、その権威を知り、それらに服従することです。人は、この方法によってのみ、人間同士の不和、邪悪、サタンの拘束から離れることが可能となり、この方法によってのみ、ヨブのように創造主に導かれ、祝福される人生、自由で解放された人生、価値と意義のある人生、正直で率直な人生を送ることが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように創造主により試され、奪われるに従い、創造主の指揮と采配に服従することが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように生涯を通して創造主を崇拝し、創造主の称賛を得て、創造主の声を聞き、創造主が現れるのを目撃することが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように、苦痛や懸念、後悔なく幸福に生活して幸福に死ぬことが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように光の中に生き、光の中にあって人生の一つひとつの節目を過ごし、光の中にあって穏やかに人生の旅路を終え、造られた人間として創造主の統治を経験し、学び、知るという自らの使命を果たし、光の中に死んで、造られた人間として、永遠に創造主の許にあり、創造主の称賛を受けることが可能となるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
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