サタンがもう一度ヨブを攻撃する(腫れ物がヨブの全身を覆う)(1)

あなたが信仰上で困惑や困難にぶつかることがございましたら、いつでも私たちにご連絡ください。あなたの助けになることを望んでいます。私たちがキリストの中に互いに愛し合うように。

ヨブ記 2:3 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

ヨブ記 2:6 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

ヨブ記 2:4-5 サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

ヨブ記 2:9-10 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

ヨブ記 3:3-4 わたしの生れた日は滅びうせよ。「男の子が、胎にやどった」と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように

聖書には神とサタンの述べた言葉が次のように書かれています。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした』」。この会話の中で、神はサタンに同じ質問を繰り返しています。この質問は、ヨブが最初の試練で見せたもの、および生きたものに対してヤーウェ神が良い評価を与えたこと、そしてその評価が、サタンによる試みを受ける前の評価と何ら変わっていないことをわたしたちに示しています。つまり、ヨブに試練が降りかかる以前、神の目から見てヨブは完全であり、そのため神はヨブとその家族を守り、祝福したのです。神の目から見て、ヨブは祝福されるにふさわしかったのです。試練の後、ヨブは財産と子どもたちを失ったからといって自らの舌で罪を犯すことはなく、ヤーウェの名を称え続けました。ヨブの実際の行ないのために神はヨブを称え、満点の評価を与えました。ヨブにとって、自分の子どもも財産も、神を捨てるほど価値あるものではなかったのです。言い換えれば、ヨブの心における神の居場所が、彼の子どもたちや財産によって置き換わることはあり得なかったということです。最初の試みの中、ヨブは神に対し、神に対する自分の愛、そして神を畏れて悪を避ける道に対する自分の愛が他のすべてを超えることを示しました。この試みは、ヤーウェ神から報いを受け、財産と子どもたちをヤーウェ神に取り上げられるという経験をヨブに与えたに過ぎなかったのです。

ヨブにとってこの試みは、自分の魂をきれいに洗い流す実体験になりました。それは彼の人生を充実させるいのちのバプテスマであり、またそれ以上に、神に対するヨブの従順と畏れを試す壮麗な祝宴でもありました。この試みはヨブの立場を富める者から無一文へと変え、サタンによる人間への虐待も経験させました。ヨブは貧窮したからといってサタンを憎みはしませんでした。それどころか、サタンの下劣な行ないの中にサタンの醜さと卑劣さ、神に対する敵意と反抗を見たのです。ヨブはそれに励まされ、神を畏れて悪を避ける道への決心をよりいっそう、永遠に固くしました。そして財産、子ども、あるいは家族といった外部の要因のために神を見捨てて神の道に背を向けることは決してせず、またサタン、財産、およびどのような人に対しても、その奴隷には決してならないと誓いました。ヤーウェ神を除き、誰かが自分の主、自分の神になるなどあり得なかったのです。それがヨブの強い思いでした。一方、ヨブがこの試みから得たものもありました。神から与えられた試練の中で、ヨブは巨大な富を得たのです。

それまでの数十年間の人生において、ヨブはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェ神からの祝福を受けてきました。それらはヨブを大いに不安にさせ、また恐縮させた祝福でした。と言うのも、自分は神のために何もしていないのに、これほど偉大な恵みを授けられ、これほど多くの恵みを享受したのだと信じていたからです。そのためヨブは心の中でしばしば祈り、神に報いられるようになること、神の業と偉大さを証しする機会を得ること、自分の従順さが試されること、そしてさらに、自分の従順と信仰が神から認められるまで、自分の信仰が清められることを願いました。かくして、試練が自分に降りかかった際、神は自分の祈りを聞いてくださったのだとヨブは信じました。そしてこの機会を他の何より大切にし、あえて軽々しく扱おうとはしませんでした。最も大きな長年の願いが叶えられるからです。この機会が訪れたのは、神に対する自身の従順と畏れが試され、純粋なものにされることを意味していました。そのうえそれは、神に認められ、近づく機会がもたらされたことも意味していました。試練の間、ヨブはそうした信仰と追求のおかげでより完全になり、神の旨に関する理解をさらに深めました。また、神の祝福と恵みにますます感謝し、心の中で神の業をよりいっそう称え、以前にも増して神を畏れ、崇め、神の愛、偉大さ、そして聖さを切望しました。この時点で、ヨブは神の目から見て、いまだ神を畏れて悪を避ける者でしたが、経験という点から言えば、ヨブの信仰と認識は飛躍的に成長していました。信仰が増し、従順さが足がかりを得て、神への畏れがより深まっていたのです。この試練はヨブの霊といのちを変えましたが、そのような変化はヨブを満足させず、彼の前進を遅らせることもありませんでした。この試練から得たものは何かと計算し、自分の欠点を考えるのと同時に、ヨブは静かに祈り、次なる試練が自分の身に降りかかるのを待ちました。と言うのも、神の次なる試練において、自分の信仰、従順、そして神への畏れが引き上げられることを切望していたからです。

神は人間の奥底にある思い、および人間のすべての言動を見ています。ヨブの思いはヤーウェ神の耳に届き、神はヨブの祈りを聞きました。このようにして、神の次なる試練が予想通りヨブに臨んだのです。

自分に対するヤーウェ神の質問を聞き、サタンは密かに喜びました。神の目から見て完全であるこの人間を攻撃することが再び許されるとわかったからです。サタンにとって、それはまたとないチャンスです。この機会を利用してヨブの信念を完全に崩し、神に対する彼の信仰を失わせ、彼が神を畏れることも、ヤーウェの名を称えることもなくなるようにさせようとしたのです。これはサタンに一つの機会を与えるものでした。つまり、いつでもどこでもヨブを思いのままもてあそべるのです。サタンはその悪意に満ちた意図を跡形もなく隠しましたが、邪悪な本性を抑えることはできませんでした。聖句に書かれているヤーウェ神の言葉に対するサタンの返答から、その事実がうかがえます。「サタンはヤーウェに答えて言った、『皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」。この神とサタンのやりとりから、サタンの邪悪さを明確に理解し、感じることができないはずはありません。サタンのこの詭弁を聞いて、真理を愛し悪を憎む人はみな間違いなくサタンの下劣さと無恥さをさらに憎み、ぞっとして嫌悪するでしょう。同時に、ヨブに対して心からの祈りと真摯な願いを捧げ、この正しい人が完全にされるよう祈り、神を畏れて悪を避けるこの人が永遠にサタンの試みに打ち勝ち、神の導きと祝福の中、光の中で生きることを願うでしょう。そしてこのような人は、ヨブの義なる行ないが、神を畏れて悪を避ける道を追い求めるすべての人々を永遠に駆り立て、励ますことを願うでしょう。この言葉の中にサタンの邪悪な意図が見て取れますが、神はサタンの「要求」を快諾しました。ただ、一つだけ条件をつけました。それは、「彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」というものです。今回、サタンは手を伸ばしてヨブの肉と骨を傷つけることを求めたので、神は「ただ彼の命を助けよ」と言ったのです。この言葉の意味は、神はヨブの肉をサタンに与えたものの、彼の命は自ら守ったということです。サタンはヨブの命を奪うことこそできませんでしたが、それ以外のことであれば、ヨブに対してどんな方法や手段でも使うことができたのです。

神の許しを得たサタンはヨブのもとへ急ぎ、手を伸ばしてヨブの皮膚を痛めつけました。するとヨブの全身に腫れ物ができ、ヨブは皮膚に痛みを感じました。それでもヤーウェ神の素晴らしさと聖さを称えたため、サタンは厚かましくもより手荒になりました。人を傷つけることに喜びを感じていたサタンは、手を伸ばしてヨブの肉をかきむしり、腫物がただれるようにしました。ヨブはすぐに比類なき痛みと苦痛を感じ始め、この肉体の痛みが魂に与えた打撃を和らげるかのように、頭の先からつま先まで両手でかきむしらずにはいられなくなりました。また、神がそばにいて自分を見守っていることにヨブは気づいており、全力で覚悟を固めようとしました。そして再び地にひざまずき、こう言いました。「あなたは人の心をご覧になり、その人の苦悩を見られます。あなたはなぜ人の弱さを心配されるのでしょう。ヤーウェ神の御名はほむべきかな」。サタンはヨブの耐えがたい苦しみを目にしましたが、ヨブがヤーウェ神の名を捨てるのは見ませんでした。そこでサタンは急いで手を伸ばし、ヨブの骨を痛めつけて必死に彼の四肢を砕こうとしました。ヨブは瞬く間に経験したことのない苦痛を感じました。それはあたかも自分の肉が骨から剥がされ、骨を一つひとつ砕かれるかのようであり、その痛さたるや死んだほうがましだと思うほどでした……。苦痛への我慢も限界に達していたのです……。ヨブは叫び声を上げ、少しでも傷みを和らげるために自分の皮膚をはがしたいと思うほどでした。それでもヨブは叫ぶのをこらえ、自分の皮膚をはがすこともしませんでした。自分の弱さをサタンに見せたくなかったからです。そこで再びひざまずいたのですが、今度はヤーウェ神の存在を感じませんでした。ヤーウェ神がしばしば自分の前後左右にいることをヨブは知っていましたが、この痛みの中、神はヨブを一顧だにせず、顔を覆って隠れていたのです。と言うのも、神が人間を創造したのは、人間に苦しみをもたらすためではなかったからです。このときヨブは涙を流しながら、必死に身体の痛みに耐えていましたが、もはや神に感謝せずにはいられなくなりました。「人は最初の一撃で倒れます。人は弱く無力で、若くて無知です。なぜあなたは人を労り、優しくしようと望まれるのですか。あなたはわたしを打ちますが、そうすることで痛みを感じておられます。人のいったい何が、あなたの労りとお気遣いにふさわしいのでしょう」。ヨブの祈りは神の耳に届きました。そして神は無言のまま、黙って見ているだけでした……。あらゆる策を試みながらそのどれも失敗に終わり、サタンは静かに去りました。しかし、ヨブに対する神の試練はまだ終わっていませんでした。ヨブにおいて明らかにされた神の力はまだ公にされていなかったので、ヨブの物語がサタンの退散で終わることはなかったのです。別の人物が登場し、さらに壮大な場面が続きました。

サタンの暴虐に苦しんだヨブは、それでもヤーウェ神の名を捨てませんでした。最初に舞台に登場し、人の目に見える姿でサタンの役を演じてヨブを攻撃したのは彼の妻でした。原文はその様子を次のように描写しています。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」。これは人の姿をしたサタンによる言葉です。この言葉は攻撃であり、断罪であり、誘惑であり、試みであり、中傷です。ヨブの肉への攻撃に失敗したサタンは彼の高潔さを直接攻撃し、彼がその高潔さを捨て去り、神を捨て、これ以上生き続けないことを望んだのです。そのためサタンは、次の言葉を用いてヨブを試みることもしました。つまり、ヤーウェの名を捨てればこのような苦しみに耐える必要はなく、肉体の責め苦から解放される、と。妻の忠告を聞いたヨブは彼女を叱ってこう言いました。「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。ヨブはこれらの言葉をずっと以前から知っていましたが、このとき、これらの言葉に関するヨブの認識の真実が証明されたのです。

ヨブの妻は神を呪って死になさいとヨブに忠告しましたが、その意味はこうです。「あなたの神はあなたをこのように扱っています。それならなぜ神を呪わないのですか。それでもなお生きて何をしているのですか。あなたの神はあなたに対してとても不公平なのに、それでもあなたは『ヤーウェのみ名はほむべきかな』などと言うのですか。あなたがヤーウェの御名を称えているというのに、災難をもたらすというのはどういうことですか。さっさと神の名を捨てて、従うのをやめなさい。そうすれば災難は終わるのです」。この瞬間、神がヨブにおいて見ることを望んでいた証しが生まれました。普通の人間にそのような証しはできず、また聖書のどの物語にもそのようなことは記されていません。しかしヨブがこのような言葉を発するずっと前から、神はそれを知っていたのです。神はこの機会を使うことで、ヨブがすべての人間に対し、神は正しいのだと証明させることを望んだに過ぎないのです。ヨブは妻の忠告を聞いても高潔さを失わず、また神を捨てることもしなかっただけでなく、妻にこう言いました。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。これらの言葉に大きな重みはありますか。ここに唯一、この言葉の重みを証明できる事実があります。この言葉の重みは、それが神に認められ、神が望むもの、神が聞きたいものであり、また神が見ることを切望していた結果であるということです。また、これらの言葉はヨブの証しの核心でもあります。これにより、ヨブの完全さ、正しさ、そして神を畏れて悪を避けることが証明されたのです。ヨブが尊いのは、試みに遭い、全身が腫物に覆われ、極度の責め苦にさいなまれ、妻や身内に忠告されても、このような言葉を発することができた点にあります。言い換えれば、どのような試みに遭おうと、困難や責め苦がいかに深刻だろうと、ヨブはたとえ死に直面しても神への信仰を捨てず、神を畏れて悪を避ける道を一蹴することがなかったのです。こうして、ヨブの心の中で最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心には神だけがいたということがわかります。そのようなわけで、ヨブに関する次のような描写が聖書にはあるのです。「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。ヨブはその唇で罪を犯さなかっただけでなく、心の中で神への不満を漏らすこともありませんでした。また神を傷つける言葉を発することも、神に対して罪を犯すこともありませんでした。ヨブは唇によって神の名を称えただけでなく、心の中でも神を称えたのです。ヨブの唇と心は一つでした。これが神の見た真のヨブであり、まさにこの理由で、神はヨブを大切にしたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

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