6:1 聖歌隊の指揮者によって
シェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌
6:2 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、
あなたの激しい怒りをもって、
わたしを懲しめないでください。
6:3 主よ、わたしをあわれんでください。
わたしは弱り衰えています。
主よ、わたしをいやしてください。
わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:4 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。
主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
6:5 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。
あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:6 死においては、あなたを覚えるものはなく、
陰府においては、だれがあなたを
ほめたたえることができましょうか。
6:7 わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
6:8 わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:9 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:10 主はわたしの願いを聞かれた。
主はわたしの祈をうけられる。
6:11 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、
彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。
(口語訳)
聖書の引用は「口語訳」によっています。
「詩篇」の章節はBIBLIA HEBRAICA STUTTGARTENSIAに従っています。
そのため「詩篇」の節番号は「口語訳」とは一致していない場合があります。
「詩篇」6篇
「詩篇」32篇
「詩篇」38篇
「詩篇」51篇
「詩篇」102篇
「詩篇」130篇
「詩篇」143篇
「詩篇」を聖書の勉強会で取り上げるのはかなりの労力を要します。「詩篇」全般には「神様の民の賛美歌集」という側面があり、キリスト教会の卓越した聖書の教師たちはいつの時代にもこの書から、常に変わることのない「キリスト教信仰の真理」を汲み上げてきたのです。ところがその一方では、旧約聖書の書の中で「詩篇」ほど、近年の学術的な聖書釈義において大きな変化を蒙った書はほかにはありません。
学術的な詩篇研究においては、それぞれの「詩篇」の元来の使用目的を決定しようとする試みがその中心的な課題となっています。どのような状況でそれぞれの「詩篇」は朗誦されていたのかという問題が提示されたのです(いわゆるSitz im Lebenの問題)。詩篇研究者たちが導き出した数々の結果は伝統的な詩篇解釈に根本的な揺さぶりをかけるものでした。たとえば「メシア」(油注がれた者、救世主)をテーマとする一連の「詩篇」はイスラエルの民に自分の王がまだいた頃の具体的な歴史的状況(戴冠式など)に関連付けられました。また「詩篇」の内容に基づいてイスラエルの民の礼拝に関する知識を収集する試みもなされました。あるいは「詩篇」に付されている「見出し」(「詩篇」の背景を短く説明するもの)の内容的な信憑性に対して懐疑的な見解があらわれるようになりました。その一例として「ダヴィデの歌」という見出しを持つ一連の「詩篇」はダヴィデの生きた時代よりもはるかに後の時代に創作されたものであるとする解釈があります。それらの見出しは「詩篇」の編集者たちによる補足説明である、というのです。とはいえ「ダヴィデの歌」という表現は(異論はあるものの)「ダヴィデ派の歌」という意味ではなく「ダヴィデ自身の作った歌」という意味であったとする見方がやはり依然として有力です。このように、近年の詩篇研究の潮流においては「詩篇」を「イスラエルの民はキリスト(すなわちメシア)の到来をどれほど心待ちにしていたか」とか「キリストを自分たちの主として信じる使徒的な信仰はすでに旧約聖書の「詩篇」にも表現されている」という従来の伝統的な視点から読み解くことは減ってきています。その代わりに「「詩篇」は当時のイスラエルの民の具体的な宗教的事象にかかわる「賛美歌集」であった」といった解釈が支持されるようになってきています。このように、聖書に記載されている特定の歴史的出来事に「詩篇」を関連付けて理解する見方はあまり見られなくなってきました。このような詩篇研究の一般的な動向の変化があるにもかかわらず、聖書の歴史的記述との関連を無視して「詩篇」をイスラエルの歴史に関する資料としてのみ使用しようとする研究は、結局のところこれといった成果を上げることもできませんでした。このような研究方法は、いわば「教会賛美歌」を読み解くことで教会の歴史を探ろうとするのと同じくらい無謀な試みなのですから、失敗したのは当然の成り行きであるとも言えます。ともあれ、このようにして、学問的な詩篇研究と教会の伝統的な詩篇解釈との間に大きな溝が生じてしまいました。それでもこの溝は、過去数十年間のうちにある程度は埋められてきています。
これから始める私たちの詩篇講義では「詩篇」に対する上記の異なる複数の視点を互いに明確に区別しつつ話を進めて行くことにします。「詩篇」のメッセージの内容をまず学術的な詩篇研究に基づいて調べます。その後で今度はそれを自分たちの時代や生活に当てはめて考えていくことにします。その際「詩篇」を新約聖書の視点からも考察してみることにしましょう。宗教改革者マルティン・ルターはこの視点に立って「詩篇」を深く研究しました。彼による「詩篇」の解き明かしがたんなる過去の遺物ではないことを、私たちはこれから少しずつ学んでいくことになるでしょう。
「ざんげの詩篇」という名で呼ばれる一つのグループが他の「詩篇」から区別されるのが、中世以来の伝統となっています。これらの「詩篇」はキリスト信仰者たちにとって時代を超えて特別に重要な意味を持っていました。番号でいうと6、32、38、51、102、130、143篇が「ざんげの詩篇」に分類されています。ルターは詩篇全体をこよなく愛していましたが、とりわけこれら一連の「詩篇」には特別な愛着をもっていました。現代の詩篇研究のもたらした最良の成果のひとつとして「それぞれの「詩篇」の内容的な特徴は何であるか」という問題設定があります。この視点に基づく研究においては、上述の「ざんげの詩篇」をあらかじめひとつのグループとして扱うことはありません。たとえば、マルティン・ルターも「詩篇」32篇が内容的には「ざんげの詩篇」ではなく「教えの詩篇」であることにすでに気がついていました。現代の詩篇研究では、広大で多彩な一群の詩篇が「個人の嘆きの詩篇」に分類されています。このグループには今まで伝統的に「ざんげの詩篇」と呼ばれてきたほとんどすべての「詩篇」が含まれます。これらの「詩篇」からは、痛みや苦しみを引き起こす多くの要因の中で特に二つの要因が浮かび上がってきます。それは「敵」と「病気」です。また、この詩篇講義で取り上げる幾つかの「詩篇」では、痛みや苦しみの要因として「罪」が挙げられています。ですから、これらの「詩篇」はまさに「ざんげの詩篇」という呼称がふさわしいものと言えます。もちろん私たちは呼び名自体に拘泥する必要はありません。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.