中田智之
在日日系ブラジル人宣教支援/春日井キリスト教会/朝顔教会
一九七一年四月、私たち家族を乗せた最終航海のあるぜんちな丸は南米に向かい横浜港を後にしました。夕焼けの中、遠くに見える美しい富士山は今でも目の裏に残り「日本と別れる日だ」と言っているようでした。
私は二十九歳、家内の宣子は二十七歳、長男実は一歳でした。宣子のお腹の中には、長女香がおりました。
「誰かこの南米の日本人の方々にイエス・キリストを伝える人はいないのでしょうか」と羽鳥明先生がスライドを通しながら、宣教に立ち上がる青年を求めました。その翌年(一九六一年)の八月、私は教会の海外宣教祈祷会で、「主よ、こんな私でよろしければ……」と自らを献げたのでした。
ブラジルに着くと、日系人教会のない地で、できればサンパウロの教会群から離れた地で開拓伝道をと願いました。しかし、始めは、日系人が集中するサンパウロで、日系人社会の事情を理解し、また、ポルトガル語学校で言葉を覚えることになりした。
その後、首都ブラジリアから二百キロほど離れたゴイアニアへ、そして、アマゾン河中央の中心都市マナウスを拠点にすることになりました。ここはサンパウロから四千キロ以上離れ、他から助けられる距離ではなく、従って、自立できる環境を作ることが大切でした。
開拓は、日本人を訪ねての毎日でした。人口百万人の都市でしたが、日本人はその中に五百家族ほど。隣家は何百メートル先に一軒あるかどうか。二~三百キロ離れた日本人も訪ねて行っていました。
台湾長老教会の元総幹事(高俊明先生の前任者)であられた黄先生がマナウスの台湾教会を訪問された折、碁にお招きくださり親しく台湾のことや伝道のことを、教えてくださいました。その時に「都会は説教、地方は訪問」と言われましたが、さらに地方であるブラジルでは、訪問に次ぐ訪問、でした。
大体、訪問は(証し中心の文書をもって)三か月に一度ほどが、一番迷惑にならず、喜ばれることを発見しました。ことに焦らず、相手の方のお話を聞き続けることが、一番良い伝道だと確信するようになりました。三、四年訪ね続けますと、車の後ろのトランクいっぱいの農作物、果物、卵などを頂くようになり、町に帰ってきて、親しい方々にお配りするほどでした。日本人の伝道は、語ることよりも聞くことが最も大切な伝道だということがゴイアニア伝道のころからわかって来たのでした。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.