豊かな信仰を目指して 第三回 神さまイメージの変化―恵みの世界への旅立ち

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

河村 従彦
札幌で生まれ、東京で育つ。慶應義塾大学文学部卒業、フランス文学専攻。インマヌエル聖宣神学院卒業、牧師として配属される。アズベリー・セオロジカル・セミナリー修了、神学、宣教学専攻。牧会しながら、ルーテル学院大学大学院総合人間学研究科臨床心理学専攻修士課程修了。東洋英和女学院大学大学院人間科学研究科人間科学専攻博士後期課程単位取得後退学。現在はイムマヌエル聖宣神学院院長。牧師・臨床心理士。

心の中に取り込んでいる神さまイメージと人格形成期の環境には関連がありそうですが、ここで一つ、問題が出てきます。それは、自分が取り込んでいる神さまイメージは変わるのか、あるいは一度刷り込まれると生涯変わらないのかという問題です。
神さまイメージは生涯で変化します。一人の人物、メソジスト派のウェスレーの神さまイメージを調べてみました。説教を分析したところ、一七三八年のアルダスゲイトの回心を経験して、「創造者」であった神さまが、愛にあふれた「父」である神さまに変化していました。
それでは、日本人のキリスト者はどうなのだろうと考えました。二〇一三年に行った神さまイメージの変化に関する調査では、サンプル数の合計が一二六で、「今まであまり変化がない」がそのうちの二五%、「徐々に変化している」が二五%、「ある時を境に変化した」が四八%、「いろいろ変化した」が二%という結果でした。このような調査は、研究する側に倫理観と節度が求められ、私が関係しています教会の特別なご好意とご協力を頂いて行ったものなので、この数字がキリスト者全体の実態を反映しているかは断定できません。それでも、神さまイメージが変化することはわかりました。これらの結果は、筆者の経験とも合致するものでした。

さて、神さまイメージの変化とその前後のようすについて見ます。十数名の方にインタビューをお願いしました。そこで分かったことが幾つかありました。まず、神さまイメージの変化の前には、人間関係や家族の問題など、自分に向き合わざるをえなくなる重大な出来事を経験することが多いということです。当然、挫折感を味わいます。演じている自己と自分の実態の間にギャップがあることに気づいたり、自分の醜い姿を認識して自分を責めたりします。
さらに、しばしば既存の教会の枠以外のところでのようですが、他者との温かい関係を体験し、その中で自分の福音理解がどうだったのかを問い直します。そして正直な祈りに導かれていきます。だれにも言えないことを正直に神さまに告白し、挫折感が癒されていくこともあります。
神さまイメージが変化したとき、自分の内面でどういうことが起きたのかについてですが、まず、神さまの恵みが無条件であることを体験します。自分が何かができるから赦されるのではないということを理解します。そして素の自分を受け止めることができるようになります。自分がありのままでよいことに気づき、自分を責める必要がなくなります。それに加えて、自分がではなく、神さまにやっていただいているという意識が増大します。
その結果、生き方にも変化が生じます。その中でも一つ特徴的だったのは、自分で自分のことを監視しなくてよくなるということでした。神さまが自分に分かるように導いてくださるという感覚を持つことができるからです。ですから、楽です。自分のことを監視し続けるのは大変です。神さまのみこころに沿っているだろうか。罪から離れているだろうか。こんなふうに、一日中自分を見張っていなければいけないのであれば、それはとても不自由な、イエスさまによる恵みの生き方ではありません。
もう一つの変化は、周りの人や状況をどう受け止めるかです。人からどのように評価されているかも以前ほど気にならなくなります。必ずしも立派でなくてもいいという感覚であったり、世間様に恥をかくという強迫観念からの自由であったり、人との係わりがナーバスだったのが、それほどでもなくなったりします。

以上のプロセスを神学用語で表現すれば、「恵みへの転機」と言えるでしょう。これをパターン化すればよいということではありません。しかし、「イエスさまは神学を超えて、こういうことをしてくださるんだ」と、とても納得しました。
イエスさまにやっていただくのが福音なのですから、わたしたちはそんなに立派でなくてもいいのではないか。信仰的なふりをしなくてもいいのではないか。自分に正直であればそれでいいのではないか。わたしたちの素に寄り添ってくださるイエスさまの声が聞こえてきそうです。
筆者の中にはこのような感覚があります。人は崇高な神学もキリスト教も求めてはいない。ある意味、聖人のような生き方も求めてはいない。けれども、キリスト者であるかないかにかかわらず、人はこのようなイエスさまの恵みを求めているのではないか。福音は人を聖くする……確かにそうです。しかし、福音は人を自由にします。

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