最近刊行した、新しい聖書翻訳、「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」はどう違うのか、比べてみました。
▼「新改訳」と「共同訳」 ▼自然な日本語 <1:「私はある・いる」> <2:主語と述語をそろえる> <3:代名詞の省略> <4:一文の長さ> ▼聖書協会共同訳の優れた原語解説 <1:言葉遊び・ライム(韻)> <2:用語補足> ▼アガパオー・フィレオー問題 ▼「主」(しゅ)の書き方について ▼持ち運びやすさなどについて ▼新しい翻訳の名前について ▼いろいろな翻訳で読んでみよう!
日本語の聖書の翻訳は、主に3種類ある。ひとつは、「明治元訳・大正改訳」を源流とする、「文語訳聖書」。文語訳聖書を現代流の日本語に改定したのが「口語訳」である。
ふたつめは、1970年に初版を刊行した「新改訳聖書」である。新改訳聖書は、いわゆる「福音派」というグループを中心に、プロテスタントの一部に強く支持されている。
最後は、カトリック・プロテスタントが共同で翻訳した「共同訳」。1987年に刊行した「新共同訳聖書」は、現在、日本で最も読者が多いとされる翻訳である。
近年、「新改訳」と「共同訳」の新しい翻訳が、相次いで発表となった。2017年秋には、「新改訳聖書2017」が刊行。直近の2018年12月には、「聖書協会共同訳」が出版された。
私は、それぞれの新しい翻訳を手にとって読んでみた。面白い。今まで見えなかった聖書の言葉が、浮き出てくるようだった。また、イエスを信じて以来基本的に「新改訳」を読んできた私にとって、「共同訳」に触れるのは、全く新しい体験であった。感動した。新しい翻訳を通じて、神の知らない姿を感じ取れた気がした。
世の中に完璧な翻訳などない。それぞれに良さ、弱点があるのは言うまでもない。私も、「新改訳」には新改訳の良さがあり、「共同訳」には共同訳の良さがあると思う。そこで、今回、具体的に「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比較し、その違いを示したいと思う。
翻訳の評価は、何に主眼を置いたかによって基準が変わる。「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」の双方の翻訳ポリシーを読んでみると、どちらも「自然な日本語」を目指すというものが、要素のひとつのようである。
では、どちらの方がより自然な日本語なのか。こればかりは、好みの問題も入ってくるので、一概に優劣はつけられない。しかし、読んでみた私の感覚で申し上げれば、こと「自然な日本語」に限って言えば、「聖書協会共同訳」に軍配が上がると思う。個人的感覚で言えば、スラスラ読めるのは、聖書協会共同訳の方だ。参考に、聖書の一部分を取り出して、比較してみよう。
聖書の神は、トリッキーな自己紹介をする。その部分を見てみよう。
<新改訳聖書2017>
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣われた、と」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。
(出エジプト記 3:14〜15)
<聖書協会共同訳>
神はモーセに言われた。「私はいる、という者である」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと」重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたに遣わされました』これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。
(出エジプト記 3:14〜15)
これは、神がモーセに自己紹介をした有名なシーンである。ヘブライ語では「エヒエ・エセル・エヒエ」(אהיה אשר אהיה)という。「現在・過去・未来」、時を超えて存在するという意味である。英語では、ほとんどの訳が「I AM WHO I AM」と表現している。神が、「俺は俺だ」とおちゃめな自己紹介をしたという解釈もある。「ここにいるよ」という、神からのメッセージでもある。
日本語では、伝統的にこの名前を、「私はある」と訳してきた。新改訳はそれに倣っている。しかし、聖書協会共同訳は今回、大胆にもこの訳を「私はいる」に変更した。
よくよく考えたら、当たり前なのだが、日本語で「人・生き物」の存在は「いる」と表現する。逆にモノは「ある」と表現する。「私はいる」「お父さんがいる」「ワンちゃんがいる」とは言うが、「パソコンがいる」「ポテトチップスがいる」「聖書がいる」とは言わない。逆に、「私はある」「お父さんがある」「ワンちゃんがある」とは言わないが、「パソコンがある」「ポテトチップスがある」「聖書がある」とは言う。日本語は、命あるものと、ないものの存在を明確に区別しているのだ。
そう考えると、神については「私はいる」と表現した方が適切だろう。むしろ、なぜ今まで「わたしはある」という表現に甘んじていたのか分からない。大方、「神は人ではない」というような、もっともらしい理由があったのだろう。しかし、それは分かりづらいだけだ。今回の聖書協会共同訳の英断を、私は歓迎したい。
他にも、細かいが表現の違いに注目してみよう。
<新改訳聖書2017>
・イスラエルの子ら
・あなたがたの父祖の神
・これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。
<聖書協会共同訳>
・イスラエルの人々
・あなたがたの先祖の神
・これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。
いかがだろうか。「子ら」より「人々」の方が民族を指すと分かりやすい。「父祖の神」とは日常会話では言わないので、やはり「先祖の神」の方がシンプルだろう。最後は、これは好みだが、個人的には聖書協会共同訳の方が、「これこそ」と揃えて、体言止めで2つの文を揃えることで、詩的にパリっとまとまっており、読みやすいと思う。
日本語は、主語が非常に大切な言語である。よく「日本語は主語を省略できる」と勘違いしている人がいるが、間違いだ。日本語ほど主語にこだわる言語は少ない。お手元の小説なんかを手にとって、主語にマルを付けてみよう。その多さに驚くだろう。
日本語の基本は、「主語から書く」というものだ。そして、「主語を揃える」というのもまた読みやすくするテクニックの一つである。以下の聖書の言葉を読み比べてみよう。
<新改訳聖書2017>
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。 ー主のことばー 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(イザヤ書 55:8〜9)
<聖書協会共同訳>
私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なる。 ー主の仰せ。 天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。
(イザヤ書 55:8〜9)
いかがだろうか。上の文は、太字で主語を示している。主語をまとめよう。
<新改訳聖書2017>
・わたしの思いは、
・あなたがたの道は、
・わたしの道は、
・わたしの思いは、
<聖書協会共同訳>
・私の思いは、
・私の道は、
・私の道は、
・私の思いは、
実はこれ、同じ内容を繰り返す、ヘブライ語によくある表現方法である。
「A・B・B'・A'」というふうに、同じ内容の順番を入れ替えて、最初と最後で同じ意味合いのものを強調する。これは聖書でよく見かけるヘブライ語文法だ。
この場合、日本語としては、同じ主語で並べた方が分かりやすい。しかし、新改訳聖書2017では、なぜか二番目だけが「あなたがたの道」となっており、主語にズレが生じている。
原語をチェックすると、確かに直訳的には、新改訳の方が正しい。しかし、私の限られたヘブライ語知識で恐縮だが、流れ的には重要なのは語順ではなく、むしろ「A・B・B'・A'」の用法だと感じる。それをふまえると、やはり聖書協会共同訳のように、「私の〜」で4つの文の主語を揃えた方が、きれいにまとまっているように見える。
日本語は、「代名詞」をあまり用いない。そのため、「あなた」「彼」「彼女」などの代名詞は、極力省いた方が自然な日本語になる。では、その観点で次の箇所を見てみよう。
<新改訳聖書2017>
それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきて言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」
(マタイの福音書 4:1〜4)
<聖書協会共同訳>
さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきてイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」
いかがだろうか。新改訳聖書2017では、「あなたが神の子なら・・・」と、「あなた」を用いている。一方、聖書協会共同訳は、「神の子なら・・・」と、代名詞を省いている。私は、聖書協会共同訳の方が好みだ。欲を言えば、その後の「これらの石に」の部分の「これらの」も必要ないと思う。「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」このくらいシンプルで良いと思う。
また、太字で示した両者の違いも興味深い。悪魔が誰に話しているのか、共同訳の方が明確である。他の部分も、共同訳の方が、「生きるもの」「言葉によって」など、丁寧な言葉づかいで、自然な日本語のように感じる。
また、悪魔のセリフにも違いがある。新改訳はあくまでも丁寧な命令口調。一方、共同訳の方は「命じたらどうだ」と、いかにも誘惑する口調である。ここも面白い違いではないか。
日本語は、一文が短い方が圧倒的に読みやすい。以下、比べてみた。
<新改訳聖書2017>
神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
(イザヤ書 61:1〜2)
<聖書協会共同訳>
主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため、主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み、囚われ人に自由を、つながれている人に解放を告げるために。
(イザヤ書 61:1〜2)
新改訳の方は、一文が長い。一方、共同訳の方は、一文が短く訳され、読みやすい。また、新改訳は、一文に「わたしに」と「わたしを」などが混在していて、文章が伝えたい内容がわかりにくい。共同訳の方は、「私に」と「私を」が違う文に挿入され、目的を述べる文なのか、対象を述べる文なのか、明確である。
一方、新改訳は、文の途中で日本語が迷子になってしまい、何を述べたい文なのか、イマイチ分からなくなっている。これは、新改訳の悪い癖だ。そのため、上記のように抜き出すと、「囚人には釈放を告げ・・・」と、途中で文章が尻切れトンボになってしまう。一文が長いと、主語と述語が離れがちになる。主語と述語が離れていると、読んでいて文章の趣旨がよく分からなくなってしまう。その点、まだまだ共同訳の方が、文章が短く、パリっとしていて読みやすい。
↑聖書協会共同訳は、様々な形で原語・用語を解説している。
聖書協会共同訳の優れたところに、詳細な原語解説がある。解説自体は、新改訳聖書にもあるのだが、聖書協会共同訳の方が、数で圧倒している。特に、「言葉遊び・ライム(韻)」「用語補足」においては、聖書協会共同訳が圧倒的に優れている。例を2つ挙げよう。
↑聖書協会共同訳。マルの部分に注目してほしい。
まず、以下の聖書の言葉を比べてみてほしい。
<新改訳聖書2017>
万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。
<聖書協会共同訳>
万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。主は公正を待ち望んだのに、そこには、流血。正義を待ち望んだのに、そこには、叫び。
(イザヤ書 5:7)
一見、何の変哲もない翻訳に見えるが、ポイントは原語の解説にある。新改訳聖書2017には、何の注釈もない。しかし、聖書協会共同訳には、以下のような注意書きがある。
お分かりいただけただろうか。これは、ヘブライ語の言葉遊びなのである。韻を踏んでいるのである。まとめると、以下だ。
公正:ミシュパト
流血:ミスパハ
正義:ツェダカ
叫び:ツェアカ
このようなヘブライ語の言葉遊びは、日本語に翻訳した途端に失われる。聖書協会共同訳では、この問題を欄外に注釈を付けることで解決した。このような言葉遊びは、実は聖書に多く見られる(例:創世記21:22〜31、エレミヤ1:11など)。この言葉遊びをあぶり出す工夫は見事だ。私は10年以上聖書を読んでいるが、恥ずかしながら、このイザヤの箇所の言葉遊びに気がついたのは、今回が初めてだった。ここだけではなく、聖書協会共同訳には、様々な注釈がついている。
↑聖書協会共同訳は、詩篇で「いろは歌」である旨を明記している。
他の工夫もある。例えば、聖書で一番長い箇所として有名な、詩篇119編は、実はヘブライ語の「いろは歌」になっている。新改訳聖書ではその点が明記されていない。しかし、聖書協会共同訳には、きちんと以下のように「アルファベットによる詩」と明記した上で、「アレフ」(א)(※ヘブライ語の一番最初のアルファベット)や「ベート」(ב)(※二番目)というように、いろは歌の頭文字を区分けしている。この点では、圧倒的に聖書協会共同訳の方が、良い工夫をしている。
また、聖書協会共同訳には、用語の補足がある。例えば、以下を見てみよう。
<聖書協会共同訳>
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(※「バプテスマ」のルビ)を受けに来たのを見て、こう言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。(中略)その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。
(マタイによる福音書 3:7〜12)
この「毒蛇」や「箕」を指す言葉は何なのか。毒蛇といっても、様々である。マムシかもしれないし、ハブかもしれない。否。当時のイスラエルには日本にあるマムシなどいないだろう。では、実際に指すものは何なのか。聖書協会共同訳の欄外には、以下の注釈がある。
毒蛇:クサリヘビ
箕:農用フォーク
なるほど。これなら分かりやすい。「クサリヘビ」とネット検索してみれば、画像が一発で出てくる。自然な日本語で示すために、本文では「毒蛇」と表記し、欄外に実際に示す用語を記載する。良い工夫である。
(※ただし、聖書協会共同訳で「毒蛇」に「どくじゃ」とルビを振っているのはどうかと思う。音読みと訓読みのルビが混在していると、違和感がある。両方、訓読みで統一した「どくへび」の方が良いのではないか)
面白いのは、同じ「蛇」でも、マタイ3:7の「毒蛇」は「クサリヘビ」、ローマ3:13の「蛇」は「コブラ」と欄外に書いてある点だ。当然、ギリシャ語も違い、前者が「エキドゥノン」、後者が「アスピドン」である。ちなみに新改訳聖書2017は、前者も後者も「まむし」となっていて、翻訳としては少し心もとない。
他に同じような欄外解説の例を挙げれば、
「恋なすび」 → 「マンドレイク」
「乳香」 → 「フランキンセンス」
「岩狸」 → 「ハイラックス」
「かもしか」 → 「ガゼル」
などがある。
確かに、イスラエルにニホンカモシカが居るわけないので、納得だ。
↑新改訳聖書2017のヨハネの福音書21章
ここまで書くと、聖書協会共同訳が圧倒的、と見えなくもない。頑張れ、新改訳! と思うかもしれないが、新改訳聖書の方が良いと思われる部分も、ちゃんとある。私が一読した上で、一番最初に指摘したいのは、次の箇所である。
<新改訳聖書2017>
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロ(※シモンはペテロの本名)に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」ペテロは答えた「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい」
イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい」
イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」
(ヨハネの福音書 21:15~17)
<聖書協会共同訳>
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛してるか」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい」
(ヨハネによる福音書 21:15~17)
これは、イエスを三度「知らない」と言って裏切ったペテロ(ペトロ)を、死から復活したイエスが三度「私を愛するか」と言って赦したという、非常に心温まり、イエスの懐の深さに胸打たれる、有名なエピソードである。話の構成はシンプルで、イエスが三回「私を愛するか」と問い、ペテロが「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるものだ。とてもシンプルだ。
しかし、ここに重要なカギが隠れている。実は、「愛している」のギリシャ語に違いがあるのだ。「アガパオー」の「愛」と「フィレオー」の「愛」が混在しているのである。日本語は、どちらも「愛する」だが、ギリシャ語には微妙なニュアンスの差がある。「アガパオー」は「無条件の愛」を表し、「フィレオー」は「友情の・条件付きの愛」を示している。流れをまとめてみよう。
<一度目>
イエス:アガパオー
ペテロ:フィレオー
<二度目>
イエス:アガパオー
ペテロ:フィレオー
<三度目>
イエス:フィレオー
ペテロ:フィレオー
お分かりいただけただろうか。イエスが二度「私をアガパオーの愛で愛するか?」と聞いたのに対し、ペテロは「はい、フィレオーの愛で愛します」と答えているのである。これは、ペテロが「私は、あなたを無条件の愛では愛せません。ただ友情の愛でしか愛せません」と告白しているに等しい。イエスを三度裏切ってしまったペテロが、いまだその罪悪感から逃れられていない証左である。
しかし、イエスは、三度目に「私をフィレオーの愛で愛するか」とペテロに問う。これは、イエスが「お前が友情の愛でしか私を愛せないのは分かっている。それでもいいんだ」と、言って、ペテロの頭をなでるような、温かく優しい言葉だ。イエスが、弱い人間のところまでへりくだって降りてきて、あらん限りの愛でペテロを抱きしめたのである。
さて、この「アガパオー・フィレオー」のくだりは、当然、ギリシャ語の原語を見ないと違いが分からない。日本語では両方とも「愛する」になるからだ。翻訳に注釈が絶対に必要なのは、このような重要な違いを表現するためだ。
新改訳聖書2017は、きちんと欄外の注釈に、どの部分が「アガパオー」で、どの部分が「フィレオー」なのか明記してある。しかし、聖書協会共同訳には、あろうことかこの部分の注釈が全くない。あれだけ細かな原語の注釈があるにもかかわらず、この重要な部分に限って、何の記述もないのである。
聖書協会共同訳の底本も確認したが、原文のギリシャ語も、この「アガパオー」「フィレオー」の違いはきちんとある。なぜ「聖書協会共同訳」の方にはこの解説がないのか、理由は分からないが、これは見逃せない。この点においては、新改訳聖書2017の方が優れている。
私が書いた解釈は、あくまでも解釈の一つにすぎない。しかしその意味合いは各自が考えるとしても、原語がわざわざ違う表現で書いてあるのだから、それを翻訳の際に読み手に伝えるのは翻訳者の大切な役目だろう。
もっとも「アガパオー」と「フィレオー」の意味を知らない人にとっては、そもそも、新改訳2017の表記でも分からない。せめて、「アガパオー・フィレオー」の簡単な意味くらいは、注釈に書いてほしいものである。
聖書の神は、世界を造った創造主であり、唯一絶対の神である。神は、徐々に自信の名前について明らかにしている。神は、モーセに対しては、「私はある・私はいる」と、おちゃめな自己紹介をした。しかし、神にはきちんと名前がある。その名前は「YHVH」(יהוה)の4文字で表わされる。正確な読み方は分かっておらず、「ヤハウェ」とか「エホバ」とか言われる。ユダヤ人は、神の4文字の名前を発音せず、「アドナイ」(אדוני)(私の主人)とか、「ハシェム」(השם)(その名前)とか言って、読み替えている。日本語の聖書は、伝統的にこの神の名前を「主」(しゅ)と呼んできた。
聖書の中には、神を示す言葉が何種類もある。「エル・エロヒーム」(אל,אלוהים)(神・神の複数形)、「アドン・アドナイ」(אדון,אדוני)(主人・私の主人)など様々である。その中に、当然「YHVH」(יהוה)の4文字もある。また、その4文字を(書くのさえ恐れて?)省略した「YH」(יה)という表記もある。さらに、表記上は「YHVH」だが、わざわざ「エロヒーム」と読めるように、ふりがなを振っている場合もある。
こんなにバリエーションがある「主」の名前が、日本語にすると、どの文字も「神」とか「主」とかになってしまう。これだと、原語の違いがいまいち伝わらない。
「YHVH」をどのように表記するか。これは、聖書翻訳の中でも重要な要素のひとつである。ちなみに英語の場合は、「YHVH」を「LORD」と大文字で表記し、それ以外を「Lord」と小文字で表記するなどの工夫がある。
そこで、新改訳聖書2017では、「YHVH」を他と区別して表現するために、ある工夫をしている。それは、「YHVH」を、太文字の「主」と表記するというものである。
↑新改訳聖書は、「主(YHVH)」の名前を太文字で区別している。
「アドナイ」など「YHVH」ではない「主」は通常の太さで表記する。また、省略形の「YH」は、太文字の「主」とし、欄外に「ヤハ」と読みを明記する。さらに、「YHVH」に「エロヒーム」と読み仮名がふられている場合(※ヘブライ語は、文字を読み替えることがよくある)は、太文字で「神」としている。いずれも、明確に「YHVH」と区別しているのである。これが新改訳聖書2017の工夫なのだ。
一方、聖書協会共同訳は、「YHVH」の「主」と、それ以外の「主」に明確な区別がない。比較してみれば、違いは一目瞭然だ。太文字などは聖書の表記そのままにしてある。
<ケース1>
<新改訳聖書2017>
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。主は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である」アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」
(創世記 15:6〜8)
<聖書協会共同訳>
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である」アブラムは尋ねた。「主なる神よ。私がそれを継ぐことを、どのようにして知ることができるでしょうか」
(創世記 15:6〜8)
ここには、様々な「主」が登場するが、それぞれ全く違う表記である。違いをカッコ付で書くと以下のようになる。
<新改訳聖書2017>
アブラムは主(YHVH)を信じた。それで、それが彼の義と認められた。主(表記なし・動詞の形で判別)は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主(YHVH)である」アブラムは言った。「神(YHVHだが、「エロヒーム」の読み仮名つき)、主(アドナイ)よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」
(創世記 15:6〜8)
↑聖書協会共同訳では、どの「主」も同じ表記で、違いが不明確。
ご覧の通り、新改訳聖書は、太文字や表現の違いを用いて、日本語のままでも原典の単語の違いが鮮明に分かる。しかし、聖書協会共同訳では、全て「主」となってしまっており、判別ができない。この点で、新改訳聖書の方が丁寧である。
また、ここまで読んでお気づきになった方は、相当鋭いが、実は「私・わたし」の表記にも違いがある。
新改訳聖書2017では、神が主体の場合は「わたし」とひらがなで表記し、それ以外は「私」と漢字で表記している。先に挙げた聖書の言葉でも、神のは「わたし」、アブラムは「私」というふうに区別してある。
一方、聖書協会共同訳の方は、両方、漢字の「私」である。これでは、主体が神か、神以外か、違いが分からない。この部分においても、新改訳聖書の方に軍配が上がるだろう。
(※私は、某学生会の先輩に、漢字の「私」は「わたくし」と読むのだ、そんなことも知らないのか愚か者! と言われたことがあるが、新改訳聖書2017の「あとがき」を読むと、読む際は一般的に「わたし」を想定していると書いてあった・・・笑)
<ケース2>
神の名前、「YHVH」には、「YH」という短縮形がある。
↑「YHVH」の短縮形、「YH」は、欄外に「ヤハ」と示している。
<新改訳聖書2017>
私は言った。私は*主を、生ける者の地で*主を見ることはない。(中略)私は機織りのように自分のいのちを巻いた。主は私を、機から断ち切られる。
(欄外の表記 *「ヤハ」)
(イザヤ書 38:11〜12)
<聖書協会共同訳>
私は言った。私は主を見ることはない、主を生ける者の地で。(中略)私は機を織る者のように自分の命を巻き終わった。主は、織り糸から私を切り離された。
(イザヤ書 38:11〜12)
この場合、「主」という日本語は、いずれも3回登場する。3回のうち、原典のヘブライ語は、順番に、「YH」「YH」「表記なし」である。ヘブライ語は、日本語と違い、動詞の形で動作の主体が分かる。そのため、その性質が薄い日本語に翻訳する際、主体を補わなければならない。神を「彼は〜」とするわけにはいかないので、どうしても「主は〜」と補う必要がある。つまり、日本語の聖書は、原典よりはるかに多くの「主」が登場するのである。こればかりは、太文字か否かで見分けるしかない。
この問題を解決するため、新改訳聖書2017は、「YHVH」、その短縮形「YH」、「エロヒームの読み仮名があるYHVH」、それ以外の「主」を、明確に区別して訳出している。一方、聖書協会共同訳は、すべて「主」となっていて、原典が透けて見えない。日本語への翻訳で補った「主」と、原典にある「YH」が混在してしまい、違いが明確ではない。この点においても、新改訳聖書2017の方が丁寧な仕組みと言えるだろう。
★「主」の表記まとめ★
<新改訳聖書2017>
「YHVH」:太文字の「主」
「アドナイ」:普通文字の「主」
「YH」:太文字の「主」と表記し欄外に「ヤハ」と明記
「エロヒームのふりがながあるYHVH」:太文字の「神」
<聖書協会共同訳>
すべて普通文字の「主」
↑手前が「新改訳聖書2017」、中央が「聖書協会共同訳」
さて、内容ではなく、物質そのものを見てみよう。「聖書協会共同訳」の最も大きな弱点がここにある。
・・・そう、ハードカバーなのである!!!
なぜハードカバーにしたのだろうか。なんでやねん。なんでハードやねん。
これは、聖書協会共同訳の製作者たちが、「聖書は持ち運ぶもの」という認識が全くないことを示している。彼らにとって聖書は、「教会の礼拝で使うもの」であり、「教会堂で使うもの」なのである。「聖書を持ち運んで読み歩く」という想定が、全くできていない。これが、カトリックとの合同翻訳の限界なのか。そうか、あなたたちは、日曜日しか聖書を読まないのか・・・。まことに残念である。
私は、聖書は常に持ち歩き、地下鉄の移動など、暇さえあれば聖書をひらき、読むようにしている。もちろん、昨今はアプリの聖書などがあるので、スマホで読めればそれで良い。しかし、注釈の有無、書き込みができる、紙の聖書の方が頭に入ってくる、縦書きが好きなどの理由で、私自身は、紙の聖書を持ち運んでいる。これは好みの問題なので、優劣はない。
しかし、このように「聖書を持ち運ぶ」人にとって、ハードカバーの聖書協会共同訳は重いし、デカイし、めちゃくちゃ使いにくい。満員電車で、隣の人にぶち当たらないようにするのが、精一杯である。しかも、2ヶ月持ち運んだだけで、既にカバーがはがれそうになっている。耐久性にも問題がありそうだ。聖書協会共同訳は、より小さなサイズで、ハードではないカバーのバージョンを、早く刊行してほしい。
一方、新改訳聖書2017は、ラバー状のカバーである。大きさも、写真を見ていただければ分かる通り、聖書協会共同訳より一回り小さく、持ち運びに便利だ。この大きさで、きちんと注釈も付いているので、申し分ない。持ち運びやすさの点においては、新改訳2017の方が、圧倒的に分がある。
なお、これは意外と重要なのだが、両方の聖書の紙質が違う。新改訳2017は若干の厚みがあり、聖書協会共同訳の方がより薄い紙を用いている。これにより、ページのめくりやすさに圧倒的な差が生まれている。いわゆる「ぬめり感」。ぬめり感が高いほど、ページがめくりやすく、低ければめくりにくい。
では、この両翻訳は、どちらが「ぬめり感」があるのか。ページのめくりやすさの軍配は、圧倒的に新改訳2017に上がる。
というか、聖書協会共同訳のページが、ものすごくめくりにくい。圧倒的にめくりにくい。20代の私でさえ、めくりにくいと感じるのだから、教会参加者の大半を占めるご老人の方々は、もっとめくりにくいだろう。いや、めくれないのでは? 年賀状仕分けアルバイトで使う、指ゴムサックが必須である。私も、地下鉄で指をペロッとなめてから聖書をめくるのは、恥ずかしいからやめたいものだ。
神の言葉を紡ぐ、聖書の出版なのだから、聖書出版団体のみなさんは、もっと紙質にもこだわってほしいものである。「舟を編む」で、主人公たちが辞書の紙質にこだわって帆走したシーンを、ふと思い出した筆者であった・・・。
双方ともダサい! ダサすぎる!! 長いわ!!! 覚えにくいわ!!!!
なんやねん、「新改訳2017」って。なんで2017やねん。何やその数字。宗教改革から何年かしらんけど、そんなん自己満足以外の何物でもない。2017という数字を見て、「あー宗教改革から500年ねー」と察することができるのは、宗教オタクぐらいで、一般人にとっては何の価値もない。内向き傾向が強い、「福音派」の悪い癖。自己満足でしかない。「キリスト教」に関心がない人が聖書を読む想定をしていない。
「聖書協会共同訳」って、何なの? 長い名前つけるの流行ってるの? 覚えさせる気がないの? 浸透させる気がないの? 「新共同訳」がなまじ「新」ってついちゃっているだけに、苦労したのだろうが、「聖書協会共同訳」って、これじゃあ「新共同訳」とどっちが新しいか分からない上に、覚えにくいし、言いにくいし、何のメリットもない。まだ候補だった「標準訳」の方がマシである(まぁ「標準訳」もひどいと思うが・・・)私は、いつもこの説明に苦労していて、「新しい新共同訳」とか、訳のわからない説明をしている。もうちょっと良いネーミングはなかったものか。
日本の聖書翻訳者たちには、過去の用語を捨てる勇気と、新しいものを導入するセンスを求めたい。「新改訳聖書2017」も「聖書協会共同訳」も、浸透させようという気概を、全く感じない。
しかも、以前記事を書いたように、「神」「愛」「教会」「洗礼」「牧師」などの悪しき翻訳ミスは、一向に改善されないまま、従来の翻訳を踏襲している。これは、「明治元訳・大正改訳」からの悪しき伝統である。いい加減にしてほしい。早くここから脱却してほしいものである。「神」や「愛」は、日本語そのものに定着してしまったから仕方がないとして、「教会」「牧師」だけでも何とかならないものだろうかと、個人的には思っている。
ただし、表紙のデザインは両方とも、結構オシャレでGOOD。
↑聖書協会共同訳には、このような詳細な地図も挿入されている。
例にもれず長文記事となってしまった。ここらで筆を置こうと思う。私が最も伝えたいのは、「聖書は違う翻訳で読んでみると、さらに面白いよ!」というメッセージだ。今回挙げたように、どの翻訳も一長一短。良いところもあれば、改善すべきところもある。
しかし、どの翻訳も、エキスパートたちが、考え、考え、考え抜いて翻訳している。私が今回挙げた点など、いくらでも論破されてしまうだろう。大切なのは、違う翻訳を通して、自分が知らない神の姿を、少しでも見出そうとする姿勢である。
もし、聖書にマンネリを感じたら、違う翻訳を手に取って読んでみよう。神の違う姿が、イエスの違う姿が、聖霊を通して語られるに違いない。新改訳で。共同訳で。口語訳で。リビングバイブルで。現代訳で。岩波訳で。その他諸々の私訳で。もし英語ができるなら、英語の多数の翻訳で。他の外国語ができるならその原語で。ヘブライ語ができればヘブライ語で。ギリシャ語ができればギリシャ語で。聖書の冒険、探求は、限りなく続いていくのだ。
聖書って、面白い。あなたにも、そう感じて欲しいと願う。
↑聖書協会共同訳には、このような用語解説も付録で付いている。
<参考リンク>
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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