グレッグ・ボイド・インタビュー(4)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(その1 その2 その3)

グレッグ・ボイド博士のインタビューの4回目です。今回は、神学における「ミステリー(奥義・神秘)」の役割についてです。

*     *     *

――オープン神論に対する批判の中で、もう一つよくなされるのは、神の主権と人間の自由意志の関係について、オープン神論はあまりにも合理的に説明しようとしすぎる、ヒューマニスティックな神学だ、というものです。最近読んだ論文でも、オープン神論を批判する中で、「私たちは神のミステリーを認めなければならない」と主張されていました。つまり、神の主権と自由意志がどうやって両立するのかは、人間の理性を越えたミステリーなので、それを合理的に説明しようとするのは誤りだ、ということです。個人的にはその論文自体はあまり説得力を持たなかったのですが、一方で人間の理解を超えた神のミステリーというものも確かにあると思います。私たちは神学におけるミステリーをどう位置づけたら良いのでしょうか?

GB:ここで起こっているのはこういうことだと思います。アウグスティヌスから始まる古典的神学の伝統がありますが、それはプラトンに起源を持っており、そこからさらにパルメニデスなどのソクラテス以前の哲学者にさかのぼることもできます。彼らは「完全」とは何かということについて、また世界の究極的説明ということについて、ある一つのモデルを持っていました。基本的に彼らのやり方は、世界について説明を要することがら――時間や偶然や運動など、ありとあらゆるもの――について、世界を説明する存在はそれらとは反対のものでなければならない、と仮定することでした。そのようにして、やがて「神」と呼ばれることになるこの唯一の存在は、変化することがなく、世界から影響(苦しみなど)を受けることもなく、無時間的、等々であると考えられました。古典的神学の伝統はこのような神観を採用しました。

プラトン

ここで問題になるのは、このような神観を聖書と適合させなければならないということです。変わることのない神がどうしたら人間になることができるのでしょうか?苦しみを受けることも激しい感情を持つこともないはずの神が、十字架の上で苦しみを受けたり、心に深い悲しみを抱いたり、動いたり、考えを変えたりされる・・・これらはどう考えたらいいのでしょう?聖書の神は、ダイナミックで、インタラクティブな神ですよね?これを異教的でヘレニズム的な神のモデルにどうやって適合させたらよいのでしょうか?

そこで持ち出されることばが「ミステリー」です。神は変化することがないけれども、人間になられた。不変だけれども変化する・・・「ああ、これはミステリーだ!」というわけです。私はこの夏トマス・アクィナスの『神学大全』をずっと読んでいましたが、改めて確信したのは、神学者が「ミステリー」と呼ぶものの9割方は、彼らの立場から導き出されるナンセンスにすぎないということです。人が「ミステリー」を切り札に使うのは、他者からの質問をやめさせようとするときなのです。

けれども、そもそもなぜそのような神観を採用しようとするのでしょうか?なぜイエスから始めないのでしょうか?イエスこそ、神がどのようなお方であるかについての、唯一の完全な表れです。もしイエスから出発するなら、神がいかなる意味でも決して変化しないとか、私たちの行動によって影響を受けないとか、激しい感情を持たないとか、決して苦しむことがない、といった結論は決して出てこないのです!なぜならイエスは人となられた神であり、私たちのために十字架の上で苦しみを受けて死んでくださり、私たちによって心を動かされるお方だからです。

ですから、先に述べたような動きは、5世紀以降の神学が犯した致命的な誤りであったと私は考えていますが、実際にはもっと早くからそのような動きは始まっていました。このように、「ミステリーについてはどうなのか?」と語る人々は多くの場合、自分たちの曖昧な神学システムを擁護しようとしているだけなのです。

もちろん、ミステリーは存在します。けれどもそれは本物の、聖書から要請されるミステリーでなければなりません。たとえば、神が人間になられたこと、これこそミステリーです。無限の神が農民の娘の胎内に宿られたこと、これこそ神の他者性であり、神の超越性です。あるいは、この宇宙の神が、太陽のまわりを回る小さな塵のような星に住む反抗的な種族を愛するあまり、彼らのために十字架で死ぬこともいとわなかったこと――これこそミステリーです。あるいは、完全に聖なる神が私たちの罪となられたこと、完全に一つである神が私たちのために互いに引き離されてくださったこと――これこそミステリーです。あるいは、神には始まりがないということを考えてみましょう。あるいは、神には何の特別な限定もないことはどうでしょうか。

このように、正当的なミステリーはあります。けれども、神の主権と自由意志をどう調和させるかに関する「ミステリー」の全体は、主権というものはすべてをコントロールすることだと仮定する場合にだけ、ミステリーなのです。その場合には、この二つを調和させることはできません。ニーチェ以来のヨーロッパにおける無神論的反乱のすべては、この仮定にもとづいています。ニーチェやサルトルといった人々はみな、このような、すべてをコントロールする「神」に反対しているのです。彼らは、人間は自由な存在であるからには、神を信じることはできないと感じています。これはただただ悲劇的であり、不必要なことです。

ニーチェ

(続く)

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