(前回の記事)
「主の祈り」はイエスが弟子たちに教えられた祈りです。ですから、礼拝ごとにこの祈りを唱える教会も多いですし、個人的にも暗記して毎日祈っている人も多いでしょう。しかし、主の祈りはそらんじられるけれども、その意味を考えながらじっくりと祈ったことがないという人も案外多いのではないでしょうか。主の祈りを毎度の儀式のように何も考えずに繰り返しているだけで、まったく心に響いてこないというのは、あまりにももったいない話だと思います。
主の祈りは単に暗記して唱えれば「御利益」がある呪文のようなものではありません。主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えられたからには、この祈りには単なる儀式、礼拝やデボーションのプログラム中の単なる一項目以上の意味があるはずです。クリスチャンは主の祈りの意味を深く考え、一語一語を味わい、掘り下げて祈らなければならないと思いますし、そのためにはそれなりの準備が必要です。
これはあくまでも個人的な意見ですが、主の祈りはひとりで時間をかけて祈る方が好きです。他人と一緒に声を合わせて祈ろうとすると、自分のペースで一語一語を噛みしめ味わいながら祈ることができないため、どうしても表面をなぞるようにしか祈れない気がします。けれども、ひとりだけで神と向き合い、主の祈りを一語一語ゆっくりと味わい、黙想し、繰り返しながら祈っていくと、神の深い臨在に触れてとても充実した祈りの時を持つことができます。
後で述べるように、主の祈りは共同体的な祈りです。にもかかわらず、イエスは直前の6節で、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」と命じておられます。この二つの側面は矛盾するものではないと思います。もちろん、公の礼拝において他の兄弟姉妹と共に祈る祈りも素晴らしいですが、自分ひとりだけで神のみ前に出て祈る時も、神の民である公同の教会に属している意識を持って祈ることが重要であると思います。
さて、日本のプロテスタント教会で広く用いられている主の祈りのテキストは、次の文語訳のものです。
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
新約聖書では、この祈りはマタイ福音書6章9b-13節に収められています。
9b 天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
これはイエスが弟子たちに語られた山上の説教の一部で、どう祈るべきかについての教えの文脈で登場する祈りです。 山上の説教の中心主題は「神の国」ですので、主の祈りも「御国の祈りThe Kingdom Prayer」といって良いでしょう。ちなみに、最後の頌栄の部分「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」はマタイ福音書の最古の写本にはありません。
カール・ハインリッヒ・ブロッホ「山上の垂訓」
9節前半で、主の祈りの導入句として、「だから、あなたがたはこう祈りなさい」というイエスのことばが記されています。ここに出てくる「こう祈りなさい」という命令は、「このように祈りなさい」ということであって、呪文のように一言一句間違えないように唱えなければならないということではありません。ルカ福音書11章2-4節では、同様の内容で、より簡潔な祈りが記されています。イエスは少しずつ異なる表現の祈りをいろいろな機会に教えられたのかも知れませんし、あるいは福音書記者が、イエスの語られたオリジナルの祈りの文句を編集したのかも知れません。(そもそも、そのような編集がなされたこと自体、初代教会では主の祈りを一言一句間違えずに唱えることに拘泥していなかったことを暗示していますが、教会の公の礼拝で一斉に唱える必要から、今日伝えられているような特定のテキストに固定化されていったことは充分にありうることです。)いずれにしても大切なのは、正しい文言を「唱える」ことよりも、その内容と意図を理解して、それにかなった祈りをしていくことです。さらに、11節「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」は、この祈りが毎日祈るべき祈りとして教えられたことを暗示しています。
さて、主の祈りはいくつかの短い祈りの集まりとしてとらえることができますが、これらの祈りには優先順位があり、イエスが教えられた通りの順番で祈っていく必要があります。N・T・ライトは最近出版されたSimply Good Newsの中で主の祈りについて論じていますが、その中で、多くの人々は主の祈りをさかさまに祈っているという、興味深い指摘をしています。オリジナルのテキストを次のように並べ替えてみると、分かりやすいかも知れません。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
御国がきますように。
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
もちろん、文字通りこのように祈っているクリスチャンはいないでしょうが、多くのクリスチャンが祈る祈りは、主の祈りのパターンからすると逆の優先順位にもとづいてなされている、というライトの指摘は的を射ていると思います。つまり私たちがまず真っ先に口にしてしまう祈りは、「助けてください」「ゆるしてください」「与えてください」というものが多いのです。これらの祈り自体が間違っているわけではありませんが、それらはより重要な、神の御名があがめられるように、神の国が来るようにという祈りの光に照らして祈る必要があります。
主の祈りはイエスが公生涯の中で(つまり十字架と復活以前に)弟子たちに教えられた祈りです。この祈りのテキストにはイエスご自身のことは何も出てきません。けれども、クリスチャンとして主の祈りを祈る時には、イエス・キリストというレンズをとおして祈ることが不可欠です。「主の祈り」は「主イエス・キリストの祈り」ということができるのです。イエスはこの祈りを弟子たちに教えられただけでなく、ご自分でも祈られたに違いありません(罪のゆるしを求める祈りは別かも知れませんが)。そしてイエスの地上生涯は、主の祈りの体現であったといえます。そして、主の祈りを祈ることは、イエスの弟子としてその後に従っていくことにほかなりません。ライトは次のようにも述べています。
この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる。(『クリスチャンであるとは』227ページ)
クリスチャンは、キリストによって贖われた者、キリストに従う者、キリストにある(in Christ)者として主の祈りを祈ります。主の祈りのすべての要素は、キリスト論的視点から祈るべきなのです。
(続く)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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