敵とは? 隣人とは?

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「敵とは? 隣人とは?」

秋葉正二
ネヘミヤ書13,23-27 ;  

 きょうのテキストでは律法の専門家がしきりに「隣人」という言葉を使っています。そこでまず「隣人」について考えてみます。旧約でも新約でも「隣人」と訳せる言葉は幾つかあります。それぞれが文脈により兄弟・友人・仲間・近くにいる人などと訳されます。きょうのテキストに使われている「隣人」は、ギリシャ語では「近くで」とか「近くに」という意味の言葉ですから、「近くにいる人」の意味で隣人が使われていることになります。そこで、あえて聖書的概念はといえば、「目下関わり合っている他者」のことだ、と言えるでしょう。ではその関わり合っている「他者」とはどの程度関わり合っている他者なのでしょうか。

 旧約も視野に入れると、まず職業上の同僚を挙げることができます。預言者同士だったり、祭司同士だったり、同じ土俵で働く人同士です。もし軍人同士ならば同じ部隊の戦友ということになるでしょうか。とにかくちょっと考えただけでも、この隣人が適用される範囲は極めて広いようです。関わり合っているのですから他人といっても内面的に結ばれている繋がりでしょう。例えばダビデとヨナタンがそうでしょうし、ヨブと友人達もそうです。そこで隣人についてまとめると、そこには仲間意識があって愛情や好意があるということになるでしょう。近くにいてよく出会い、お互いに好意を抱き合う関係といえます。

 ですからレビ記のように『汝の隣人を自分のように愛せよ』という戒めは、いわば仲間内に適用される戒めなのです。隣人愛とか兄弟愛という場合の「愛」も、神さまとの契約に与る同胞が対象となっていて、その関係を規定しているのが律法だというふうにも言えます。ところがこの定められた枠を超えてしまう隣人関係が旧約には出て来るのです。それは旧約聖書で寄留者と呼ばれている存在への言及です。代表的なヘブル語の寄留者はゲールといいます。このゲールを愛しなさい、ということが旧約聖書には繰り返したくさん出て来ます。

 ほんの一例ですが、例えばレビ記19章33-34節にはこうあります。『寄留者があなたの土地に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい』。これはきょうのテキストでイエスさまの質問に答えて律法の専門家が引用した『自分自身を愛するように隣人を愛しなさい』という言葉の少し後に出てくる言葉です。そしてほんの一例といったように、寄留者の保護規定は、創世記にもレビ記にも申命記にも、あるいは出エジプト記にも何度も繰り返して出て来ます。

 もう一例挙げます。申命記10章17-19節です。『あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい』。「寄留者を愛せ」は、とりわけ孤児と寡婦の保護命令とセットになって何度も出てきます。ゲールは現代の言葉でいえば「在留外国人」です。この旧約に繰り返し述べられる一つの流れが、後の時代の新約聖書の中で、イエス・キリストというお方の生き方において結実して行く流れを私たちはしっかり捉える必要があります。

 私が関わっている外キ協という超教派の団体は、そのことに土台を置いて活動しています。外キ協はヒューマニズムで動いているわけではなく、この信仰的土台の上に、いわば信仰課題の実践としての活動をしています。律法は古代イスラエル社会・民族の中核ですから、指導者である律法の専門家は“律法がそう命じているから隣人を愛さなくてはならない"と考えます。従ってまず隣人とは誰か?と問うのです。隣人を定義しなければ、愛しようもない、と考えるのです。しかしそうした理解は、イエスさまから見ると、彼らが陥っている悪魔のしかけた罠でした。

 きょうのテキストはいわゆる「善きサマリヤ人」の喩えなのですが、皆さま何度も読んでこられたはずですから今更ストーリーは申し上げませんが、追い剥ぎにあって瀕死の重傷を負って倒れていたところに最初に通りかかったのは「祭司」であり、次に通りかかったのは「レビ人」でした。ユダヤ人にしてみれば、この人たちは社会的地位の高い、人々から尊敬される人たちですから、そういう立場にある人が瀕死の重傷者を助けてくれれば話は簡単でした。

 しかし、イエスさまの喩え話では、この人たちは道の向こう側を通って行ってしまったのです。そうして、次に通りかかったサマリア人の旅人がこの怪我人を助けたのです。サマリア人という存在は、パレスチナの歴史的経緯が絡んでおりまして、かつて新バビロニア帝国に北王国が滅ぼされた際、サマリアとかガリラヤとか北側の領土では新支配者による植民政策が行われました。その結果、北に住んでいたユダヤ人には他民族が混じるようになり、多くの混血児が生まれるようになったのでした。そのことがイエスさまの時代にまで影響し続け、南のユダヤ人から見ると、北の人たちはイスラエル民族の伝統を崩した蔑むべき存在だったのです。

 なのにイエスさまはこの喩え話で、瀕死の人を助けたのはサマリヤ人の旅人だったと言われたのでした。これは何を意味しているでしょうか。イエスさまが教えてくださったことは、隣人とは自分がそれになるもの、即ち、人間同士はもともとそれが誰であろうと愛し合うのが本当で、その愛が現実化されるとき人間同士は隣人になるのだ、ということです。まず律法があって、その規定によって隣人愛が成立するのではないのです。ユダヤ人といえば、ふつう私たちは民族意識が人一倍強くて、一つの宗教に束ねられている存在と見るのですが、モーセ五書の成立過程で、律法の中にすでに在留外国人を愛する信仰思想が生まれているというのは驚くべきことだと思います。

 私はその鍵はイスラエルが小国であったことにあると見ています。いつの時代も、小国は大国にはさまれて辛酸を舐めなければなりません。ヤーウェの神さまがイスラエルを特別選ばれた民族として偏愛してくださることだけで、どうしてイスラエル民族の在り方と言いますか、レーゾンデトールが決着しなかったのかという問題です。列強の中で翻弄される小さな存在は信仰的に鍛えられるのです。弱い立場に置かれるということがどういうことなのか、現実の中でイスラエルは信仰的に一歩一歩高められていったと思います。律法は排他的民族の中心思想ではありません。その成立当初から多くの人々の目には見えない小さな存在の大切さを内容として含んでいました。その具体的な形が寄留者を、孤児を寡婦を大切に保護しなさいという戒めなのです。

 この旧約聖書に脈打つ流れをしっかり理解していないと、イエスさまの偉大さは分かりません。旧約と新約を合わせて初めて聖書と呼ぶ理由はここにあると思います。「敵」も同じです。私たちは誰かを「敵」だと認識しないと落ち着かないのです。一度認識してしまえば、その「敵」は叩けば良いのだということになります。仮想敵国という言葉があります。今私たちの国は、というか保守政権の右寄りの人たちは仮想敵国を中国あるいは北朝鮮と考えているのでしょう。そういうふうに決めればその「敵」はにらみ合う相手として確定します。しかし仮想敵国のような発想からは、少なくとも愛は生まれません。生まれるのは敵ですから憎しみです。そうではなく仮想敵国なんて考えなくてよいのです。私たち市民のひとりひとりがどんどん中国や北朝鮮の民衆と仲良く近づけばよいのです。

 敵とか隣人とかは、国家が、その国の政府が勝手に決め付けているだけで、本当は私たち民衆がそんな考えに巻き込まれる必要はまったくありません。私はイエスさまはこの喩え話で、今流に言えばそういうことを示された、と思っています。この本来の人間と人間の関係の在り方に気づいたとき、私たちはあらためて聖書の神さまが、神々の中の神であり、主なる者の中の主であることに気づき、イエス・キリストの父なる神さまこそ、本当に畏怖すべきお方であることが分かります。律法の専門家がイエスさまに向かって“隣人とは誰ですか?"と質問したことに対して、イエスさまが“誰がこの旅人の隣人になったと思うか?"と逆に質問を返された意味がよく理解できます。イエスさまは人間が生きるということの本質に触れられたのです。

 私たちがいろいろ理屈を並べて隣人は?敵は?とやっていると、私たちには、『行って、あなたも同じようにしなさい』と自分で蒔いた種の矛先が帰ってきます。「愛」という言葉は今では使い古されて抽象化し、観念化してしまっていますが、人が人を心から大切にするという意味を回復させなければなりません。もっと言うなら、私たちはイエスさまから「あなたは急ぎ旅の日程を変更して、この旅人を助けますか」と問われているのです。この問いに私たちひとりひとりが自分で応答しなければなりません。お祈りしましょう。


 
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