ののしられても

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「ののしられても」

廣石 望
イザヤ書53,1-10 ;

I

 今日のテキストは、私が中高生のとき夏のバイブルキャンプで暗唱した思い出があります。改めて聖書を開いて前後を読んだとき、ある疑問がわいてきました。

 直前にこうあります(18-20節)。

召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。

 文脈は「召使いたち」への勧めです。奴隷身分のキリスト教徒に向かって、〈不正義をいっさい抵抗することなく甘んじて受けよ。それが神の与える恵みであるのみならず、救いに至る道でもある〉と教えているように見えます。〈キリストが罪なくして苦しんだのだから、キリスト者もまた罪なくして苦しむのは、とくに奴隷身分のキリスト者が故なき虐待を受けるのは大変よいことだ〉、と。

 もしそれが、この聖書箇所の意味であるなら、私たちの耳には耐えがたい。近年、とくにドイツ語圏カトリック教会の教育施設で、子どもに対する聖職者による性的虐待の問題が次々に発覚しました。教会指導部はこの問題を知りながら、長年にわたって沈黙してきたと言われています。日本でも小さな子どもたちへの虐待は後を絶たず、相変わらず家庭内暴力や女性への暴力などの問題があります。こうしたことが自分や身のまわりで起こっても、〈ただ耐えなさい/黙っていなさい/見てみぬふりをしなさい〉と言えというのでしょうか。私にはできません。

 私たちが出会う不正義という現実に、キリストの生と死はいったい何をもたらすのでしょうか。

II

 キリストは「模範」であると言われます。「その足跡に続くように」と(21節)。

 「模範」と訳されたギリシア語「ヒュポグランモス」の原義は、子どもが文字を習うとき薄く書かれた文字をなぞりながら書く、そのなぞり書き用の〈お手本〉です。小学校一年生がもらう平仮名や漢字の練習帳を思い出します。「足跡に従う」とは、キリストのフットステップを、それこそなぞるように生きるという意味です。

 続いて、キリストを指す関係代名詞で始まる三つの文が、どのような意味でキリストが「模範」であるかを述べています(22.23.24の各節)。いずれも先ほど朗読した「苦難の僕の歌」(イザヤ53,1以下)とのつながりが深いです。この部分は、当時の教会の讃美歌が利用されているのではないかという学説もあります。いずれにせよこの旧約テキストを用いて、最初期のキリスト教がイエスの生と死、しかも悲惨な死の意味を理解しようと試みたことは、新約聖書の他の箇所にも証言されています。

III

「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」(22節)

 イザヤ書からの引用です(53,9前半)。

 キリストは罪をなさなかった。――私たちには不可能です。その意味でキリストは、到達することも乗り越えることもできないような「模範」です。

 偽りを言わない、人を欺かない。――そうでありたいと願います。それでも私たちは、キリストとまったく同じようになることはできないだろうと思います。政治の世界には、そして教会政治の世界にも、昔も今も権謀術数があります。そこには自らの立場を貫徹するための大小の嘘がつきものです。キリストが偽りなく生きたこと、そのような人が存在したという奇跡に、むしろ感謝したい気がします。

 キリストが肩を並べたり、乗り越えたりできないし、そうする必要もない模範であることは、私たちをひとつの幻想から解放してくれます。それは罪なきこと、無垢であることを熱狂的に追い求めることから生まれる極端な倫理主義という幻想です。〈キリストと同様に、世の穢れに染まない罪なき存在でありたい〉という願望は、とりわけ閉じられた少数派において、とりすました態度や他者との比較、外部世界に対する蔑視を生みがちです。キリスト教系の新しい流派やカルト集団に、そうした傾向が見られることがあります。集団内部で「苦難」とされることが、外部から見れば倒錯した自己栄光化にすぎない場合も。私たちも、こうした危険に自覚的でありたいものです。

 この書簡が帰されている使徒ペトロは、肝心なときに師匠イエスを見棄てたと伝えられています(例えばマルコ14,66以下)。彼もまた「罪」ある存在です。マルティン・ルターは、〈キリスト者は他の者たちと比較して、とくに優れた存在ではない〉と言います。キリスト者は「罪人/神に反逆する者」であり続ける、と。もちろん「罪」に居直ることはできません。彼はキリスト者とは「同時に義人、同時に罪人simul justus, simul peccatus」であると言いました。私はその意味で分裂した存在です。むしろ「信じる私」と「罪人の私」の間に神が住む、と言えるでしょう。私という人格の中心は「私」などでは全然ないのです。

IV

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(23節)

 キリストは攻撃や虐待に対して、同じものを返さなかった。

 先週の役員会で、来週開かれる教会総会の資料原稿を点検したさいに、年間行事予定に「非難訓練」とあるのが見つかりました。もちろん同音異義語「避難」のワープロ変換ミスです。皆で笑いながら、「人の悪口を言う練習会ですか?」「いや、人から批判されるのに慣れる訓練だよ」「それならぜひやりましょう!」と、しばし冗談を言い合いました。

 それはともかく、「ののしらられてもののしり返さず」という聖句を、他人から意図的に苛めてもらい、それを黙って耐えることで自分を鍛えるというような、倒錯した自己栄光化の意味に理解してはならないでしょう。

 山上の説教のイエスは、〈悪に歯向かうな。右の頬を打つ者には、左をも差しだせ〉と教えました(マタイ5,38参照)。これは本来、悪をストップするためには、その悪を自分が受けた段階でスポンジのように吸収してしまいなさい。それしか仕返しの連鎖という悪循環を止める手はない、という意味だろうと思います。

 では、「正しくお裁きになる方にお任せになりました」とはどういう意味でしょうか?

 この世の終わりが来れば、神さまがすべてお裁きになるのだから、この世で他人が不当に苦しめられていても気にせず、自分がひどい目に遭っても、きっと神さまが報復して下さると堅く信じて、ひたすら我慢しなさい、という意味なのでしょうか。

 しかしイエスが悪を見逃し、不正義を無視し、じっと世の終わりを待ち望んでいただけであったなら、決して殺されることはなかったでしょう。神の最後の審判をそのような意味で理解していたなら、そもそも宣教活動を、とりわけ「罪人」と呼ばれた人々への働きかけをイエスが始めることもなかったでしょう。

 私たちの問題は、むしろ平和と和解を求める運動においてすら、路線対立や誹謗中傷あるいはパワーゲームなど、およそ平和に似つかわしくない要素がつきまとうことにあります。

 〈正しい審判者である神に明け渡す〉とは、根本的に静かでいることではないでしょうか。言うべきことは静かに言い、なすべきことは黙々となす。声高に自分の主張を通そうとしたり、根回しや世論操作に血眼になったり、あるいは集めた個人情報をネタに人をやんわり脅したりしない。むしろ神の前に静かにしている。

V

彼は私たちの罪を自ら運びあげた、彼の体で、木の上へと。私たちが罪に死に分かれ、義に生きるようになるために。彼のミミズ腫れによって君たちは癒された。(24節参照)

 「運びあげる」(新共同訳「担う」)とは、犠牲獣を神殿の祭壇の前に引き出す(そして屠殺する)ことを指す祭儀用語です。イエスの十字架は神殿の外で生じましたが、神殿の一番奥の聖所で行われる動物供犠に準えられています。そのときイエスは「祭司」の役割と殺される「犠牲獣」の役割を兼務していることが特徴的です。

 「木の上へと」(新共同訳「十字架にかかって」)という表現は、「木にかけられた死体は神に呪われたものである」という申命記の言葉(21,23)を意識したものであるかもしれません。その場合、十字架は「呪い」の場所であり、「私たちの罪」が「私たち」から分離されてそこに棄てられたということになるでしょう。するとキリストは、イスラエル民族のすべての罪責と穢れを背負って荒野の悪霊のもとへと「運び出される」贖罪の山羊(レビ記16章)のように、「私たちの罪」を運び去る存在としてイメージされているのかもしれません。

 「彼のミミズ腫れによって君たちは癒された」(新共同訳「その傷によって…」)。「ミミズ腫れ」とは鞭打ちの傷のことです。この発言もまた、イザヤ書の引用です(53,5以下)。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 古代から、友人・家族・国家のため、法律や正義のために自らを犠牲にする死という伝統があります。「~のための死」という理想的で英雄的な態度です。例えば、ローマ帝国の内戦によって多くの罪なき血が流されたことを悔いて、その贖いのために敵軍の前に我が身を投げ出した小カトーの死は、パウロと同時代の作家ルカーヌスの手によって、次のように描かれます(『ファルサリア』II,320-323)。

私の血が諸国民のための贖いとなるように。私の死が、ローマ人たちが堕落のゆえに招き寄せたすべての罪に対する贖罪となるように。

 苦難の僕、第一ペトロ書簡が描くイエスの死も、広い意味でこの系列にあります。それは狭い意味での神殿祭儀の外側で生じる、しかし同様に共同体に保護と救いと贖いをもたらす模範的かつ英雄的な死です。

 もっとも大きな違いもあります。苦難の僕もイエスも、その死は一見したところ決して模範的でも英雄的でもなく、むしろ悲惨かつ屈辱的な死だったことです。それは、むしろ「ののしり」の対象になるような死でした。

わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。(イザヤ53,4)
おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。(マルコ15,29-30)

 「ミミズ腫れ(/傷)によって癒す」とは、どういうことなのでしょうか。――〈自ら傷を受けた者が、他者の傷を包みこむ大きな力を発揮する〉という意味に理解することも可能だろうと思います。

 先日、村上牧師が、野生のオオカミと生きた動物学者の話をされたのを覚えておられますか。母オオカミから誤って顔を踏まれ、顎を砕かれるという障がいをもつ子どものオオカミが、心と体の両方に重い障がいを負って14年間、一度もにこりともしたことのない少年の顔をなめて、この少年が初めて涙を流したという話です。

 このエピソードは、傷を受けた者が大きな癒しの力を発揮する、という働きがこの世に存在することを示しているように感じます。そしてキリストは、この働きの記念碑になりました。

VI

 この世には、悪と不正義があります。それをないかのごとくに言うことはできません。では、どう対抗すればよいのでしょう。私たちの意思で悪を根絶できるでしょうか。おそらく無理だと思います。人は神に反逆する罪人ですので。

 イエスの生と死も、罪と不正義の根絶を強制的に執行するものではありませんでした。彼はむしろ、不義なる暴力をわが身に引き受けることで、悪の力を吸い取ってしまおうとしました。彼の処刑死は、そうした生き方の行き着く先であったように見えます。その死はしかし、隠された仕方で「私たちのため」の、罪をとりのぞいて救いをもたらす死でした。

 「ののしられても」――この世界には、あってはならない故なき苦難があります。暴力の犠牲者が声をあげても、あろうことか、しばしば「お前は黙っていろ!」とののしられるのです。それもまた不正義です。そしてこの不正義は巨大な壁のようで、その前で私たちは無力です。しかしこの無力さは、キリストの生と死にも特徴的だった、と今日の聖書箇所は言います。「正しくお裁きになる方にお任せになりました」。

 ふたつのことを申します。この世に悪があるとき、私たちは「この悪はあってはならない」と声をあげて言いましょう。そして、それを腕力(暴力)で廃絶することを放棄しましょう。そしてもうひとつ。力で悪を廃絶することに代えて、悪によって傷つけられた人々と共に歩むことを目指しましょう。そのとき私たちは「ののしられる」かも知れませんが、そのときこそ、キリストが私たちと共にいて、彼が私たちのために何をなされたかが理解できるようになるに違いありません。


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