イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(3)大群衆が統治体の解釈の間違いを指摘するのは?

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

  聖書的に聖書に関する解釈をすることが許されるのは一部の聖霊で油そそがれた長老であるエホバの証人の統治体の兄弟たちだけなのでしょうか。大群衆の兄弟たちがエホバの証人の統治体の兄弟たちの聖書の解釈の間違いを指摘することは神の目に許されることですか。どのようにそうできるでしょうか。考えてみましょう。 この記事は、シリーズで、今、(1)から(3)まで出しています。「(1)統治体の権威に逆らうことはモーセの権威に逆らうことと同じですか」「(2)統治体が聖書の解釈で間違っている時どのように対応したらいいですか」も参照されてください。今後も、(4)と(5)と(6)のシリーズの続きを出すつもりです。 

(1)大群衆の兄弟たちが従うべき相対的な従順の原則 

 大群衆の兄弟たちでも、わたしたちが第一に従うべきなのは、エホバ神であり、イエス・キリストです。(コリント第一11:3新世界訳改訂版)確かに、羊のような人々は、イエスの兄弟たちである聖霊で油そそがれたクリスチャンに協力することが求められています。(マタイ25:40,45,46) 

 しかしながら、天的な希望を持つクリスチャンも皆不完全で罪を犯すことがあります。その場合、大群衆の兄弟たちが聖霊で油そそがれたクリスチャンに盲従するのは、神の目に正しいことではありません。 

 ですから、大群衆であっても、もし、聖霊で油そそがれたクリスチャンの行動がエホバ神の崇拝と聖書の神の律法に違犯する場合、とりわけイエスの言葉を含む聖書の言葉に第一に従うことが求められます。クリスチャンは「人ではなく神に従わなければ」ならないからです。(使徒5:29新世界訳改訂版) 

使徒たちは人間ではなく神に従うという選択をしたたとえ証人の統治体であっも間違っているなら神に従わなければならない

 

 例えば、預言者ナタンは、油そそがれた者であるダビデが、姦淫と殺人を犯した時に、それが神の目に間違っていることを勇気をもって指摘しました。(サムエル第二12:7-14)ダビデは、権力を持っていたので、もし、ナタンの言葉がダビデの怒りを引き起こしたなら、ナタンも殺されていたかもしれませんが、幸いにダビデはナタンの言葉を受け入れました。 

   しかしながら、預言者がいつもナタンのように王の悪行を指摘して、うまくいくとは限りませんでした。なぜなら、王が皆ダビデのように神のみ前に謙遜であるとは限らなかったからです。例えば、バプテスマのヨハネはヘロデ王の悪行を指摘して投獄され、殺されてしまいました。(マルコ6:6-8) 

 いずれにしても、ナタンは油そそがれた者であるダビデに従うのではなく、エホバ神とその律法に第一に従いました。ナタンは、エホバに第一に従い、油注がれた者に対する従順が相対的なものであることを理解して行動した点で、わたしたちの立派な模範でした。 

ナタンは油そそがれた者ダビデではなくエホバ神に第一に従った点で模範的だった 

 

 ですから、大群衆の兄弟であっても、神の言葉から、聖霊で油注がれた者である統治体の兄弟たちの間違いを指摘することは、神の目に正しいことだと思います。 

 いわゆる真理において新参者のパウロが、真理において自分より長いペテロやバルナバが「割礼組」の影響を受けて正しくない行動をとった時に、面と向かって逆らったこともありました。(ガラテア2:11-14新世界訳改訂版)それで、真理に長いクリスチャンが必ずしも、聖書の正確な知識を理解してそれに従っているとは限りません。 

新参者のパウロが真理に長いペテロの間違いを神の言葉から指摘した

 

 ですから、パウロの事例から、天的な希望あるいは地的な希望を持つとしても真理において比較的新しい人が、統治体の兄弟たちよりも、聖書の正確な知識を持ち、それに従っている場合があるでしょう。 

 それで、大群衆の兄弟姉妹が統治体の兄弟の聖書の解釈の間違いに気づくということもあるかもしれません。その間違いを指摘するよう動かされる地的な希望のクリスチャンに、エホバ神が天の王国の希望を与えるということさえ、あるかもしれません。 

 昔もエホバ神は何らかの特定の仕事を行なわせるために預言者を選んで任命するということをよく行われていました。(エレミヤ1:5)エホバ神は特定のご自分の目的を達成するため自分の僕を特定の立場に任命して仕事をさせることがよくありました。 

(2)神の言葉を教える責任は聖霊で油そそがれたクリスチャンに任せるのが賢明かもしれない 

 しかしながら、聖書は、とりわけ、神の言葉を教える責任は、神は聖霊で油そそがれたクリスチャンにになわせることを示しています。「祭司の唇は知識を保つべき」で、「律法は,民が」祭司の「口に求めるべきもの」だと記されています。(マラキ2:7新世界訳改訂版)ですから、祭司級のクリスチャンが聖書に基づいて論じることが期待されています。 

祭司級にとりわけ神の言葉から教えることは任されている 

 さらに、民数記には、「アロンとその子たちを任命し,彼らが祭司職を担う。許可されていない人が近づくなら,死刑にされるべきである」とあります。 (民数記3:10新世界訳改訂版)ですから、基本的に、昔は、祭司の仕事は、祭司に限定されていました。 

 モーセの律法下では、祭司が行うべき仕事を他の神の僕が行うことは許されず、その取り決めに反するならば、神に裁かれて命を落としたりということがありました。(歴代第二26:18,19)そして、モーセの律法で規定されていたことは、エホバ神が求められる基本的な方針や原則を示しています。 

 さらに、教えるということは重大な責任が伴うことです。「皆さんの多くが教える人になるべきではありません。教える私たちは,より厳しく裁かれるからです。」とあります。(ヤコブ3:1新世界訳改訂版) 

 ですから、どちらかというと、天的な希望を持っているという自覚のある人が天的な希望を持つ人の聖書的な間違いを指摘した方が、問題が少ないのではないかと思います。 

 しかしながら、昔、モーセの律法で定められていたことは、基本的に無効にされています。(エフェソス2:15新世界訳改訂版)ですから、モーセの律法の祭司の仕事の規定に反したとしても、神に第一に従っているわけですから、エホバ神が即座にその大群衆の兄弟たちを裁くということもないと思います。また、エホバ神に第一に従うという原則が、最も重要なことだと思います。 

(3)組織による「奇妙で異例な指示」にも従うことについて  

 2013年11月15日号のものみの塔にエホバの証人の統治体によって「奇妙で異例な指示」にも盲従するようにという指示が出されました。もちろん、統治体の指示が聖書に調和していれば、それがどんなに「奇妙で異例な指示」であっても、従うのは間違いではありません。 

 でも、大群衆も、第一にエホバ神とイエス・キリストに従う必要があります。そして、その指示が誰から出たものであっても、たとえ、証人の統治体の聖霊で油そそがれた長老から出された指示であっても、エホバとの関係を考慮しないで、思考力を働かせないで盲従するということには危険があります。 

 なぜなら、パウロも、エフェソスの聖霊で油そそがれた長老に対して、「皆さんの中からも,弟子たちを引き離して自分に付かせようとして曲がった事柄を言う者たちが現れます 」という警告を与えました。(使徒20:30新世界訳改訂版) 

 ですから、過去の聖書の事例が示しているように聖霊で油そそがれたクリスチャンであっても、決して、罪を犯さず、判断で間違いをしないということはないのです。聖霊で油そそがれたクリスチャンであっても、知識の不足のため、判断を誤ったり、あるいは、意図的に自分の権威を高めるために、聖書から離れたことをいう場合があるかもしれないのです。 

 ですから、まず、大群衆の兄弟たちは、その指示が、エホバ神の崇拝や神の律法から引き離すものでないか、聖書の律法や原則と調和しているかを考慮する必要があります。 

聖書に基づいて思考力を働かせてエホバに第一に従う必要があります

 

 男性は、人間ではなく、第一にイエス・キリストに従わなければなりません。ですから、イエスの指示と調和していないならば、その指示に盲従するのは、危険があります。(コリント第一11:3新世界訳改訂版)そして、万が一、その指示が、エホバ神とイエス・キリストに従うことから離してしまうようであれば、その指示には従うべきではないと思います。 

 エホバ神を第一にするために、証人の統治体のある指示が聖書的に正しいかどうか識別力と思考力を働かせることが必要だと思います。そして、上にも述べたように聖書と調和していれば、従うのは問題ではありません。 それで、大群衆の兄弟たちが、統治体の兄弟の指示が、聖書的に正しいかどうかを考慮して、従うのは正しいことです。さらに、大群衆の兄弟たちが、エホバの証人の統治体の兄弟たちの聖書的な解釈の間違いを指摘することも、エホバとイエス・キリストに第一に従うことですから、神の目に間違っていないと思います。  しかしながら、油そそがれた者ダビデは、サウル王の油そそがれた立場に最大限の敬意を払いました。ですから、とりわけ、従来の聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老が創造者エホバ神に対する崇拝と信仰を育み、神の目に正しいことを行うよう努力をしている場合、とりわけその立場に敬意を払うことが求められると思います。 

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